畏怖の正体
己の持ち得る言葉で説明できるような、そんなハッキリとした理由は一つもなかった。ただ、なんとなく。その緑眼が、どこか己のほの暗い劣等感を映し出しているような。そんなごく普通の赤ん坊とはずっと異なった、恐ろしい気配がコイツには確かにあった。
そう一人の父親はアザだらけの己の子供を前に、言い訳じみたことを考える。自分の優越感と支配欲のためだけの拳を、息子目掛けて大きく振りかぶりながら。
これは一人……否、一匹の「害虫」がこの世に産まれ落ちるまでの物語だ。
◯
春、赤ん坊が産まれた。
生まれて間もない、小さき命。それは幼いながらに随分と整った顔立ちをした、可愛らしい男の子だった。艶やかな母譲りの黒髪と翠色の瞳を宿したその赤子の名は、京蟲天道。名付けの親は父親だ。太陽のような子に育って欲しい、そんな願いを込めて大事に育てたいと言っていた。無論、それはあくまで口だけに過ぎなかったようだけれど。
「いい加減泣き止ませろ!!」
赤子の目が開き、首が座り始めた頃。父親が突然豹変した。毎日のように母親に怒声を浴びせるようになったのだ。
赤ん坊は顔をだるまのように赤く染め上げる。しわくちゃの泣き顔でなにかを訴えるように、やつれた母親の胸の中で泣き声をあげ続けた。
「ご、ごめんなさい……」
「謝るくらいなら早く泣き止ませろって言ってんだよ。ったく、本当にお前は役に立たない女だな」
俺は寝る、と舌打ちをした男は乱暴に箸を置いて立ち上がる。残った夕食に視線すら寄越すことなく、ダイニングテーブルから離れた父親はすぐさま寝室へ消えた。赤子を抱きしめながら俯いた母親は、静かに嗚咽を響かせながら赤子をあやす。しばらくして、ようやく泣き止んだ子供を横に、彼女は冷めた夕食を一人口に運んだ。
言わずと知れたことだが、こんな生活を続けていればいずれ限界が訪れる。一年の月日が経つ頃には、既に母親は廃人のように成り果ててしまっていた。
それに比例するように、父親が家に帰らなくなる時もまた増えた。
微かに冬の澄んだ空気を含んだ風が、石鹸の香りが残る赤子の服を揺らす朝。ベランダのふちに止まった一匹のトンボ。その常磐色の目玉は、新築マンションのある一室の窓ガラス越しに、泣き喚く小さな赤子の姿を捉えている。
「…………」
ベビーベッドで泣き喚く赤子に見向きもせず、母親はキッチンのシンクをじっと見つめる。随分と長い間、彼女は電池の切れた機械のようにぼうっと意識を手放していた。手には、包丁と今晩のカレーのために買ったじゃがいもが握られている。
赤子はいまだ泣いている。しかし、彼女はやはり見向きもしない。マンションの縁のトンボが、一匹増えた。益々、赤子の泣き声がひどくなる。それでも母親は気付かない。また、トンボが増える。
どのくらいそうしていただろうか、先に我慢の限界がきたのは赤子の方だった。とうとう泣き疲れたのか、ぴたりと泣き声が止む。トンボの目玉が、赤子から母親へと移った。
「ひっ、!」
母親はバチバチ!!と気味の悪い音に意識を取り戻した。何事だ、と音のする方に目を向けたその瞬間、彼女は悲鳴をあげる。当然だ。なんせ窓ガラスいっぱいに、ぎっしりと赤いトンボがへばりついていたのだから。
不気味な大量のトンボ。さらに意志を持っているようにも見えたそれは、誰が見ても恐怖を感じるに違いない。もはや気色が悪い、なんて簡単な言葉で片付けられる代物ではなかった。
母親は怯えた。つぅ、と背中に冷たい汗がつたる。咄嗟に包丁から手を離して、リビングに駆け込む。何も分かっていないのだろう。静かに天井の一点を見つめていた赤子を、はやる気持ちでベビーベッドから抱き上げた。乱暴に胸元に抱き寄せて、大きな窓から守るように距離を取る。
するとどうだろう、トンボの羽音が突如止んだ。母親は訳が分からないとばかりに、大量のトンボを見つめる。何がきっかけだったのかは分からない。
トンボは我に返ったように一匹、また一匹と去っていく。気付いた時には、何事もなかったようにただ見飽きたビル街がベランダの向こうに広がっていた。
母親はへたりと絨毯に座り込む。はっと思い出したように腕の中の息子に目をやれば、赤子はただぼうっとこちらを見つめているだけ。呑気にも少し口角が上がっているようにも思える。この子の顔をきちんと真正面から見たのは、随分と久しぶりな気がした。
その日をきっかけに、赤子が声を上げて泣き喚く日が極端に減った。母親はそれに気付かないふりをしながら、憑き物がとれたように笑顔を取り戻すように努めた。
◯
ちょうどその日は父親が家に帰ってきていた。一向に返信の来ない妻に一言言ってやろう、と憤慨しながらマンションのエレベーターに乗って家の玄関をくぐる。
「……は?」
口から漏れたのは怒声ではなく、困惑の混じる己の声。無理もない。入ってすぐそばにある台所で、妻が倒れていたのだから。
「おい!しっかり、ってなんだこれは……」
父親がようやく異変に気付く。
父親はすぐに思い当たった。これはおそらく個性であると。そして。もしかすると得体の知れないなにかを、私達は産んでしまったのではないかと。あの勘は間違ってはいなかったのだと。
彼の周りには、大量の不気味な乳白色の蛆虫が緩やかなうねりを打ちながら転がっていたのだから。
生まれながらにして不平等な世界。
不意にぐちゅり、と足の裏に気味の悪い感触が走る。なんとなくその感触の正体が想像できてしまった己を憐れみながら、恐る恐る右足を上げれば。そこには濁ったパステルグリーンの色をしたシャクトリムシのようなものが、足の裏で靴下越しに潰れていた。
ぞわ、と全身に鳥肌が立つ。顔をひくりと引き攣らせながら、父親はあの息子を心の中で呪った。
おかしいのはコレだけではなかった。相も変わらず家族の仲は険悪ではあったものの時は経ち、天道が幼稚園に通う歳になった。
中々心を開かぬ天道に、母親はもちろん教員も苦笑い。ただでさえ強個性であった天道、オマケに極度の人見知り。ひと月が過ぎた頃には、彼含めた天道は教員達の間でもっぱら問題児と噂をされるようになっていた。
事件が起きた。天道が同い年の子供をムカデで刺し、気絶させてしまったのだ。ただ、これはあくまで外から見た事実に過ぎない。実際、天道は彼を救うためにムカデを使ったに過ぎなかった。
理由は簡単。彼が女の子をしつこく虐めていたからだ。気に入っていたのだろうか。砂や酷い時には泥をかけて、女の子が泣いて逃げるのを追いかけて虐めていた。本人は遊んでいたつもりだったのだろうが、少女にとっては苦痛以外のなにものでもない。
彼はたまたま一人で教室にいた彼に泣きつき、「助けて」とお願いをした。だから、少し懲らしめてやった。それまでだった。
だが、周りはそれを正義とは捉えなかった。少女はきちんと弁明をしたが、先程の男の子の親がそれに一向に耳を貸さなかった。生憎、証人もいなかったため、天道はその日から危険視され、ついには除け者にされた。
その日からだった。全てが狂いだしたのは。
父親はある日、声をかけられた。怪しそうな眼鏡をした、白衣をまとった年寄りだった。
「お前さんの子供、人をも殺せるぞ」
かつてヒーローに憧れていた自分が抱いていた、強個性への嫉妬と羨望。妻への支配欲、会社内でのストレスや孫の顔を見せろと騒がしい家族たち。自分の理想と、今の色のない現実。個性で全てが決まってしまう、理不尽な世界への苛立ち。
何よりもう一度、家族を一からやり直したい、そう思っていた。
だから全てを、息子のせいにした。
決して、天道だけが原因ではなかった筈なのに、彼は己の欲望と赦されたいという願望のためだけに、息子を売ることにしたのだ。
「ふぉっふぉっふぉっ、そうかそうか、話が分かる人間でよかった。そうじゃなぁ、ざっと一億は出してやろう」
「い、一億?」
「当然だ、子供を売ったんじゃ、一億なんざ優に超える。これからわしの言う通りに行動してくれるならもう一億だしてやるわい」
そうして、父親は決意した。
息子のことを、あの医者に売りつけると。
精神病院に預けるという体で、妻には内緒で息子を捨てることに決めたのだ。最低だと言われるだろう。しかし、天道には生まれながらに運がなかったのだ。
哀れだと思った。同時に、聡いとも思った。なぜなら、彼は既にそのことを理解しているようだったからだ。
こうして、人間の皮を被った君は誕生した。