呪いの始祖

一、
 特級呪詛師夏油傑による未曾有の呪術テロ事件、新宿・京都百鬼夜行がついに終演した。
 事件後は各地で被害が多数報告されたものの、日を重ねるごとに世間の目もゆるやかに離れていき、いつしか表立ってニュースに取り上げられることもなくなった。それでも呪術高専はしばらくの間諸々の後処理に追われていたが、クリスマスからひと月も経った頃には、それもすっかり落ち着いた。
 一方、百鬼夜行と同時期に乙骨憂太は特級仮想怨霊リカの解呪に成功。元々いずれ高専から立ち去ることを決意していた乙骨だが、自身が五条の遠い親戚であることや、あの五条悟より多いとされる呪力量をもっていること、さらには乙骨憂太本来の術式である『模倣』の存在が明らかになったことから、これらを聞いた高専に乙骨に呪術師としての素質があると正式に判断され、その後も継続して高専に通うことが認められた。
 そうして穏やかな空気が徐々に戻りはじめたこの呪術高専に、春を目前とした深い冬の気配が訪れる。

 その日、乙骨は寮から高専の校舎までのさして長くはない雪の積もった通学路を、数少ない同級生であるパンダ、狗巻棘、禪院真希たちと一緒に歩いていた。
 東京の二月は、よく冷える。お互い無言でマフラーに顔を埋め、校舎へと続く長い石畳の階段を登りながら、寒さを分かち合うように白い息を吐き出した。
 ようやく高専内に到着し、凍るような風が落ち着いたところで、思い出したようにパンダが言った。
「にしても、黒い憂太さんは新鮮だなァ」
 ちょうどそのとき、乙骨はくしゅんと小さなくしゃみをする。余談だが乙骨はわりと日頃からタイミングがアレなことが多い男だった。それでもパンダがなにか声を発していたことだけはなんとなくわかっていたので、ジンと赤くなった鼻を啜ってからごめん、よく聞こえなかった、とパンダの方へ聞き返す。
「憂太、黒い制服似合わないなってハナシ」
「おかか、塩昆布」
 乙骨がなにかを言うより先に『それ、言うのもう四回目』と狗巻が呆れた目線をパンダくんに寄越す。それに気付いたパンダくんはあれ、そうだったか?とクマのように長く伸びたその爪で白い綿の頬をかいた。
「悪い、いつまで経っても慣れなくてな」
「ううん、僕も正直まだ落ち着かないよ」
 乙骨は困ったように笑ってから、自分の黒い学生服を見下ろした。パンダの言う『黒い憂太』とは、単に黒い制服を着ている乙骨憂太のことを指す。
 リカの件が片付いてからまもなく、彼女の力を失った乙骨は等級を特級から四級に降格させられた。元々秘匿死刑が決まっていたこともあり、任務に多く出張っていたというわけでもなかったので、それほど日常生活の方に影響はない。したがって、唯一目に見えて変化したのは制服の色だけだった。
 これはあとからみんなに聞いた話なのだけれど、あの時の白い制服にはきちんと意味があったそうだ。なんでも高専から見て乙骨憂太という人間はれっきとした問題児という扱いだったため、一目で見て目立つようにと他の生徒とは違う白い制服を支給されていたらしい。思ってもみなかった自身への嬉しくはない特別扱いに、聞いた当時はこっそりヘコんだものだ。
 そんなこんなで秘匿死刑も無事解除された今、現在乙骨は白い制服ではなくみんなと同じ黒い制服を身にまとっている。乙骨本人にとっては、白は汚れが目立つし、なにより自分だけ他と違う色というのは少し疎外感があったのでべつに大して気に留めることでもないだろうと感じていた。しかし同級生であるパンダたちにとってはどうやらそうではなかったらしい。まだ違和感が残るのか、こうしていまだに時々制服についてからかってくるのである。
「そんなにヘンかなぁ」
 しみじみと呟いた乙骨を、真希がハンと鼻で笑い飛ばした。
「ヘンっつーか、弱そう」
 バッサリと言い切られた乙骨はガーンとショックを受ける。弱そう、かあ。これでも少しは筋肉もついた方なんだけどなあ。昔より厚くなった(気がする)自分の腹筋辺りをなんとなく擦りながら、乙骨はしょんぼりした。しかし真希はそんな乙骨の様子に構うことなく、追い打ちをかける。
「ますますモヤシ具合に磨きがかかってんな。その辺歩いてる中坊と大差ねえだろ」
「うう、これでも僕もうすぐ十七なんだけど」
 するとそれを横で聞いていたパンダが閃いた、とでもいう風に触り心地のよさそうなふわふわの黒い人差し指をピンと立てる。
「そっか。そういえば憂太、来月誕生日じゃん」
「え、あ、ほんとだ」
「忘れてたのかよ」
「いくら」
「いやあ、僕あんまりちゃんと誕生日祝われたことなかったから」
 恥ずかしそうに眉を八の字にした乙骨に、
「こりゃあ盛大にお祝いしなきゃだな」
 とパンダが笑う。乙骨はそんな彼の発言にわかりやすく目を輝かせた。
「えっ、ほんと?」
「しゃけしゃけ」
「ホールケーキ顔面にぶつけてやるよ」
「そ、それはちょっと遠慮したいかも……」
 真希の無茶な発言に苦笑いを浮かべつつも、乙骨はほくほくと胸に温かい気持ちを覚えていた。

 乙骨のそばに、リカはもういない。それは良くも悪くも乙骨を自由にさせた。



 高専の廊下に差し掛かった頃。
「憂太」
 と、後ろから聞き慣れた声が乙骨を呼んだ。乙骨が後ろを振り向くと、パンダたちも乙骨につられるようにして各々後ろを振り向く。そこにいたのは、ニッコリと笑みを浮かべた五条先生だった。
「五条先生」
「おつかれサマンサー」
 五条は軽快な挨拶を挟んでから、乙骨に告げる。
「いやね、憂太にちょこっとだけ特殊な任務をお願いしようかなと思って」
「特殊、ですか」
「うん」
 乙骨が首を傾げていると、自分たちには関係ないことを悟ったのか、真希たちが先に行っとくからな、とだけ言い残して再び教室の方へと歩きはじめた。
 乙骨もあ、うん、とだけ答えてから、再び五条に向き直る。
「それで、どんな任務なんですか?」
「ずばり、護衛任務だよ」
 おちゃらけた様子で意気揚々と告げた五条をスルーして、乙骨は考えた。護衛任務、というと。たしかにあまり聞かない任務だ。
「護衛対象は中学三年生の女の子。補助監督の報告によると、どうやら小さな頃から視えてたらしくてね。あんまり呪霊に耐性がなかったのか、すっかり塞ぎ込んで、しまいには自殺未遂を犯してしまったらしい」
「自殺未遂……」
「それからずっと学校も休んでるんだって」
「不登校、ってことですよね」
「有り体に言えばね」
 なるほどたしかに、僕に向いている任務と言えばそうかもしれない、と乙骨は思った。

「はいコレ、彼女の個人情報ね」
「僕が見てもいいんですか?」
「うん、むしろ見てもらわないと困るかな」

 五条先生に渡された書類をおそるおそる受け取ってから、心の中で謝りつつ、目を通していく。
 夕霧中学校三年#苗字##名前#。顔写真は特別派手ではないが、暗さを感じるような印象も特に受けることない素朴な少女の姿をしている。
「母親は彼女を産んだときに亡くなってる。父親が養育費とか諸々を払ってて、今は父方の姉の家に預けられてるみたい」
「家庭環境はまァちょっと複雑ではあるっぽいけど、特別悪そうなわけでもなし。学校でのイジメとかそういうのも今のところ報告はないから、消去法でコッチ絡みかなって印象」
 五条先生がトントン、と指でさし示したのは精神病院に何度もかかっており、薬も服薬している、と記されている文だった。どうやら精神を病んでいるらしい。原因はわからないけれど、もしかすると視えてたりするのかもしれないな。
「これを憂太に担当してもらいたいんだ」
 護衛任務を、僕が?乙骨は少し不安に思う。ただでさえ自分は任務の数をまだそれほどこなしたことがないのに、そんな僕が人を守る任務をだなんて。ほんとうに僕にできるのだろうか。
「僕、いま四級なんですけど」
「あぁうん大丈夫、この任務の難易度自体はそこまで高くない」
 ただ、と五条は続けた。
「護衛対象の境遇が少し前の憂太と似てるんだ」
 少し前の僕、というと。どうにかして死にたい、ということしか考えていなかったような。
「なんでも、自殺未遂を何度も繰り返しているらしい」
「『どうかこのまま死なせてください』ってその子はその場にいた呪術師にお願いしたらしいよ。まるで一昔前のどこかの誰かさんのようにね」