不幸者は誰か
小鳥のさえずりが聞こえてくる早朝。
私はまだ抜けない眠気と闘いながら、探偵社への道を歩いていた。

昨日も夜遅くまで事務処理が残っていて、中々帰れなかった。今日も自分の机の上に積まれているであろう書類を想像すると、思わず頭を抱えたくなる。
気を抜くと出そうになる欠伸を必死に噛み殺していると_ふと、通り過ぎようとした裏路地から聞き覚えのある声が私を呼び止めて、私は足を止めた。

「なまえちゃん」

からかうような、それでいてどこか読めない、軽やかな声。
そちらに目をやると、やはりそこに居たのは予想していた通りの人物だった。

「あ、江戸川さん、おはようございます」

江戸川乱歩さん。我が探偵社の一員にして、誰からも尊敬される一人である。
そんな一目置かれる彼が、私の目の前で今何をしているかと言うと_

「…何やってるんですか?」

「見て分からないのかい、ミケのブラッシングだよ!」

…熱心に、抱えた猫の毛づくろいをしていらっしゃる。
抱えられた猫(ミケと言うらしい)は気持ちよさそうに彼に体を委ねていて、心地がよいのであろうことは容易に想像がつく。

確かに、江戸川さんは猫が好きだ。
社長である福沢さんはもちろんのことだが、彼もよく猫とじゃれたり餌をあげたりしているのはよく見ることだから、別に彼が猫の毛づくろいをしようと何をしていようと別に構わない、のだけれど。

「江戸川さんの出社時間まで随分時間がありますけど…」

そう。彼は普段探偵社には中々出社してこない。所謂社長起床という時間に起きるらしく、昼過ぎに眠そうに目をこすりながら出社してくるのを何度も見ている。
たまに早く来ることもあるが、私が出社するのは会社の始業時間より大分前。つまり、江戸川さんの普段の時間にはやはり早すぎるのだ。
私が首を傾げていると、江戸川さんは名残惜しそうにミケを一撫でした後_立ち上がって、裏路地を抜けて私の方へと歩いてきた。

「んー…なんとなく!」

へらり、と目の前の彼が笑うと、ゆるく結ばれたネクタイが彼の首元で揺れる。
やっぱり、江戸川さんの考えていることはよく分からない。私が「そうですか…?」と曖昧な返事を返すと、彼はにこにこと笑顔を崩さないまま私の背中をポンと叩いた。

「まぁせっかくなまえちゃんと会ったし、僕が一緒に出社してあげよう!」

いやあの、一人で出社くらいできます。
思わず出そうになったそんな言葉を飲み込む。乱歩さんは滅多なことでは怒らないけれど、随分気紛れだからどうせなら早くから出社しておいてくれた方が探偵社的にもありがたい。

「…じゃあ、よろしくお願いします」

「うんうん、いい返事だね」

江戸川さんは随分ご機嫌みたいだ。何かいいことでもあったのかな?
鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で楽しそうに私の横を歩く江戸川さん。けれど、私は緊張してしまって微妙に気まずいような、逃げ出したいような気持ちのまま彼の隣りを歩く。

別に彼が嫌いなわけではないのだけれど。
江戸川さんは何と言っても探偵社の要のような人で、社長も何となく江戸川さんに対しては寛容なところがあると思う。
それに比べて私はただの事務員で、特に彼のように何かができるというわけでもなく、いつも事務処理ばかりしているような人間だ。
探偵社の人たちは比較的私たちのような能力を持っていない人にも分け隔てなくて、国木田さんや中島くんなんかはよく話しかけてくれたりする。

けれど、それでもやっぱり何となく壁のようなものは感じるわけで。
こうやってあちらから話しかけられると、私はどうしていいか分からなくなってしまうのだ。

横を歩く江戸川さんにチラリと目線をやる。彼は両手を頭の後ろで組んで、いつもの笑っているんだかいないんだか、な表情を浮かべていた。
ふとこちらを見た彼と、目が合う。

「なまえちゃん、」

薄く開いた彼の鋭い目が何もかもを見抜くようで、私はドキリとした。
そのまま彼は私の手をゆるやかに取り、静かに距離を詰めてくる。

「え、あの、え、えどがわさ、」

距離が近い、近すぎる。
私が後ずさろうとしても手は江戸川さんに掴まれていて、逃げ場がない。
一体全体これはどういう状況なのか。私の頭が混乱しかけてきたその時、江戸川さんがぽつりと呟いた。

「今日、朝ごはんは焼き魚、昨日寝た時間はいつもより遅かった、今日の仕事は外回り…だね!」

「へ?」

私は目を白黒とさせる。
掴んでいた手を離してくれたので再び同じくらいの距離に戻ったのは有難かったが、それより江戸川さんが言った発言がようやく脳に届いて、私は素っ頓狂な声を上げた。

「どうして分かったんですか…!?」

江戸川さんが今呟いたのは、全部私のことだ。
けれど、江戸川さんは私の家での様子なんて知らないはず。今日会ったのは、今が初めてだし、昨日は私より江戸川さんが先に帰ったのだから。
驚きの表情を浮かべる私を見て、江戸川さんは悪戯っ子のように嬉しそうに笑った。…この人は、人のこういう表情がどうも好きみたいだ。

「僕は名探偵なんだから、そりゃそれくらいは分かるよ」

「で、でも異能力も使ってないのに…」

「このくらいのこと、僕の超推理を使うまでもないことだね!」

江戸川さんはそう言って得意気な表情を浮かべると、未だぽかんとした表情を浮かべている私の肩をぽんと叩く。
それから、薄く骨ばった綺麗な人差し指をピンと立てると、再び歩き始めながら彼は口を開いた。

「先ず、朝ごはん」

_ミケがなまえちゃんを見たとき、すぐに反応してね。
ミケは魚に目がなくてね、魚のにおいがすると、耳が立つんだ。
朝から煮魚や刺身を食べることはまずないだろうし、これは消去法ですぐ分かったよ。

「次に、睡眠時間」

_さっきから随分眠そうだし、睡眠時間が足りてないんじゃないかと思ってね。君は会社じゃ欠伸なんて滅多にしないだろう?
それに、髪に寝癖がついてるし、いつもより少し乱れてる。
大方遅刻するほどでもないけど少し寝坊して、身支度に時間がかけられなかったってところかな!

「で、今日の仕事内容」

_普段より服装が若干フォーマルだから、今日は会社以外の人間と会う予定があるんだろうと思ったんだ。
恰好からして友人じゃないだろうし_それに、なまえちゃんが手に持っているその封筒に入った会社のロゴは、僕たちが取引している会社のものだから、そこに行くんだろ?

「_ね、誰にでもすぐ分かることだよ」

そう言って、江戸川さんは薄く唇を釣り上げる。まるで、空は青いとでも言ったかのような表情だ。
私は停止していた思考を無理矢理動かすと、ゆっくりと口を開く。

「江戸川さん流石ですね…!凄いです!」

凄い。彼は本当に凄い。
思わず私がはしゃいで両手を叩くと、江戸川さんは「僕にはこれくらい朝飯前さ」と当たり前のように呟いて、私の頭をぐしゃりと撫でた。

(…あ、私普通に話せてる)

さっきまで随分緊張していたというのに、今や私は江戸川さんの前で大はしゃぎしていた。
もしかして、江戸川さんはこれを分かっていて私に謎明かしまでしてくれたのだろうか。だとしたら、彼は本当に凄い人だ。
それにしても、彼は随分観察眼に優れているんだなと私は感嘆する。普通、興味ない相手のそんなところまで見ないだろうに。

「私なんかまでよく見てるなんて、江戸川さんは矢っ張り皆さんが尊敬するだけありますねえ」

と、思った言葉が、口から零れる。
私はもちろん褒め言葉のつもりで口にしたのだが_それを聞いたとたん、江戸川さんの表情は少しだけ曇った。
あれ、私何か変なことを言ってしまったのだろうか。

「君だから見てるんだけどな…」

彼が何か呟いたような、気がしたけれど。
私にはよく聞こえなくて、けれどそれを聞き返すのはなんだか申し訳ない気がした。
江戸川さんは普段からよく通る声で話す。だから、きっと今のは聞かれたくない独り言なのだろう。

そんなことを考えながらも、私は黙り込んでしまった江戸川さんに対してなんと声をかければいいのか分からず、思案だけが頭を巡る。
どうしよう。何か気分を害すことを言ってしまったのなら、謝らないと_

「ねえ、なまえちゃん」

「は、はい!」

突然に江戸川さんが私の名前を呼んだ。それに驚いた私の肩は思わず跳ね上がってしまって、背筋を伸ばしたまま彼の方を向く。
だけれど、江戸川さんはそんな私の様子は見えていないみたいで。何やら口の中で呟きながら、思案に暮れているみたいだ。
やがて答えが出たのか、彼の鋭い双眸が私を射抜くようにこちらを見る。

「あのさ、僕_」

「あれ、みょうじさん?」

「「…あ」」

中島くん、という私の声と、敦くん、という江戸川さんの声が重なった。
交差点の先で、私たちに向かって手を振っていたのは、探偵社の新入りである中島_中島敦くんだった。
こちらに気づいた敦くんは表情を明るくして歩いてくる。その後ろには、途中で会ったのか国木田さんの姿もあった。

…国木田さんの顔色が随分悪いように見えるのは、気のせいだろうか?

「国木田さん、中島くん、おはようございます」

「おはようございますみょうじさん、乱歩さんも一緒だなんて珍しいですね!」

「そこで偶然会ったんです。せっかくなので一緒に出社をと_」

ふと、江戸川さんの方を見る。彼の表情を見て、私は思わず固まった。
誰が、どこから、どう見ても。

(めちゃくちゃ不機嫌そうな顔してる…!?)

流石にその表情には中島くんも気づいたのか、私と江戸川さんを見比べて狼狽した表情を浮かべている。
国木田さんは悪かった顔色をますます青くして、中島くんに何か必死に言いたげな顔をしているが、言っていいのかどうか迷っているみたいだ。
一体全体いつ、どこで、江戸川さんの機嫌を損ねてしまったのだろうか。
私はうろたえながらも、恐る恐る殺気すら発していそうな江戸川さんに声をかけてみる。

「…あの、江戸川さん…?」

「…帰る」

「え?」

「僕帰る!帰って寝る!」

先ほどの真剣な表情は何処へやら、急に子供のように駄々をこねながら江戸川さんは歩いてきた道と反対の方向をくるりと向いてしまう。
私と中島くんが呆気にとられていると、私たちの間をすり抜けて国木田さんが随分慌てた様子で江戸川さんに話しかける。

「ら、乱歩さんこれには訳が」

「聞きたくない!」

スパッと一刀両断。
そのままずんずん歩いて行ってしまった江戸川さんの背中を見ながら、国木田さんはがっくりと肩を落としてこちらへと戻ってきた。
どうやら国木田さんは何か知っていたみたいだ。青い顔色のまま、俺の理想が、計画が…と呟いている。

「国木田さん、何かご存じだったんですか…?」

知っているなら、江戸川さんに謝りたいから教えてほしいです。
そう言って彼の目を見ると、国木田さんは唇を横一文字に結んで黙り込んでしまった。
中島くんにも目を向けてみるが、どうやら彼は何も知らないらしく、困ったような笑顔を浮かべて首を横に振っている。
となると、頼れるのは国木田さんのみ。私はもう一度、お願いします、と頭を下げる。

「…俺が言うと、益々乱歩さんを怒らせるだけだ」

そう言った国木田さんは、眉間に皺をぎゅっと寄せて再び口を閉じる。
そして、この話題はもう終いだとでも言うように探偵社へと足を踏み出してしまった。

…結局、私と中島くんは何も分からないまま。
探偵社に着くまでの間、二人でずっと江戸川さんの様に推理をしようとしてみたものの、そう上手くいくわけもなく。
私たち二人は首を傾げながら、探偵社のドアを開くのだった。

その少し未来で、私は事の真相を知ることになるのだが、それはまた別の話だ。

(乱歩さんが今日こそみょうじに告白すると言うから絶対にあの道だけは通らないようにしていたのに…何故俺の計画はいつも邪魔が入るんだ…!)
…それから、国木田さんの計画が江戸川さんの手によって滅茶苦茶になれるのも、また少し先の話。

prev topnext

ALICE+