Episode.01


 宅配便を受け取りに母親がリビングを出る。ソファに座ってスマホをいじりながら私はなんてことない休日をだらだらと無意味に過ごしていた。

「お姉ちゃん、ホットケーキ食べる?」
「たべるー」
「じゃあ紅茶入れて、ジャスミンね」
「ん」

 妹がふかふかのホットケーキをお皿に乗せるのを横目に私は食器棚からカップを二つ取り出す。茶葉袋をいれて、ポットからお湯を注いだ。
 ローテーブルにカップを並べたその時。
 ──バタンッ!
 なにかが勢いよく倒れた音。透明な赤いお茶の水面が大きく波打った。

「え、なに今の音」
「……お母さん?」
「うそ」

 リビングの向こう。しっかりと閉じ切られていない扉の奥から、玄関の方で母親がどさりと倒れる音がする。妹が走り出そうとするのを、反射で止めた。

「なに、」
「静かに」

 なんの根拠もない。しかし私は既に確信していた。得体の知れない〈視えないなにか〉がそこにいるということを。
 一方、なにも感じていないのだろう。私を見て訝しげな表情を浮かべる妹の腕を強く引っ張ってその身体を抱き締めるなり、息を殺す。扉の僅かな黒い隙間を睨みつけるも、一向に扉は開かない。
 〈なにか〉の気配がほんの一瞬、薄くなる。
(消えた……?)
 つられてほんの少し警戒を解く──刹那、背後にとてつもなくおぞましく、この世の穢れをすべて喰ったのかとも言えるような、恐ろしい気配が這い寄ったような気がした。
 おそるおそる、後ろを振り向く。……誰もいない。
 手先が震える。足に力が入らない。バクバクと心臓が今にも破裂しそうなくらいに叫んでいる。逃げなければ。そう思うのに、体が動かない。
 ふと、ぴちゃんと水滴が落ちる音がした。

 おそるおそる抱き締めていた腕の中を見れば、人間のカタチを逸脱した妹のようななにかと目が合う。思考が停止する。生あたたかい赤い液体が、私の腕一面に塗りたくられている。
 腕を離す。妹だった〈なにか〉がどさりと地面に倒れた。悲鳴をあげることさえも忘れていた。私は咄嗟に思う。逃げなければいけない、と。

 どうやって?若い男の声が問いかける。
 逃げなければ。
 それはなぜ?
 でなければ殺される。

 逃げなければ!
 ──何から?

 男が視える音がした。
 顔を上げる。水色の髪の毛を束にした男と目が合う。琥珀と藍色の宝石のような色をしたオッドアイが愉快そうに弧を描いた。全身が恐怖に震える。カチカチと歯がぶつかり合った。頭が思考を開始する。
 駄目だ、〈これ〉には勝てない。私は死を確信する。
 男の声は皮肉にもひどくうつくしい創りをしていた。

「君、不思議な魂のカタチをしているね。すごく綺麗だよ。気に入った」

 男が嗤う。私の胸元に男の青白い指先が触れた。視界が赤く、赤く赤く赤クアカクアカクアカク染まる。思考が停止する。記憶が途切れた。





 ──冷たい水上に浮かんでいる。そこは昔家族と行った曇天に広がる紺碧の海のような場所だった。
 思考が開始する。魂の知覚。呪力の伝達。身体は依然冷たいままだ。
 この感覚を私は知っている。この世は創りモノであることを私は知っている。すべては創れることを私は知っている。この世で最も恐ろしいものは人間であることを私は知っている。人類に不可能はないことを私は知っている。私は己が〈■■〉であることを知っていた。

「有為転変」

 今はただ、生きとし生けるものたちに感謝を。

  〇

 真人は上機嫌であった。なぜなら珍しい魂の形を持った人間をコレクションすることができたからだ。小さく小指ほどの大きさにまで丸めた、先程まで〈ニンゲンだったもの〉をごくんと飲み込む。味はしない。その筈なのに不思議とこのニンゲンはこの間はじめて食べた、あまいラムネを飲み込んだときと同じような幸福感だった。
 真人は嗤う。脳を弄れば呪術師としても使えたかもしれない。もったいないことした。真人は独りスキップをする。ま、あとで直せばいいか。真人はご機嫌に笑った。随分と捻れた魂のカタチをしている人間だった。あれ程までにおぞましい形をした魂を、真人は両面宿儺以外にまだ知らない。
 しかしながら、真人はいまだ未熟であった。故に彼は知らなかったのだ、己が取り込んだものの正体を。
 真人は知らなかったのだ。この世に神がいるということを。

「有為転変」

 ふいになにかが破れる音がした。真人は首を傾げながら音のした方を見下ろす。たちまち目に飛び込んだその光景に真人は目を丸くした。
 なんでも、己の腹が細い血まみれの女の腕に突き破られていたのだ。コポ、と真っ赤な液体が喉からせり上がる。かくんと脚に力が入らなくなって、身体が地面へと崩れ落ちたのがわかった。今にもどこかへ飛んでいってしまいそうな意識を必死に繋ぎとめながら魂のカタチを作り直そうとするけれど、なかなか頭が回らない。どうやら、この謎の生き物に呪力が吸い上げられていたらしい。腹の底に大きな空洞ができているような気がした。
 再び、己の腹が破ける音がする。

 そうして霞んでいく視界の中で真人が最期に目にしたのは、紅に染まった美しい女の裸体と、紺に浮かぶまあるい月であった。
 真人は己の腹から出てきた得体の知れないなにかを見て恍惚とする。あぁなんてこの世でいちばん醜くて美しい生き物なのだろうと。前に本で読んだある一節が脳裏を過ぎる。

 ──月が綺麗ですね。

 なるほどたしかに、美しい!

 これははじめて呪霊が〈恋〉をした瞬間であった。