_ポオが呟いた、その一言が始まりだった。

「……なまえ君の指は、美味しそうなのである」

「…は、い?」


*


事の発端はポオ_エドガー・アラン・ポオの部屋で起きた。
ポオの部下であるなまえは、生活能力が極端に無い(放っておくと彼は餓死寸前まで何も食べない)彼のお世話係兼護衛のようなものとして、いつも通りポオの部屋の掃除や家事を行っていた。

ポオはいつも通り羽ペンを持ったまま、原稿用紙から顔を上げようとしない。
ここに来てなまえがポオと話すタイミングは朝と夜の挨拶、それから食事を共にする間だけの僅かな時間だ。
彼の親友とも言えるべき存在のアライグマのカールはなまえによく懐いていて、餌の時間になると自分からやってきて軽く鳴き声を上げる。
組合での殺伐とした生活よりはずっとずっと平和で、なまえが時々自分は日陰者だと忘れそうになってしまうくらいだった。

それでも、偶にそう言った依頼が設計者長であるポオには回ってくる。その時の姿をなまえはとても魅力的に思っているのだが_それはまた、別の話だ。

話を元に戻すと。

粗方の家事を終わらせたなまえは、ポオの集中力を途切れさせぬようそっと彼の机の上にあるティーカップの中身を覗いた。
やはり中身は空になっていて、なまえが傍に置いておいたティーポットの中身はとうに冷め切っている。
時計を見れば、時間はアフタヌーンティーには丁度いい頃合いだ。なまえはキッチンへと向かうと、彼のお気に入りの茶葉や自身の好きな洋菓子店の箱を取り出した。
紅茶を淹れて、カップと揃いの装飾が施された小皿へとケーキを慎重に移す。
それらをトレイに乗せてポオの元へと向かうと、ポオよりも先にカールが反応してこちらへとやってきた。

「ん、カール…どこに行くので、あ、なまえ君」

「お疲れ様ですポオさん、少し休憩にしませんか?」

トレイの上に乗せられたケーキをポオに見えるように少し傾けると、ポオはそのケーキをじっと見つめて逡巡するような素振りを見せた後_「す、少しだけなら」と羽ペンを机の上に置いた。
なまえがここに通ってから大分経つが、未だにポオはなまえに慣れないらしい。どことなく心の距離を感じるというか、怯えられているというか。

(何もした覚えは無いんだけどなあ)

それどころか、こちらが部下なのに。
まあポオは大人数との会話が苦手だと言っていた。恐らくなまえと出会ったときに大人数との対話を命じられたのが心に来たのだろう。
革張りの座り心地のよさそうな椅子から立ち上がると、ポオのひょろりとした長身が際立つ。
どこか自信無さげな猫背のまま、ポオは部屋の中央に置かれている食事用のテーブルに腰かけた。

なまえはトレイをそのテーブルに置くと、手際良くポオの前にカップとケーキ、それからフォークを置き、淹れたての紅茶をゆっくりと注ぐ。
紅茶の良い香りがふわふわと立ち昇って、部屋全体の空気が柔らかくなっていくようだ。
準備が終わると、なまえもポオの向かいに「失礼します」と一言声をかけて、席に着く。
それからシュガーポットから一つだけ角砂糖を取り出すと、紅茶の中に落とした。

ポオがカップをゆっくりと持ち上げる。それに合わせて、なまえもそっとカップを持ち上げる。
紅茶を一口飲んで、置く。そしてケーキも一口。

「やっぱりここのケーキ、美味しいですね」

「…え、あ、あぁ…そうであるな…?」

やたらと慌てた声のポオを不思議に思ってなまえが顔を上げると、ポオは慌てたようにバッとなまえから視線を逸らした。
表情は殆ど見えないが、僅かに顔が赤いような、気がする。

「ど、どうかしましたか?」

まさか、紅茶かケーキが口に合わなかったのだろうか。それとも、まだお腹が空いていなかった?
なまえの頭を、ぐるぐると考えが駆け巡る。
ポオは、暫く黙りこんでいた。が、おずおずと視線を前に戻す。_目線は、なまえの手元だ。

(…もしかして、私が食べてるケーキの方がよかったのかな)

ポオには甘さ控えめのチョコレートケーキ、なまえが食べているのは苺のショートケーキだ。
今までの傾向からして、彼はこう言った味はそんなに好まない筈なのだが。
しかし、もしかしたら今日はそんな気分だったのかもしれない。なまえは慌ててポオに声をかける。

「ポオさん、もう一口食べてしまいましたが…こちらの方が良かったですか?」

「いや、そうではない…そうでは、ないのだが…」

ではなんなのだ。否定しながらもポオの目はなまえの手元から離れない。矢張りこちらの方が良かったのではないだろうか?

「遠慮なさらず仰ってください。私は貴方の部下なのですから、ポオさんの御命令通りに」

そう言うと、ポオは僅かに困ったような表情を浮かべた後_
ぎゅう、とフォークを握りしめると、言った。

「……なまえ君の指は、美味しそうなのである」

そして話は、冒頭に戻る。


*


目を瞬かせたなまえの表情に、ポオは今の発言は失言だったと気付いたらしい。
取り繕うようにぶんぶんと頭と手を振ると、「い、今のは忘れてくれ給え!」と半ば叫ぶように言った。

「指って、私の指ですか?この?」

「だ、だからそれは忘れっ」

ぐい、とポオの前になまえが指をさし出すと、ポオは再びピタリと黙り込んでしまった。
彼の頬を汗が伝う。それからどうしていいか分からないといった表情で自身の指を口元に持ってくると、爪をガリ、と噛みしめた。
その彼の様子を見て、なまえはふと思い出す。

(そう言えば、ポオさんってよく自分の爪を噛んでる)

困ったとき、執筆に行き詰ったとき、ぼんやりとしている時。
きっと彼自身は無自覚にだろうが、指先を口元に持って来ては美しく形の整った爪を噛んでいた。
_所謂、癖というやつなのだろう。

さて、どうしたものか。
流石に自身の指をはいどうぞ噛んでください、と言う勇気はなまえには無い。
しかしポオの命令を聞くと言ったのはなまえ自身なのだから、その責任だって取らねばならない。
…詰まる所、ポオの次の発言待ちである。

ふ、と。なまえの手に冷たい感触が触れた。
視線を下げるとそれはポオの手で、彼の骨ばった白い指がなまえの手を確かめるように触れている。

「…そう言えば、なまえ君の手に触れたのは初めてである」

「あぁ、確かにそうですね、って」

そのままポオは躊躇なくなまえの指を自身の口元に運ぼうとする。

「ぽ、ポオさん!?」

流石に驚いて声を上げると、ポオはハッとしたようになまえを見_そして、再び大慌てしながらその手を離した。

「う、うわ、す、すすすまないっ!」

顔を真っ赤にして謝るポオ。恐らく今のも無自覚だったのだろう。
ポオが必死に謝るものだから、なまえは何だか自分が悪いことをしているような気持ちになってきた。
別に死ねだとか寝ろだとか言われている訳ではないのだから、それくらい構わないのではないだろうか?

「…そんなに、美味しそうでした?」

聞くと、ポオは虚を突かれたような顔をした後、視線を空中に彷徨わせる。
しかし、今この部屋にはなまえとポオしか居ない。どこにも横から口を挟むものは居らず、二人の間には再びたっぷりとした沈黙が訪れた。

「…」
「……」

そろそろ何か言ってくれないだろうか。
なまえがチラとポオを見ると、ポオもこちらを見ていたらしく、長い前髪の隙間から覗く暗い瞳と視線が絡む。

「…なまえ君は」

随分美味しそうな異能を持っているだろう、とポツリとポオが呟いた。
その言葉に、なまえは驚く。確かに自身の異能は他の人に比べれば随分メルヘンチックなものだが、そんなことは初めて言われた。
なまえの異能力は「お菓子の家」。その名の通り、家の中に居る相手にならばお菓子の家に迷い込んだ幻覚を見せることができる。
ポオにも一度だけ、その異能を見せたことがあった。

「あの時から思っていたのだ…きっと貴女は甘い味がするのだろうと」

「…申し訳ないんですけど、多分甘くないと思いますよ…」

あれは異能の力だ。確かにあの空間の中でなら、齧った味はまるで現実のように感じられ、しかもあの中では何もかもが舌がとろけてしまいそうなほどに甘美に感じる。
けれど現実のなまえはただの人間な訳で、甘いはずがない。あるとするならば、それはポオの幻想だ。
ポオの手が、再びなまえの手にほんの少しだけ触れる。

「そんなことは無い、何故ならば、今も、こんなにも…」

我輩には、君から誘うような甘い香りを嗅ぎとっているのである_

なまえは、今度は止めることが出来なかった。
ポオは再びなまえの手を取ると、今度は僅かながら強い力で自分の口元へと運び、一度だけ指先に触れるようなキスをする。
彼の長い前髪が触れてくすぐったく感じられ、なまえは指をピクリと動かした。

「ふふ…」

ガリ、とポオの歯がなまえの爪に当たった。
まるで、本当に食べてしまいそうなくらいに。ポオがなまえの指に少しずつ、歯を立ててゆく。
骨と歯が当たって、コツリと音を立てた。

「…ん、…」

なまえの指の骨の形を一つ一つ、確かめてゆくように、ポオはゆっくりと指を噛む。
うっとりとした表情でそれ続けるポオを、なまえが止めることなど出来るわけもなく。
指に広がるじわじわとした奇妙な感覚に、ただじっと堪えることしかできない。

不意に、ポオのざらりとした舌の感覚を感じて、なまえは思わず口から声を漏らした。

「っ、ん…!?」

噛むだけじゃなかったのか。そんな気持ちでポオを睨みつけてみたが、ポオは全くなまえの表情には気付いていない。
それどころか、彼はますます楽しそうに舌を這わせている。
ぞわりと鳥肌が立つのを感じた。このままでは、こちらまで彼の空気に呑まれてしまいそうだ。

小指まで噛み終えて、ようやくポオがなまえの指を口から離す。唾液がつ、と零れおちて、あまりに艶めかしいその光景から思わずなまえは目を逸らした。

「やっぱり、なまえ君の指は甘くて、美味しいのである、うふ、ふふ…」

「あ、あの、ポオさん、」

満足したなら手を離してもらえないだろうか_そう言おうとしたなまえの願いは、次の瞬間呆気なく打ち砕かれた。
ぬるり、と唾液でも歯でもない感触になまえが再び恐る恐るそちらに目を向けると、ポオが何の躊躇もなくなまえと自身の手をケーキのクリーム塗れにしているところだった。

苺のショートケーキは見るも無残な姿になっている。白い生クリームがべたべたにひっついて、なまえは悲鳴をあげそうになった。

「こうした方が、もっと甘いだろう?」

楽しそうに笑うポオに、最早なまえは抵抗することもできず。
この人の押してはいけないスイッチ_むしろ、地雷原を踏みぬいてしまったのかもしれない、と思いながら、なまえはただただ自分の迂闊さを呪ったのであった。


*


「…あ、あの…なまえ君」

「…何でしょうか」

「聞くまでもないことなのだが…怒っているのであるか…?」

先程までのポオの様子は何処へやら、今のポオはまるで母親の大事な皿を割ってしまった子供のように怯えた表情を浮かべている。
それも仕方がない。
あの後散々歯型がつくほどなまえの指を噛んでいたポオは、満足したのかようやくなまえの手を離して_そこでようやく、なまえが机に突っ伏していることに気付いた。

途端に我に返ったのか、動揺と狼狽で最後の方は涙声になりながらなまえに謝り続けていた。
なまえが辛くて伏せていたのだとポオは思い込んでいるらしいが_実際には、そうではない。

(…ポオさんの表情が余りに艶めかしくて見てられませんでしたとは口が裂けても言えない)

嫌じゃなかったと言えば嘘になる。
けれど、妙に気分が高揚してしまっているのも事実だった。
それをポオに悟られたくなくて、なまえは先程からポオに表情を見られないように逸らし続けている。

「やはり我輩等が組合に入るべきではなかったのだ…こんなことまでして…うう…」

しかし、ポオがそんな発言をし出してしまっては流石に止めざるを得ない。
なまえはゆっくりとポオの方を向く。

「あの、ポオさん、私怒ってませんから…」

「……本当であるか?」

まるであの時は別人の様なポオが思わず可愛く見えてしまって、なまえはコクリと頷いた。
お茶会の時間はとんでもないことになってしまったが、ポオが満足したのならそれでいいのだ。

「私はポオさんの部下ですから。お役に立てたのならそれで」

上手く笑えているか自信は無かったが、なまえは少しだけ口角を釣り上げた。
すると、ポオはパッと明るい表情を浮かべる。そして、

「…で、では!」

ガシリとなまえの手を再度掴んだ。しかも、今度は両手を。

「また我輩がなまえ君を噛みたくなっても…許してほしいのである」

「…え」

いいであろう?と、長い前髪の隙間から覗くポオの瞳がキラキラ輝いているのが分かる。
対するなまえの表情は、ピシリと固まる。
だが、なまえの立場は何処までも彼の部下なのだ。上司の命令は、絶対_

「勿論、ポオさんの望み通りに…」

結局、彼女の口から零れたのはそんな言葉だった。
ポオがほっとしたように、けれど嬉しそうに笑う。

「なまえ君は何と良い部下であろうか…!」

笑顔を浮かべる、ポオの前で。
なまえはこれから先の自身の境遇を呪い、…そして頭を抱えるのであった。

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