──西暦二〇〇九年二月十五日
 東京都立呪術高等専門学校の応接間の一角にて。古びた革のソファに黒い服に身を包んだ男が二人、チョコレート色のローテーブルを挟んで向かい合ってかけて座っていた。
 一方、今年学長に就任した夜蛾正道、もとい夜蛾学長は呆れた物言いでだらりとソファにもたれ掛かる目の前の白髪の男に言い聞かせる。

「悟、お前に教師は向いていない」

 サングラスの向こう、水色の瞳が僅かに揺れ動く。五条はそんな厳しい目線と沈黙を紛らわせるように、目の前にあったまだ湯気のたつ緑茶に手をつけた。お、茶柱。
 嘆息する夜蛾。高専卒業後、五条が教鞭を取ることを志してから早くも一年が経過していた。

「ただでさえ少ない生徒をさらに追い払ってどうする」
「だって弱かった」
「はじめは誰だろうと弱い」
「それはそうかもしんねーけど、かえって優しくすると今度はちょっと目を離した隙に死ぬのが常じゃん」

 「いい加減にしろ」夜蛾の声が静まり返った部屋に響く。教育は簡単ではない。いくら五条と言えど、三日四日でうまくこなせるわけがなかった。
 相手は人間だ。コントロールするものではない。事実、彼の行ったことは高専を潰すことと同意。存在自体がそうだといっても過言ではなかった。家系出身の人間は揃って五条悟との接触を避けるように京都の高専の方へと入学していったし、伊地知の次に入ってきた一般家庭の生徒を夜蛾の元、教育実習生という立場で指導を任せたところ怒涛の勢いで高専を辞めていく始末。退学届けをもってきた生徒たち口を揃えてこう言った。このままだと高専にいたら死ぬと思った、と。
 このままでは生徒すらいなくなる。それは高専が機能しなくなるも同然であった。
 もちろん、五条とてなにも追い出したくて生徒を追い出しているわけではない。彼にとってはあくまで少しの指導と少しの稽古をしてあげただけ。しかし入学したばかりの生徒にとってその稽古は呪霊よりも恐ろしい、ただの拷問としか思えなかった。

 恵のように持って生まれた人間ならまだしも、並の人間では到底五条の指導についていくことはできない。唯一、音をあげなかったのは五条の一つ下の後輩(今は五条の教育実習という体で)高専5年生の七海健人ただ一人。しかしながらその七海も、あと数ヶ月もすれば呪術界を出て行ってしまうという。
 原因はなんだろうか。どちらにせよ、七海は呪術界きってのまともな男だ。大方、呪術師の腐った部分を目の当たりにして心が折れたとかそんなところだろう。そしてそれはたぶん、あいつも同じ。
 五条の中で、うまくいかないもどかしさとそれによる苛立ちが渦巻いていた。
 五条にはあまり人の心がわからない。そもそも普通とは。覚悟や根性が足りないだけなのではないか。そうして正直な気持ちを告げれば、瞬く間に周りの人間は呆れた顔をして五条の元を離れていく。厳しくすれば辞めるし、甘やかせば死ぬ。ならどうすりゃいいんだよ。五条は頭を抱えた。

「悟、気持ちもわかるが、全員がお前のようにはなれない。気付きを与えるには生徒ひとりひとりと同じ目線に立ち、見守ることが大切だ。独り善がりな教師に、生徒はついてこないぞ」
「……わかってる」

 五条はため息をこぼしたのち、静かに返答した。夜蛾はそんな五条を見て思わずなにも言えなくなる。脳裏に夏油の顔が浮かんだ。彼の声は、徐々に思い出せなくなっている。
 夏油の一件で、良くも悪くも私は大いに学ぶことができた。呪術師に自己犠牲の精神は不要なこと。イカれてなければどれだけ強くても続けられないこと。夜蛾は上層部から生徒たちを守ってやらなけらばならないと強く決意したのだ。だから学長になった。
 五条はどうだろうか。夜蛾は夜蛾なりに五条のことを心配していた。

「とはいえ、辞めるも続けるも、すべてはお前自身が決めることだ」

 夜蛾は五条を見つめた。

「教師、まだやりたいか」

 魂に焼き付いた、かつての親友の黒い背が脳裏をよぎる。五条は顔を上げる。

「……やってもいいなら、やる」

 そうか、と夜蛾はポケットから一枚の紙切れを取り出した。

「なら、悟に新一年のスカウトを頼みたい」
「新一年?ツテあったんだ。どこの家系?」
「……卑弥呼の末裔、といえば伝わるか?」
「え、とんだ掘り出し物じゃん」

 卑弥呼の末裔。構築術式の元祖として名が知れていて、代々継がれる縛りにより多種多様な呪具を創ることで有名な家系。五条から見てもあの家は呪具制作においては優秀も優秀、歴史の長さから見てもその呪具の質の高さは他の追随を許さない。
 あいにく相伝が呪力消費の激しい構築術式であるため、御三家に比べると呪術師としてのレベルは少々見劣りするものの、代々呪力量の豊富さで頭一つ抜けている呪術師が多いと聞いている。五条家が力を持ってからも、細々と地位を確立していた筈だ。
 しかしここ数十年は呪言師の末裔である狗巻家と同様、末裔の血を途絶えさせようとする派閥と、地位を守り続けたいという派閥で内部で荒れていたような。
 苗字紀代子。楽巌寺嘉伸と同時期に京都校に入学していた。一昔前は京都校を拠点に呪術師として活動していたものの、五条が高専に入学した時には既に呪術師を引退済み。
 ゆえにその顔を知る者は数少ない。この五条悟でさえ、面と向かって会えたことは一度もなかった。
 それから隠居でもしたのか、彼女の行方を知る者はいない。ついでに言うと、夜蛾学長をこの呪術界に迎え入れたのも確かこの婆さんで、さらにはあの楽巌寺嘉伸と同期の仲でバンドを組んでいたとかなんとか。
 一見するとただの優秀な呪術師だが、一つだけ問題があった。

「でも重度の引きこもりだって有名だよね」

 五条は少し考えてから首を傾げる。
 呪具師として有名であるのにほとんどの人間がその顔を知らない。噂によると彼女の秘密のアトリエがあるのだとかなんとか。跡継ぎがいてもおかしくはないが……いや待て。

「あれ?でもあの婆さん子供いたっけ」
「いや、姪の子だそうだ」

 姪の子か。思っていたより近縁だな。あれだけ上層部に近い人間が、一体どうやってその存在を隠したのだろうか。近ければ近いほどみつかる可能性は増すのに。

「衰えたとはいえ一番古い家だし、そんなのいたらとっくに有名になってそうなもんだけど」

 夜蛾が似合わないサングラスを反射させながら声を潜める。

「どうやら、婆さんが隠していたらしい」
「らしい?」
「……婆さんは五年前に亡くなっている」
「うっそマジで?初耳なんだけど」
「俺ですらこの間知ったばかりだ」
「道理で」

 ここ数年、急激に呪具の値段が高騰している。てっきり京都校のおじいちゃんか上層部のヤツらが隠してるもんだと思ってたけど、事態は想像以上に深刻であった。呪具の供給が止まれば必然的に呪術師の数も減る。ただでさえ人手不足のこの界隈に、呪具師の喪失はあまりに痛手だ。

「つーかなんでンなこと先生が知ってんの」
「婆さんのことだ、俺が学長になるのを見越して送ったんだろう」

 そんな五条の問いに夜蛾はヒラリ、と手元の紙切れを顔の横で揺らして答える。

「おそらく、なにか理由がある」

 五条にとって天野紀代子は御三家を毛嫌いする上層部寄り思考の引きこもり婆さん、というイメージしかない。呪具師としての腕はたしかで、彼女のつくる呪具にハズレはない。引退前は特級呪具師の等級を所持していたと風の噂で聞いたことがある。
 どうやら五条が思っていたより、その婆さんは曲者らしい。天野家伝統呪具のひとつ、水晶はそんな正確に未来をみることができるのだろうか。

「だからその姪の子を迎えに行けってこと」
「あぁ、ついでにお前のその眼で視てこい」

「そいつが高専で生きていけるか、をな」

 五条が納得したように笑みを浮かべる。

「なるほどね、俺……じゃなかった、僕のテストでもあるってわけ」
「そういうことだ。断られた場合、お前にまだ教師はやらせん」

 その姪。どちらにせよ血筋は保証されたも同然だし、一般家庭だとしても視えてさえいれば問題ないハズ。
 一般家庭の子をまずぶつかる壁が、親御さんの説得だ。当人の意志だけじゃどうにもならないこともある。

「その子は高専のこと知ってんの」
「会えばわかる」
「知らないのかよ」

 教師になった時、生徒が死んだらまず責任を負うことになるのはお前だ。その重さをしっかり感じてこい。夜蛾は大方そのようなことを言った。

 「名前と住所だ。頼んだぞ」
 「はいはい」
 白い紙切れを受け取った五条はそれを一瞥してから上着のポケットに乱暴に突っ込み立ち上がる。

「悟、くれぐれも背負いすぎるなよ」

 ひらひらと手を振って応える五条の背を、夜蛾は一抹の不安を胸に見送った。