パンドラと金の星
審神者という存在は、一歩本丸の外へ出れば、命を脅かされることも多い。
それは例え政府管轄の演練場であっても同じことで、よほどのことがない限り刀剣男士は主の傍を離れない。
だから、近侍且つ恋仲の燭台切光忠がなまえの傍を離れることなんて、最もあり得ないことだった。
「小狐丸、光忠くんを見なかった?さっきから見当たらないんだよ」
「はて、見ておりませんが…。厠では?」
私が二振り分戦いましょうと渋る小狐丸を連れて、燭台切を捜しに行くことにした。
もうすぐ演練が始まる時間なので、演練場の廊下にはほとんど誰もいない。まずは近場のトイレから小狐丸に捜してもらおうとしたところで、物陰に隠れた人影が視界の端に映る。
「…?」
知らない女性と、その女性の腰に手を回して抱き寄せている燭台切光忠。
物陰とは言え、人目も憚らずベタベタする二人は恋人同士なのだろう。しかしその燭台切は、間違いなくなまえの本丸の燭台切光忠であった。
「光忠くん…」
「…刀違いでしょう」
まさか、という顔で小狐丸は尋ねるが、腐っても審神者である。自身の霊気を間違えるはずがない。
「あら」
呆然と立ち尽くすなまえに女性の方が気づいた。
「この子、もしかして貴方のところの燭台切?」
「……」
「さっき突然言い寄られて。私に一目惚れしてしまったんですって。悪いけど、この子はこのまま連れて帰るわ。ごめんなさいね?」
そんな馬鹿な。
あまりに唐突な展開に、憤慨することも忘れ呆気にとられる。何を言っているのだろう、この人は。
「……光忠くん?」
呼びかけると、燭台切は僅かになまえへ視線を向ける。が、なまえのことなど知らないような冷たい目をしていた。
まさか今日初めて会ったであろうこの女性に一目惚れして、長らく過ごした本丸を捨てて去っていってしまうなんて、そんなこと絶対に有り得ない。けれど、今の彼の態度は女性の言うことと一致しているように見える。
「ぬしさま。恐らく燭台切は操られています」
「えっ」
なまえに耳打ちした小狐丸は手を裏返すと、指を重ね合わせてファインダーを作った。狐の窓だ。
「…ほう。これはまた、妙な術を」
「わかった?どうしたら解けるの?」
「非常に強力な術です。致し方ありません。燭台切はあの女にくれてやりましょう。そして近侍の座を私めに」
「馬鹿言わないでよ…」
こそこそと話すなまえと小狐丸を尻目に、燭台切は背後から女を抱きしめ、首筋に鼻を埋める。
「こら、ダメよ光忠。まだ話してるんだから」
燭台切は女の顎を持ち強引に振り向かせ、唇を重ねた。一度合わさった唇が少し離れ、深いキスになる。
開いた唇から赤い舌が覗き、絡め合わせた其処が銀糸で繋がる。───ぞっとした。
「光忠くん…何で…」
「ぬしさま、見てはなりませぬ」
後ろから小狐丸に抱き込まれ、目を隠される。
「今の燭台切は意識がない状態。あの女が望むように動く人形に他なりません」
「でも…あんなこと…」
「そうして、ぬしさまの動揺を誘うのが目的かと」
「そんな」
ひどい。精神衛生上キツすぎる。
今すぐに泣き出したい一方で、女に対する怒りもふつふつと沸いていた。勝手に術をかけて、燭台切を操るなんて。
「あの女、同様の手口で他の本丸の刀剣男士も手中に収めているかもしれません。生け捕りにして居場所を吐かせましょう」
「うん…。小狐丸、気をつけて」
抜刀した小狐丸の前に、一期一振と長谷部が立ち塞がった。二人とも燭台切と同じく、どこか目が虚ろだ。彼らもこの女に操られている、他の本丸の刀剣男士かもしれない。
もしそうなら、絶対に帰してあげなければ。なまえと同じように、不安に押しつぶされそうになりながら彼らを捜す本当の主がいるはずなのだから。
* * *
小狐丸が最高練度だったことが幸いし、操られていた男士たちは全員保護され、犯人は政府の職員に引き渡すことができた。
何度も同じ説明をさせられた挙句、「事件の詳細は追って報告します」とだけ告げられたことには少々閉口したが、向こうも仕事なのだから仕方ない。
暗示が解けた男士たちは政府お抱えの医師による検診を受け、異常はないとのことですぐに帰宅許可が出た。
操られていたときの記憶は朧気で、燭台切は犯人に声を掛けられてからすぐに意識を失ったらしい。
とにかく迷惑をかけたと謝る燭台切に、なまえと小狐丸は一瞬目を合わせ、事件の内容は伏せておくに留めた。知らない人間に身体をいいようにされていたなど、燭台切だって知りたくないはずだ。
それで事件は終わった、はずだった。
二週間ほど経った頃、例の事件について報告会があるので出席してほしいと政府から連絡があった。恐らく事件の詳細や、犯人の処遇などが決まったのだろう。
護衛のために刀剣男士を一振り同行させろとのことだが、当事者とはいえまさか燭台切を連れて行くわけにはいかない。
小狐丸に声をかければ、「面倒なので嫌です」と断られた。素直過ぎる。
仕方なく内番や出陣に組み込んでいなかった鶴丸に頼むと、二つ返事で了承してくれた。彼は内容に関わらず外出を好むので、こういうときは非常にありがたい存在だ。軽く事情を説明すると、「そうか」の三文字で済ませてくれる適応力の高さも素晴らしい。
報告会では、まずなまえが犯人を捕まえたとして軽く表彰された。
褒賞があるというので金一封かと期待していたら、賞状を入れるための額縁だったので普通に落胆した。せめて資源が良かった。
政府の報告によると、犯人は観念したのかヤケクソなのか、すぐに全て吐いたらしい。
まず女は、そもそも審神者ではなかった。過去に審神者登用の試験を受け、適性なしで不合格になった記録が残っていた。
その後は眉唾物の魔術を学び、演練場で気に入った刀剣男士をかどわかしていたそうだ。逆恨みなのか、わざわざ審神者と恋仲の刀剣男士ばかりを狙って。
今後は演練場のセキュリティ強化に努めますという明らかに形だけの対策を表明され、報告会は終了した。
「みょうじさん」
鶴丸とさっさと帰ろうとしていたら、見知らぬ女性から声をかけられる。
「備前国の審神者です。あの、一期一振の…」
「ああ…」
犯人の女を庇おうと立ちふさがった、二振りのうちの片方が一期一振だった。ということは、この子は一期一振の恋人の審神者か。
「あの、犯人を捕まえてくださってありがとうございました。まだちゃんとお礼を申し上げていなかったので…」
「いえ、私は見てただけなので。小狐丸が捕まえてくれたんですよ。今日は連れてきてないんですけど、伝えておきますね」
なるべく軽い感じで言えば、彼女は安堵の表情を見せる。
「一期がいなくなって、ずっと捜していたんです。政府から連絡を頂いたときは驚きました」
「そうですか。体調は問題ありませんか?」
「体調は…大丈夫です」
「…?」
小首を傾げて見せると、彼女は伏し目がちに話し始めた。
「せっかく一期が戻ってきてくれたのに、何だかギクシャクしてしまって…」
「…?それは───」
「本当に、自分でも最低だと思うんですけど…、一期が知らない人になってしまったみたいで、怖いんです…。私のことを忘れて、他の女の人に触れていたのかと思ったら、なんていうか… その手で私に触れてほしくないって思うようになってしまって…」
「……」
「一期は被害者なのに、傷ついているのは一期の方なのに、私…」
今にも泣きだしそうな彼女の肩を支えたのは、傍に寄り添った宗三左文字だった。
「すみません。数か月も行方不明だったので、少し不安定になっていまして」
「…いえ…」
「帰りましょう、主」
宗三に支えられながら去ってゆく彼女の後ろ姿を見ながら、なまえは何とも言えない気持ちで俯く。
なまえの本丸の燭台切は犯人に捕らえられてから、一時間も経たないうちに取り戻せた。それでも犯人を抱きしめたり、深いキスもしていた。
他の本丸の刀剣男士たちは、もっと長い間あの女に囚われていたのだ。───恐らく、肉体関係も……
「なあ、主」
額縁を抱え直しながら、鶴丸が問う。
「きみも、今の子と同じことを考えているのか?」
「同じって…」
「光坊に触れられたくないとか、そういう馬鹿げたことさ」
「…」
あの事件以来、なまえは燭台切を近侍から外し、夜の誘いを断るようになっていた。
事件当日は疲れただろうからゆっくり休んで、と。その次は生理だから、と。その次はあまり体調が優れないから、と。何やかんや言い訳をして、指一本触れさせていない。
恋仲になってから、これほど接触がない期間も初めてだった。下手をすれば、恋仲になる前の方が触れ合っていた程に。
「そんなことは…ないけど…」
「なら、そろそろ光坊を部屋に入れてやってくれるか」
伊達組で一部屋割り当てているから、同室の燭台切が夜に不在かどうかくらいわかってしまうのだろう。いずれにせよ、聡い鶴丸には遅かれ早かれ気づかれるとは思っていたが。
「いつまで拗ねてるんだ」
「…別に、拗ねてるわけじゃ…」
燭台切が自ら他の女に触れていたというショックを引きずっている。そこに彼の意思はなかったとわかっているのに。
花街に行って他の女性を抱いたとしても目を瞑ろうと思っていたが、隠れて行われるのと実際目の当たりにするのでは差が大き過ぎる。
気持ちはわからんでもないが、いい加減にしてくれよ、という鶴丸の冷たい声が耳に残った。
* * *
その夜、燭台切はなまえの部屋を訪れた。鶴丸に何か言われたに違いない。
「入ってもいい?一緒に寝たいんだ」
「…えーと…、ごめん、今日ちょっと疲れてて…。ほら、政府から呼び出しがあってね、」
「そういうこと、しないから…。一緒に寝るだけでも駄目かな」
「…」
同じ布団に入れば確実にそういうことをしたくなってしまうし、多少強引に迫られたとして跳ねのける自信はない。
けれど、燭台切とあの女が絡み合っていた記憶が鮮明にフラッシュバックしてしまう。頭のどこかで僅かな違和感と嫌悪感を燻らせながら抱かれるなんて、それこそ燭台切に失礼なのではないだろうか。
「そ、そういう意味じゃなくてね、えっと…ほら、布団狭いから、光忠くんもちゃんと休めないだろうし…」
「じゃあ布団二枚敷くから」
「う、うーん…えっと…」
「…?」
部屋の前で押し問答していると、ふと、燭台切の唇の端が切れていることに気づいた。身だしなみを気にする伊達男にしては珍しい。
「光忠くん、ここ血が出てるよ」
自身の唇を指して指摘すると、燭台切はジャージの袖で唇を乱暴に拭った。
何とはなしにその動作を眺めていると、そういえば頬も少し赤いことに気がついた。そのまま目で辿っていくと、首筋まで広範囲で赤くなっている。細かい傷も無数にあった。
「…これ…」
首元に手を伸ばして触れると、燭台切は反射的であろう痛がる素振りを見せた。
思わず部屋に引きずり込んで無理にジャージを脱がせようとする。燭台切は少し抵抗したが、なまえが本気だとわかると諦めて力を抜いた。ジャージの下のTシャツを捲れば、腕や腹まで赤くなっていた。
「何これ!?」
アレルギーだろうか。食べ物───それとも何か虫や植物に触れて───いや、まさか喧嘩?
でも傷なら出血があるし、痣ならもっと青黒くなる。一方的に叩かれたか、熱湯をかけられたか…
「だ…誰にやられたの、こんな…」
「違うよ。僕が自分で…」
「自分で?」
「…洗ったんだ」
洗った?
洗ったくらいで皮膚はこんなに赤くならない。力加減を誤るほど、顕現して日が浅いわけでもない。
誰かを庇おうとしているのか、問い詰めようとすると燭台切は俯いた。
「…小狐丸さんに教えてもらったんだ。僕があの女の人に触れたところ、触れられたところ、全部」
「!!」
洗った。タオルで、血が滲む程に強く擦ったのだ。あの女と触れ合ったところを全て。
「待って…。今、手当てするから…。座って」
震えそうになる声を隠しながら、救急箱を取り出す。
出陣の怪我ではないから手入れ部屋は意味がない。保湿クリームとかでいいのだろうか。いや、消毒が先か。ではなくて包帯…は、巻いたことがない…。どうしよう、薬研を呼んで───
「主、ごめんね」
「…」
「ごめん…。僕、自分が情けなくて…」
包み隠さず全て知ってしまったのだろう。小狐丸、絶対後でシメる。
「光忠くんが悪いわけじゃないんだから、こんなことしなくていいんだよ。もう絶対しちゃ駄目だからね」
「…」
「光忠くん」
「…」
燭台切は返事をしない。なまえが本気で何か言ったときは、必ず素直に頷いてくれるのに。
「あのね、あの人に触れられたからって、気にしなくていいんだよ。別に毒を塗られたわけじゃないんだから───」
「毒だよ。君に触れられない、触れてもらえないなら、毒じゃなきゃ何だって言うんだ」
「…」
「僕があの人に触ったから、汚いから、君に触れられないんだろう」
「…」
図星だった。汚いなんて思っていない、けれど、嫌悪感が拭えない。
「君に触れられないなら、こんな体いらないよ」
燭台切はそう言って、涙をこぼした。あの燭台切が、体躯を縮こませて泣いている。人間に拒絶され、捨てられた犬そのものだった。
たまらなくなって、頭ごと抱きかかえる。膝立ちになったなまえの胸のあたりに、ちょうど燭台切の顔が埋まった。匂いを確かめるように、すんすんと鼻を啜られる。
「…さわっていいよ」
「…」
「光忠くん、……触ってほしい」
恐る恐る背中に回された腕が、綿あめでも掴むかのようにそっと力を込められる。
もう、嫌だとは思わなかった。
「…ごめんね、光忠くん」
「……嫌いにならないで」
「ならないよ。ごめんね、ごめん…」
燭台切を傷つけたのはあの女ではなく、紛れもなくなまえ自身だった。