あいあい傘
新しくできた恋人は良くいえば意志が強く手を引いてくれる人で、よく言わなければ強引な人だった。でもなんでも決めてくれるので、一緒にいると楽だった。私は彼に従うだけで良かったのが何も考えなくて済んで、ちょうど良かった。流されるばかりであることは自覚していた。でももうなんだって良かった。そうして時が経った頃、恋人の忙しさで会うこと以上に連絡すら少なくなった。機会を見て彼の部屋まで訪れると、困憊した様子を見せる恋人と対面することになった。仕事と実家のことが重なったのだと恋人は珍しく言い辛そうに口にする。どこかで、またこれから別れ話になるのだろうかと考えていた自分が恥ずかしかった。
恋人のそんな様子を見ることは初めてで事態の重さは明確だった。だから考えるより先に私に出来ることなら力になりたいと口に出していた。
恋人が弱さを見せてくれたのが初めてだったように私が自分からそんな風に強く言い出すのも初めてで彼は驚いた様子だったが、嬉しいと言ってくれた。その顔を見て私がそう口にしたのは間違いではなかったと思えてほっとした。私の言葉に顔をほころばせた恋人の様子にこれでよかったのだと思えることに安心した。
そうして話が出来たことは良かったけど、問題自体は解決どころかどんどん悪化しているようだった。恋人の姿も日に日に窶れていく。それを見ているだけしか出来ないことに無力さを感じ、自分に出来ることはないかを考えるも具体的なことで役に立てることはないに等しかった。
どうすれば力になれるのかを悩む私自身を空中から見ているような、どこかで他人みたいに考えている自分がいる。彼と別れてからどんなときも、こんなときですらずっとそうだ。あの日から私の人生は余生のようだった。
仕事を終えて一度自宅に戻ってからシャワーを浴びて、彼の部屋に向かう準備をする。明日が休日であっても彼は部屋に戻ってくることはないかもしれないなとぼんやり思いながらも用意する食事のことを考える。
彼の部屋に向かうために家を出て、夜もすっかり更けた道なりもそうして考え事をしながら歩いているとあっという間だ。彼のマンションが見えるあたりでふっと顔を上げたとき、人影が近くに立っていた。街灯もない暗い道の中でも分かる大きな影だ。気づくより先に心臓が強く打った。考える前に体が反応する。季節には似合わない冷たい汗が肌に滲む。私の目が暗闇に慣れていたせいで、人影がこちらを向いたのが分かってしまった。
「久しぶり」
久しぶりに会うことを感じさせない何も変わらない声だ。私はとても顔を見ることが出来ず目を逸らした。
私が震えた声で彼の名を呼ぶと忘れられたかと思ったよと言う。冗談なのか本気なのか分からない彼の言葉に抱いた感情を誤魔化すためにいつも≠ンたいに曖昧な笑いが自分の顔に浮かんだ。彼といるあの頃、自分の感情を誤魔化すためにいつもそういう笑い方をしていた。その表情を浮かべるのも久しぶりだったのに全てを覚えているというように私の顔は考える前にその表情を作る動きをした。
どうしてここに? これからどこかに? と頭の中を言葉がくるくるまわる。冷えた汗が肌に滲み、口の中が渇いていくのを自覚した。
「大変みたいだね」
私があたりさわりのない言葉を口にする前に彼がそう言う。なんの話だろうと思って、それから気づいた。私が今、誰かに大変だと思われるようなことはひとつしかなかった。
どうして知ってるんだろう? と思ったけど、でもそれは重要なことじゃなかった。彼は付き合っているときもなぜか伝えてないはずのことを既に知っているということがあったからそれの延長かもしれないし、そもそもどうしてを教えてもらっても意味があることでもない。
顔を上げると彼の後ろ、その少し先で街灯が明滅しているのが見えた。切れかかった光が瞬いているのを見つめながら私は口を開く。口が渇いているせいで、声が出にくかった。
「……」
私の声は音にはならなかった。そもそも何を言えば良いかすら分からなかった。彼が苦笑する。
「今行ってもいないと思うよ」
「だ、……大丈夫です。知ってる、から」
思わず敬語を使ってしまってから、嫌味に思われるかもしれないと思って付け足したように言葉を崩した。
沈黙が満ちて、私はそれに耐え切れずに喉から言葉を引き絞った。
「……大変、だからこそ……私も頑張るよ」
近況を話す言葉として可も不可もなく、変な心配を抱かせず、流しやすい言葉を選んだつもりだった。けれどその言葉を放った瞬間に明確に周りの温度がさがった。
「健気だね。会う時間も作れないのは僕と同じなのに、僕の時とは違って別れようとはしないんだ?」
刺すような言葉に私は目を見張った。別れるときですらそういう声を使われたことはなかったからだ。
凍り付いたように動けない私の首を彼の視線が撫でる。彼に贈られたネックレスをもうつけていない時間の方がすでに長くなっていたのに、彼と一緒にいた、ずっと身に着けていたあの頃、間違って置いてきてしまったときと同じように首元がすうすうした。
「今は何もしてないんだ。あれは捨てちゃった?」
「す、……捨てててない」
主語のない言葉が何を指しているのかすぐに分かる。きっと私に捨てることは不可能だった。
私が沈んだ態度を見せたせいか彼の声が目に見えて柔らかくなる。その声にどこかで安堵してしまうことに恥ずかしいと思った。
「僕はあの時、あのネックレスも僕みたいに置いて行かれるんだと思ったよ」
「……置いていったら、返したら、捨てちゃうって言ってたから」
沈黙がまた落ちる。
「僕に贈られたプレゼントを捨ててもいないし、僕に捨てて欲しくもなかったんだ」
未練がましい自らの様子を彼に口にされることはもっと耐えがたいことで、私はそれに目を伏せる。
「覚えてる? 何気ない顔で渡したけど本当は僕、すごくドキドキしてたんだよね。だから喜んでくれて嬉しかった」
彼が吐く言葉はどうしてと聞きたくなるくらい、変わらずに甘い。久しぶりに触れるには優しすぎるその言葉が余計に私の罪悪感を刺激した。彼に一方的なことをした自覚がずっとあったから余計だった。
「……ごめんなさい」
私の謝罪に彼が私に一歩近づき、穏やかな声のまま言う。
「僕と同じでも別れようとは思わないくらいに好きになったの? 僕のことは捨てたのに?」
声音が変わらないまま言葉の勢いだけが増す。
「僕、ずっと優しかったよね? 優しくされるのじゃ物足りなかった? ああいう男が好きだった? 僕との付き合いっておままごとみたいだった?」
彼はその言葉通りずっと私に優しかった。始まるときも付き合っているときも関係が終わるときも、ずっと私にしたいようにさせてくれた。私の意志を尊重し大事にしてくれていることは痛いほどに分かっていた。
同じ、と言うけど私は別に彼が忙しい人だから別れたがったわけじゃない。彼がない時間のなかで私に会ってくれていたことも伝わっていたし寂しいと感じることはあっても、それを理由に離れたいと思ったことなんてない。
ただ彼のことが大好きでそのせいでどうしようもない不安が私にあっただけだ。それは私自身の問題であって、本当は私が向き合って解決しなくちゃいけなかった。でも私はそれから逃げた。だから、彼は何も悪くない。
「なんで僕はダメなのにあれは許されるの?」
どこまで彼が私のことを把握しているのかは分からなくても、私が他の男性を恋人とし、彼が忙しくするのを許し、付き合い続けたことが彼にとっては受け入れがたいことであるようだと言うことは、彼の語気でなんとなく分かった。
別れを切り出した瞬間以上の勢いに押されるように自然と一歩下がる。そこで初めて、私は彼の顔をまともに見つめた。仕事から帰ってきたときに見かける闇に紛れるあの黒い服だったけど、いつものサングラスはなく、素顔だ。青く輝く瞳が私を見ている。表情のない美しい顔にその瞳だけは異常なほど爛々と輝いていた。
その瞳を見た瞬間に私は考えるより先にもっと後ずさり、来た方向に駆けだしていた。逃げる必要はない。逃げることなんてない。逃げる方が変だ。そうだよね? だって彼は何も私から奪うことなどしていないし、されたことだってなかった。彼が私に何かをするほど、私に価値なんてない。自意識過剰だ。自問自答する。
転びかけて、よろける。履いていた靴がその拍子に片足だけ脱げたけど裸足のままで走った。頑張って走ってまた転びかけて、今度こそ体が地面に崩れ落ちそうになる。名前が呼ばれたと思ったときに、私の体は支えられ抱きかかえられていた。私が逃げたことなんてなかったような一瞬の挙動だった。それはいくら私の足が早くないとしても異常だった。そもそも彼が追いかけてきている様子だってなかったはずなのに。
何をされたのか分からない現実味の無い彼の様子に、私がどう逃げてもまたこうして簡単に捕まってしまうだろうことが分かると同時に掴まれている手首にもう逃げるために走り出すことも出来ないと思い知らされる。そして、こんなに久しぶりに触れられても、やっぱり大きな手だと思った。
「こんな風に落とすなんて僕に拾ってほしかった?」
突然の全力の逃走で整わない呼吸に熱を帯びた頭では彼の言葉が届かず、一拍を置いてやっと理解してから首を横に振る。体に力が入らない。
距離をとろうと彼の体に手をつき離そうとした私の足の汚れを手で払うと、拾って来てくれたらしい私が先ほど落としてきたオープントゥのミュールを手ずから履かせる。だけど下ろしてはくれなかった。
「今、すごく大変≠ネことになってるんだよね?」
私を、こんな場面には似つかわしくないほど恭しく抱えなおすと、彼が念を押すように言う。
「僕が助けてあげる」
「助けるって……」
「君の今の彼はね、このままだと死ぬよ」
彼の言葉が冗談ではないことはすぐに分かって、自分の血の気がサッと引く音が聞こえた気すらした。
顔色を変えた私を彼がのぞき込む。瞳が近い。私を見つめる彼の、表情の変化や光の加減で瞳の色合いが変わるその瞳が部屋にしまい込んだまま、それでも忘れることも手放すこともできないあのネックレスを思い出させる。
「でも僕なら助けることが出来る。君が僕に縋るなら、すぐにでも」
無言のままでいる私に彼は続けた。
「なんでもしてあげるって言ったでしょ?」
にっこり笑う彼に、私はそこでようやく彼が見たことがないほどに、強く怒っているということにやっと気づいた。何に? 私に? 私の恋人に? 抱き上げられているのに彼の怒りが重力として体にのしかかるように重たくて、私は自分の指先に力が入らず、痺れているのを感じていた。
彼の唇が弧を描く。どこか演技じみた美しい微笑みは大仰さも含めてまるでつくりものみたいに完璧だった。籠められているのが怒りだと分かっていても見惚れてしまいそうなほどだったけどその完璧な表情は怖い顔をされるよりもよほど彼が今どういう感情なのかを他者に理解させた。
その笑みは別れ話のあのときを思わせた。私はそこに至って初めて、あのときの彼もこんなふうに強い感情を抱いていたのかもしれないと思った。今気づくということに、あのときの私は本当に私のことしか考えていなかったし頭になかったんだなとも、思った。
「私が、どうすれば、……叶えてくれる?」
なんでもしてくれると言ってその言葉通り彼がなんでも℃рノ施してくれたとき、私はいつも自分に出来る代わりのことを返した。だから彼の言葉も私が返さずにいられないことを知っていてわざと口にしている。それを分かっていても望まれた答えを返した。
「僕が何を求めて欲しがって、ここにいるのか分からない?」
彼がここに足を運んでまで欲しいもの。恋人の命の代わりのもの。怒りを見せた相手に助けてもいいと思えるくらいに値するもの。
彼が金銭的な意味での対価をわざわざ会いに来てまで必要とするとも求めるとも思えなかったが、他に私が彼に渡せる価値のあるものを他には思いつかなくて、どれだけ頑張っても支払いますと口にすると、彼は「あはは」と声を出して笑った。少しも楽しくなさそうで、怖い笑い声だった。
「本気で言ってる?」
「だって他に、……渡せるものなんて持ってない、から」
彼は私の頬を撫で、触れた。先ほどまで彼が見せていた怒りとは裏腹に愛情に満ちた仕草だった。でも私にはとても外れない力が籠められている。彼はその仕草で言外に何を求めているのか指し示した。
まさかという言葉が頭をめぐる。恋人の死を予言された瞬間以上に信じられない気持ちの方が大きかった。取り繕う前に言葉を失った私に彼がとどめを刺す。
「君自身を僕に返して。君の全てを差し出して」
その言葉に私は考えるより先に言葉にしていた。
「どうして?」
困惑だけが滲む私の返事に、彼は表情を変えずに私を見つめた。そしてどこか寂しさの滲む顔をした。瞬きの間のことだった。
「僕が一番欲しいものが君だから」
頑張るんだよね? と私自身の答えを聞く前に、彼は歩き出す。私が向かっていた場所とは正反対の方向だ。彼の背中越しにどんどんとマンションの姿が離れ、遠ざかっていく。
彼は私を抱えたまま、私の左手の薬指から嵌まっていた指輪を引き抜いた。彼がその指輪を手の中に握りこむと不可視の圧力を受けたように捻じれて潰える。あまりにもあっさりとした指輪の終わりは夢の中の出来事みたいだった。
「今度こそ僕とお揃いの指輪、一緒に買いに行こうか」
靴も履かせたし、こうして助けに来たし、僕って王子様じゃない? と彼が言う。先ほどまでとは違う、感情の起伏のない平坦な声だった。彼がそうだったとしても私はきっとお姫様にはなれないなと思った。
いつかされたように、指輪を引き抜かれた指をなぞられる。太い指にそうして触れられると先ほど彼の手の中で残骸にすらなれずに粉々に砕け散った指輪の様子を想起させた。その気になれば彼は私の指はもちろん私自身を簡単にそうできるだろう。今この瞬間もそうだし、今までもそうしなかっただけだったのだと気づく。
私はなぜかこんな状況で、あのネックレスをもらってから石の名前の由来を調べて彼と話したことを思い出した。由来の一つに空の色をしているというのがあって、だから見てみたいなと言った。出来るなら彼と一緒がいいと思ったし、彼がいることに意味があって、私は本当はどこだって良かった。そしてそれを彼にはやっぱり伝えられなかったし、終わりまでそうだったのだ。
彼は私の彼の日常を思えば夢を見ているような言葉を否定しなくて(それこそなんでもしてあげるという言葉の通り、私が願ったことは難しいことでも彼はずっと許してくれた)いつかそうしてどこかに二人で行けたらと約束をした。結局私から願ったその約束も果たされる前に、私自身が手を離した。
彼はきっと今も昔も変わらない。私がただ間違えた≠フだ。もし私がもっと違うことを考えて行動していたらこうはならなかっただろうかと思うものの、私が私であるだけでいつかきっとまた同じことをしただろう。だって私は今でも恐かった。彼自身でもなく、彼が今から私に何をするのかでもなく、彼の意志で私を必要ないことにされるのが、恐い。きっとそれは本当の終わりだ。だからその前に私は選んだ。
「君がそういう男を好きなんだったら最初から僕もしたいようにすればよかったね。全部奪えばよかったんだ。優しくしたって愛してると分かってくれないならさ」
彼の瞳と目が合う。苦い笑みを浮かべた彼は私の頬を、唇を、指で確認するように撫で、最後に額に触れてくれた。その瞬間に意識が遠のく。走馬燈みたいに彼との今までのことが頭の中をよぎった。そして彼を堪らなく好きだと思った。
私はやっぱり今でも彼が好きで、彼がまだ私になんらかの感情を抱いていて、時が経ってもなお取り返しに来てくれた。だけどハッピーエンドにはならない。歪なことばかり思う私がお姫様なわけがないから、童話みたいな結末は迎えられない。私が彼の元に戻ったとしても今までと同じようには、彼の逆鱗に触れる前には戻れない。
でも強引に彼のものにすると言ってもらった今この時のほうがこれまでのどの瞬間よりも私にとっては安心があった。私の全てが彼のものにしてもらえるならもう離れることなんて考えなくて済むのだろうか、そう思うと、それだけで、私は。
真っ暗な中に全てが落ちていく。昏闇の中に星は見えず、彼の色も見えることはない。ただ、呑まれていく。