タイトル
きみは瞼の奥にある光を僅かに感じながら、ゆっくりと目を覚ます。目を開けると、青く澄んだ空が視界いっぱいに広がった。
──ここはどこだろう。なぜ私はここにいるのだろうか。きみは頭の片隅でそんなことを考える。けれども寝起きのせいかうまく頭が回らない。それどころか、睡魔に取り憑かれた肉体は起き上がることすらも忘れているようだった。
青天を泳ぐ白い綿雲が風にのって右から左へと流れていくのを、ぼうっと目で追いかける。どこか懐かしさを残した若葉の匂いが、やわらかい風と共にやさしく頬を撫でた。
きみは、また眠くなる。
鳥のさえずりと草花が擦れる音に耳を傾けながら欠伸をひとつ噛み殺したきみは、無防備にも再び瞼を閉じた。徐々に意識が遠のいていく。
「おはよう、ナマエ」
ふいに、五感が引き戻された。眠気が腹の底へと吸い取られていく。不思議な感覚と共に目が冴えていったかと思えば、頭上からは聞き覚えのある男の声が響いた。
それが#苗字#ナマエの恩師兼愛する恋人のものであったと気付いたきみは、びっくりしたようにぱち、と瞼を持ち上げる。たちまち視界に飛び込んだのは、黒いアイマスクをつけた白亜の髪の男の姿。
覆い被さるようにきみの上に影が落ちる。その長駆はイタズラが成功した時の小さな弟と同じような笑みを浮かべながら、青空を遮ってこちらを見下ろしていた。
「やぁ、随分と気持ちよさそうに寝てたね」
「え、五条せんせ?」
「はぁい、君のだいだいだいすきなグットルッキングガイ五条悟だよ〜」
目を擦りながら尋ねたきみに、目隠しの男はおちゃらけたようにひらひらと手を振る。そんな彼の姿形を確かめるように、きみは何度か瞬きを繰り返したけれど、それが本物なのかどうか確信できなかった。
「やれやれ。君が一人で泣いてたらどうしようかと思ったけど、どうやら杞憂だったみたいだね」
五条はそう大きな腰を折り曲げるようにしゃがみ込んでから、きみの頬を親指でそっとなぞる。
いやぁ、まさかこんなところで呑気にお昼寝してるとはね。先生は愉快そうに笑い声をあげた。なにがそんなに面白いのだろうか。きみは心の中で首を傾げる。
「さてと、僕もお昼寝しよーっと」
「あれ、仕事はもういいんですか?」
「まだ全部片付けたわけじゃないけど、ま、あとは悠仁達がどうにかしてくれるでしょ」
先生はあっけらかんと言い終えるなり、きみのすぐ横に腰を下ろしてその黒いコンパスを地面に放り出す。寄り添うように草の絨毯に寝っ転がってから、彼はきみをぎゅっと抱きしめた。少し力が強い。きみの苦しそうな声に聞こえないふりをして、彼は大袈裟なため息がきみの耳元で吐き出した。
「はー、やっと休めるよまったく。人気者は困るねぇ」
「おつかれさまんさ」
「ほんとにお疲れだよ、拝んでくれていいよ」
ぐりぐりと
艶気を含んだ低い声が少しくすぐったくて、きみは猫のように身を捩った。
目隠しを外した五条先生。ぎゅっと
くすぐったいくらいにやさしい彼の手のひらが。温もりが、きみの髪を梳く。その手付きとか、撫で方が全部、なぜかうんと懐かしく感じられて、なぜかきみは無性に泣きたくなった。寂しさを紛らわすように、きみは思わずその手のひらに猫のように擦り寄る。
「あれ、また寝ちゃうの?」
「んぅ、おきますよ、いまおきます」
「目、閉じちゃってるけど」
頬をつつかれた。くつくつと機嫌が良さそうに笑う悟に、ナマエの口角もつられて上がる。悟の掌の温度を感じながら、彼に委ねるようにナマエは目を瞑った。
くぁ、と欠伸をしながら大きく縦に伸びをする。
ぼんやりと夢の狭間をさまよう。綺麗なものを全部詰め込んだみたいな水色の瞳
◯
きみの濡れ烏色の手触りのいい前髪を、僕はくるくると指に巻き付けるようにして遊ぶ。さらけ出された真っ白な額に、キスをひとつ落とす。
まるで愛しいぬいぐるみにするかのように柔く撫でつけた。
角張った大人の手。それでも指先からはじんわりと体温が伝わる。私より少し高いだろうか。
「あれ、もしかして今って無下限外してますか?」
「うん、よく分かったね」
「先生の手があったかくなったから」
さわさわと柔らかい風が吹き抜ける。青々とした緑の若葉たちが撫でるようにナマエの頬を掠めていった。
同じ人間なのに、どうしてこうも造形が異なるのだろう。全部がちいさくできている隣の少女に見惚れながら、そんなちょっぴり馬鹿げたこと考えた。
「ナマエ、こっち向いて」
「ん、」
低い声が唇にかかったと思えば、ふに、とやわらかいなにかが押し付けられたのがわかる。なにかの正体なんてとっくに検討がついているけれど、胸の高鳴りはいつも初を忘れない。いよいよナマエには、この蕩けたキスに慣れる日は最期まで来なかったようだ。
「顔真っ赤」
「……いじわる」
ふいっと顔を逸らす。するとなにか特別なことをした訳でもないのに悟は声を上げて笑う。
「かわいいねぇ、ナマエは」
「揶揄わないでください」
「……かわいすぎて困っちゃうよ、ほんと」
蜂蜜に砂糖を混ぜたような声だった。
再び、キスの雨が降る。今度は触れるだけの、やさしいやさしいキスだ。ナマエがくすぐったいと身を捩れば、ふっと笑いながら悟はまたかわいいを連呼する。
「……ほんとうは連れて行ってしまおうかとも思ったんだけど、やっぱり、やめておくことにするよ」
先生が微笑む。
最期の最期で情けない姿を見せたくない。君が泣いてないのに泣くわけにはいかないから。まだ戦いは終わっていないから。彼はそんな思いを胸に、啄むようなキスをありったけの愛を乗せて繰り返す。
彼にとって、死は微塵も恐れる対象ではなかった。
でも今はきみのことが心残りだ。たとえもう二度と会えないとわかっていても、君が僕以外の誰かのものになるのは許せない。ダメな大人でごめんね。僕は最期まできみに呪いをかけるよ。本当は一緒に持って帰ってしまいたいけれど、流石にきみから未来をも奪い取る真似はしたくない。
「君が来るまでずっと待っとくから、これからも一生僕だけのものでいてくれる?」
「……一生?」
欠伸か、はたまた僕のせいか。涙の膜に包まれたまるい黒の瞳がこちらを確かめるように見つめてくる。不思議とその目には恐怖や嫌悪は宿っていないように見えて、それがまたどうしようもなく嬉しくて。
「うん。ね、お願い」
「ほんとうにずっと待っててくれるんですか?」
「そうだよ。だからその代わり寄り道しないで、ちゃんと僕を迎えに来て」
互いの鼻があたまが僅かに触れ合う。だからどうか離れないで。そんな思いを胸にぎゅうと小さな腰を抱き締めれば、はじけたように君は笑った。
「ふふ、じゃあ走って迎えに行きます」
「少しでも浮気したら呪うから」
「それ、せんせーが言うとこわいよ」
「もしかすると世界も終わらせちゃうかも」
「それはいけませんね」
「なら約束、破らないで」
うとうと船を漕ぎ出す彼女に僕は問う。
「言われなくても、私はずっと先生のものなのに」
「ほんとかな」
「ほんとです」
「ずぇーったい、浮気したらダメだからね。わかった?」
「はぁい」
カチリ、と縛りが結ばれる音がした。
「ん、いい子」
「なんてったって先生の自慢の教え子ですからね」
「その前に僕のカノジョでしょ」
「そうでした、カノジョだった」
ぐりぐりと僕の首に回る腕の力がだんだん弱くなっていく。
「せんせい、だいすき」
「僕も大好きだよ」
「今まで一緒にいてくれてありがとう。優しくしてくれてありがとう。ずっと大切にしてくれてありがとう」
脳が眠気で重くなる。きみは彼の蒼眼を頼りに手を伸ばす。
「いっぱいいっぱい休んでくださいね。必ず、迎えにいきますから」
「うん、ずっと待ってる」
涙が一筋、きみのこめかみに吸い込まれた。
「ほんとは、もっと、いっしょに、」
朦朧としていく意識。霞む視界の中、きみは別れの時がきたという事実だけを妙にはっきりと自覚していた。五条の肉体が光の粒に飲み込まれていく。比例するように、きみの全身の力も徐々に空彼方へと抜けていった。
ばいばい、先生。一生だいすき。
きみは目を瞑る。〈僕〉はそんなきみを見て、最後の最後にきみの唇へ顔を寄せた。
「おやすみ、ナマエ。地獄で待ってる」
◯
噎せ返るような血の匂いが鼻を刺す。埃の舞う廃墟の隅で、きみはハッと目を覚ました。淀んだ空気が肺を汚していく。黒くなった血が付着した手を一瞥してから、ゆっくりと身体を起こす。一瞬、骨が軋むように痛んだ。ぬれた顔を服の袖で拭えば、たちまち赤く染まった。
今の記憶は現実か、それとも己のつくりだしたなまぬるい幻想か。きみは思案する。
ふと、手の中になにか布のようなものが握られているのを自覚した。やがてそのなにかの正体をきみは理解する。突如として広大な野原に一人取り残されたような、そんな淋しさが空いたばかりの心の風穴を襲った。手に残された見覚えのある黒いアイマスクを、胸に押し付けるように強く抱きしめる。それから両膝に顔を埋めるように蹲った。
孤独を理解したきみは、きっと長い間一人で静かに泣いたのだろう。──地獄は、まだ続いている。
2022.0405
艶気を含んだ低い声。青空で海水浴をしているかのように呑気だ。柔らかい草の絨毯に仰向けに寝っ転がって舟を漕ぐ。きみはそれに犬っころのように喜びながらはにかむ。声色は素直で、今にも溢れ出しそうな嬉しさは隠せなかった。そう目隠しを外した悟は静かに微笑む。
先生と生徒、それでも誰の目もない今なら、悟はを文字通り殺すことさえできるのに。呪力が流れていないというのはいいな、目が疲れない。おまけに今自分達が居るのは屋外だから、呪力や残げだって僅かしかない。