まどろみの終末
ゆるやかに船を漕ぐ。風にのって流れていく白い綿雲は、目一杯に広がる蒼すぎる晴天で海水浴をしているかのように呑気だ。
穏やかも穏やかな快晴の下で、なまえは草原に無防備に寝っ転がり瞼を閉じる。雀の囀りと草木が揺れる音に耳を澄ませながら、大きな欠伸を静かに噛み殺した。
「おはよう、なまえ」
ふいに、影が落ちる。少女は頭上で響いた愛おしいテノールにぱち、と閉じていた瞼を持ち上げた。そうして視界に飛び込むのは、黒いアイマスクを付けた白亜の髪の男の姿。その長駆はにこやかな笑みを浮かべながら、青空を遮ってこちらを見下ろしている。
「随分気持ちよさそうに寝てたね」
「ん、せんせ?」
ひらひらと手を振る悟を見てから何度か瞬きを繰り返したなまえはくぁ、と欠伸をしながら大きく縦に伸びをする。頭の片隅でなぜここでお昼寝しようと思ったのかを考えてみたが、寝起きのせいで上手く頭が回らない。ぼんやりと夢の狭間をさまようなまえに、悟は彼女の意識を起こすためにやや大きく声を出す。
「ハァイ、君の大大大好きなグットルッキングガイ五条悟だよ〜」
いつもの調子でおちゃらけた悟。なまえはそれに犬っころのようにはにかみながらわーい、とフリだけの声で喜び返す。しかし声色は素直で、今にも溢れそうな嬉しさは隠せなかった。
「いいね、僕もお昼寝する」
「もうお仕事はいいんですか」
「うん、あとはみんながなんとかしてくれるでしょ」
あぁ、哀れな伊地知さん。ご愁傷様です、と心の中でこっそり合掌をする。
「はぁー、忙しかった」
「おつかれさまんさ」
「ほんとにお疲れだよ、拝んでくれていいよ」
生い茂る草の絨毯に悟は腰を下ろす。
「また寝るの?」
「んぅ、おきますよ、いまおきます」
「目、閉じちゃってるけど」
くつくつと機嫌が良さそうに笑う悟に、なまえの口角もつられて上がる。悟の掌の温度を感じながら、彼に委ねるようになまえは目を瞑った。
随分と無防備を晒してくれるものだ。先生と生徒、それでも誰の目もない今なら、悟はなまえを文字通り殺すことさえできるのに。
呪力が流れていないというのはいいな、目が疲れない。おまけに今自分達が居るのは屋外だから、呪力や残げだって僅かしかない。
そう目隠しを外した悟は静かに微笑む。
ふわふわのなまえの濡れ羽色の前髪を、悟はくるくると指に巻き付けるようにして遊ぶ。剥き出しになったまあるく真っ白なそのおでこを、まるで愛しいぬいぐるみにするかのように柔く撫でつけた。
角張った大人の手。それでも指先からはじんわりと体温が伝わる。私より少し高いだろうか。
「あれ、もしかして無下限外してますか?」
「うん、よく分かったね」
「先生の手があったかくなったから」
さわさわと柔らかい風が吹き抜ける。青々とした緑の若葉たちが撫でるようになまえの頬を掠めていった。
同じ人間なのに、どうしてこうも造形が異なるのだろう。全部がちいさくできている隣の少女に見惚れながら、そんなちょっぴり馬鹿げたこと考えた。
「なまえ、こっち向いて」
「ん、」
低い声が唇にかかったと思えば、ふに、とやわらかいなにかが押し付けられたのがわかる。なにかの正体なんてとっくに検討がついているけれど、胸の高鳴りはいつも初を忘れない。いよいよなまえには、この蕩けたキスに慣れる日は最期まで来なかったようだ。
「顔真っ赤」
「……いじわる」
ふいっと顔を逸らす。するとなにか特別なことをした訳でもないのに悟は声を上げて笑う。
「かわいいねぇ、なまえは」
「揶揄わないでください」
「……かわいすぎて困っちゃうよ、ほんと」
砂糖と蜂蜜を混ぜたような声だった。
再び、キスの雨が降る。今度は触れるだけの、やさしいやさしいキスだ。なまえがくすぐったいと身を捩れば、ふっと笑いながら悟はまたかわいいを連呼する。
最期の最期で情けない姿を見せたくない。君が泣いてないのに泣くわけにはいかないから。まだ戦いは終わっていないから。軽いこの口からうっかり泣き言が零れないように、啄むようなキスをありったけの愛を乗せて繰り返す。
死なんて怖くはなかったけど、君だけが心残りだ。死んだからって、君が僕以外の誰かのものになるのは許せない。ダメな大人でごめんね、最期まで僕は君に呪いをかけるよ。ほんとうは一緒に持って行ってしまいたいけれど、流石に大事な彼女から未来を奪う真似はしたくない。
「君が来るまでずっと待っとくから、これからも一生僕だけのものでいてくれる?」
「……一生?」
欠伸か、はたまた僕のせいか。涙の膜で包まれた黒い瞳がゆっくりとこちらを確かめるように見つめてくる。不思議とその目には不安や嫌悪は宿っていないように見えて、それがまたどうしようもなく嬉しくて。
「うん。ね、お願い」
「ほんとうにずっと待っててくれるんですか?」
「そうだよ。だからその代わり寄り道しないで、ちゃんと僕を迎えに来て」
互いの鼻があたまが僅かに触れ合う。だからどうか離れないで。そんな思いを胸にぎゅうと小さな腰を抱き締めれば、はじけたように君は笑った。
「ふふ、じゃあ走って迎えに行きます」
「少しでも浮気したら呪うから」
「それ、せんせーが言うとこわいよ」
「もしかすると世界も終わらせちゃうかも」
「それはいけませんね」
「なら約束、破らないで」
うとうと船を漕ぎ出す彼女に僕は問う。
「言われなくても、私はずっと先生のものなのに」
「ほんとかな」
「ほんとです」
「ぜぇーったい浮気したらダメだからね、わかった?」
「はぁい」
カチリ、と縛りが結ばれる音がした。
「ん、いい子」
「先生の教え子第一号ですからね」
「その前に僕の奥さんでしょ」
「そうでした、奥さんだった」
ぐりぐりと僕の首に回る腕の力がだんだん弱くなっていく。
「せんせい、だいすき」
「僕も大好きだよ」
「今までたくさん一緒に居てくれて、ありがとう。ずっと大切にしてくれてありがとう」
「そんなの、こちらこそだよ」
「いっぱいいっぱい休んでくださいね、必ず迎えに、いきますから」
「うん、ずっと待ってる」
涙が一筋、こめかみに吸い込まれた。
「……ほんとは、もっと、いっしょに、」
目を瞑るなまえ。悟の肉体が光の粒に飲み込まれていく。最後に唇を寄せた。
「おやすみ、なまえ。あの世で待ってる」