ヒラリ、となまえの目の前を何かが舞った。
もしかして、と顔をあげてみれば、やはりそれは雪である。ひらひらと白い結晶が舞うのを、なまえは思わずぼんやりと眺めていた。
(…もう、そんなに寒くなったんだなあ)
吐息をひとつ吐いてみれば、それは白い蒸気になって視界に映る。
途端に寒さが込み上げてきて、なまえは身震いした。
早く用事を済ませて帰らなければ。
今日のなまえの任務は、最近探偵社に舞い込んできた依頼の聞き込み調査である。
ここ最近、探偵社の依頼が増えてきた。
普段ならばなまえがあまり外に出ることはないのだが、皆各々事件を抱えており、そう言った調査に時間を取れないらしい。
ならば私がと、自分で名乗りを上げたまではよかったのだが_
「マフラー持ってくればよかった…」
先日まで上着一枚で過ごせていたとはとても思えない寒さである。
一応コートは厚手のものを出してきていたが、マフラーと手袋は生憎自宅のタンスに仕舞われたままだ。
なまえは小さく咳をする。どうやら風も出てきたらしい。
明日こそはマフラーと手袋を持ってこよう。そんなことを考えながら、なまえは再び歩を進め始めた。
*
ガサガサと響いた音に、思わず手元を見遣る。
乱歩の予想通り_先程まで袋の中に入っていた駄菓子は、全て無くなっていた。
「国木田くーん!お菓子無くなっちゃったよ!」
声を上げてみる。が、返事は無い。
おや、と乱歩はそこで初めて手にしていた新聞(四コマにしか興味はなかったが)から顔を上げた。
くるりと事務所を見回してみるが、見渡す限り人影は無い。
いつもならば、誰かしらが返事をしてくれる筈だ。つまり、事務所の声が届く範囲には今誰もいないのだろう。
「全く皆不用心だなあ!今敵襲にでもあったらどうするつもりなんだろね!」
まあ僕がいるからそんなことはありえないけどね、と自信たっぷりに言い切る乱歩。
室内に人影は見当たらなかったが、社長である福沢は社長室に居る筈であるし、確か与謝野は怪我人が出たからと医務室に向かったはずだった。
全くの無人、というわけではない。それに_
「…一人、帰ってきたみたいだしね」
そう乱歩が呟くと同時に、探偵社のドアが音を立てて開かれる。
ドアの向こうから姿を現したのは、やはり乱歩が想像していた通りの人物だった。
「只今戻りました…って、乱歩さんだけですか?」
「おかえりなまえちゃん、ところでお菓子持ってない?」
雪が積もったコートを着て室内に入ってきたのは、探偵社の一員であるみょうじなまえであった。
質問に一切答えず質問で返した乱歩に、なまえは少しだけ苦笑いしてから、手に提げた袋を持ち上げる。
「そう言われるかと思って、肉まん買ってきました」
「やった、さあさあ暖かいお茶でも淹れて食べようよ!」
そう口にしつつも、乱歩は動く気配がない。いつものことながら、この人のこの態度には関心すら覚えるなあとなまえは考える。
なまえはお茶を淹れようと給湯室に向かおうとしたが、コートについた雪がひやりと頬に触れて思わずくしゃみをしてしまった。
玄関口で一応落としたつもりだったのだが、完全には雪は落ち切っていなかったらしい。
「すぐ準備するので、少しだけ待っててくれますか?」
とりあえず雪を掃って、コートをかけてしまおう。
なまえがそんなことを思いながらコートを脱ごうとすると_座っていた乱歩が、立ち上がってこちらへと向かってきた。
「?どうかしました_」
「えいっ」
ぐしゃぐしゃと突然乱歩に乱暴に頭を撫でられ、なまえは目を白黒とさせた。
止める暇もなく、なまえの髪の毛が乱れていく。
「んー…やっぱ手じゃちゃんと落ちないや。後はタオルで拭いてね」
そういうと、乱歩は再びソファに座り込んでしまった。
なまえは一瞬の出来事に、ぽかんとする。
恐らく乱歩は頭についた雪を払おうとしてくれたのだろうが_
(頭ぼさぼさになっちゃいましたよ乱歩さん…!?)
お湯を沸かすまでにすることが一つ増えてしまった。なまえは早くしてね、と楽しそうに笑う目の前の名探偵を見ながら、小さくため息を吐いた。
*
湯呑みをお盆に乗せてなまえが給湯室から部屋に戻ると、待ち切れなかったのであろう乱歩が既に一口肉まんを齧っているところだった。
詰まらせないように気を付けてくださいね、なんて子供に言い聞かせるように目の前に乱歩の湯呑みを置くと、乱歩は唇を尖らせて反論する。
「そうやって君はすぐ僕を子供扱いするけどね、僕から見たら皆の方が子供なんだよ」
一体どこがですか!と思うが、なまえは口にしない。
実際探偵社は乱歩の能力で持っているようなものだ。言動こそ子供っぽいが、乱歩には皆一目置いている。
乱歩の隣に座って湯呑みに一口口をつけると、温かい緑茶が冷え切った体を温めてくれる。
「はぁ…寒かった」
「こんなに寒い中外に出るなんて馬鹿のすることだよ、こういう日は中でごろごろするに限るね」
「うーんでも、私みたいな一般人は地道に調査しないとはじまらないので」
乱歩の能力を使えばたちどころに解決はするだろうが、全部彼に頼りっぱなしというわけにもいかない。それに、彼は気に入った事件しか担当しないのだ。
平気な顔をしているが、乱歩だって今日も仕事をして疲れているのだろう。テーブルの上に駄菓子のゴミが散らかっているけれど。四コマだけ読まれたのであろう新聞が積みあがっているけれど。いやきっと仕事をしたに違いない。なまえは半ば無理やりに思い込む。
「ところで、先程も聞きましたが今は誰も居ないんですか?」
「僕が居るよ、後今なまえちゃんが帰ってきた」
しれっと答えてパクリと肉まんを頬張る乱歩。なまえが聞きたいのはそういうことではなかったのだが、乱歩がそう答えるということは今は誰も居ないのだろう。
社長である福沢の湯呑みは無かった為、恐らく別室の社長室にいるのだろうが_
それにしても皆居ないとは珍しい。静かな室内を見回すと、窓の外は相変わらずの雪景色だった。
「雪、積もりますかねえ」
「積もるね!明日は皆で雪合戦しようよ、国木田くんが鬼で」
はて、雪合戦とはそういう遊びだっただろうか。
しかし、鬼役をやらされてカンカンになりながら皆を追いまわす国木田の姿は容易に目に浮かぶ。なまえは苦笑した。
温かい緑茶を飲みながら、二人で肉まんを食べる。仕事はまだまだ終わりそうにないが、心が落ち着いていくのをなまえはしみじみと噛みしめる。
…落ち着きすぎて、少し眠くさえなってきてしまったが。
「あ、そういえば社長はお部屋にいらっしゃるんですよね?私、お茶持っていきますね」
眠気覚ましに少し動こう。そう思って、なまえは立ち上がろうとしたのだが、その手を暖かい手がぎゅっと掴んだ。乱歩の手だ。
体温まで子供のように高いのだと、そんなことを思う。それか、なまえの手が冷え切っているせいだろうか。
なまえの手を掴んだ乱歩が口を開く。
「なまえちゃん、口に肉まんの欠片ついてるよ」
「え、本当ですか!?」
社長にそんな姿を見せるわけにはいかない。なまえは慌てて口元に手をやろうとしたが、それは叶わなかった。
掴んだ手を乱歩が自分の方に少し引き、乱歩の方に引き寄せられる。
いつも閉じられている目が少しだけ開いて、その瞳に窓の外の雪がキラキラと映りこんでいた。
_なまえが目を閉じる暇もなく、唇が触れる。
乱歩の唇は暖かくて、まるで触れたところがじわりと溶けてしまいそうだった。
「…はい、とれたよ!」
パッと手を離して、乱歩が笑う。
なまえは数秒固まっていたが、事態に気付くとガタンと湯呑みをひっくり返しそうになりながら慌てて乱歩との距離を取った。
「…絶対肉まんついてませんでしたよね!?」
「失礼な!僕がとってあげたんだよ!」
顔を赤くして乱歩に怒ってみるが、彼は謝るどころか胸を張って主張している。
こういう時は何を言っても無駄だ。なまえは文句を言いたい気持ちを抑えて顔を逸らす。
「なまえちゃんの唇冷たくて気持ちよかったね」
へら、と笑う乱歩の表情は子供っぽいが、言っている言葉はとんだ小悪魔だ。
「事務所でそういうことしないで下さいって言ってるじゃないですか〜…」
「僕は僕がしたいことをしたいときにする!」
まったく胸を張れたことではない。なまえは怒りたかったが、それよりも羞恥心が勝ってしまって思わず頬に手を当てる。
事務所には確かに今は誰もいないが、誰が帰ってくるかもわからないし、そもそも社長室には社長が居るのだ。別に社長はこんなことで怒ったりはしない人だが、もしこの光景を見られていたらなまえは三日は出社できないだろう。
うう、となまえが赤くなった頬から手を離すと、乱歩が再びなまえの手を引いた。
今度はぎゅうと体ごと抱きしめられる。今なまえが言った言葉を全く聞いていないらしい。
「だから、そういうのは、」
「帰ってから後でね!」
「…そういうことです」
分かっているなら何故今こんなことをするのか。なまえが乱歩を恨めしい目で見ると、乱歩は随分楽しそうに笑っていた。
「なまえちゃんが寒そうだったから風邪引くと思ったんだよ」
でも、と呟くと、乱歩はなまえの赤くなった頬に触れるだけのキスをした。
今度はなまえの頬は冷たくない。むしろ、乱歩の唇より熱いくらいだった。
「もう大丈夫みたいだから、社長にお茶持って行っていいよ!」
「……この顔で持っていける訳ないじゃないですかーっ!!」
耳まで赤くしたなまえが叫ぶ。
窓の外では深々と雪が降り積もって、横浜の街を白く染めていった。