したごごろを少し。


「ナマエ、残業かい?」
 
「……はい」
 
残業申請を憂鬱になりながらも印刷してパソコンに向かっているプラターヌ博士に提出すると、ヒラヒラと残業申請を私に見せびらかしながら問いかけてくる。
本当は残業なんてしたくないのだが、明日の講演会の資料がまとまらないのだ。
原因は要領の悪い自分にあることも承知している。
 
ふー、と静かにため息を聞こえないように吐く。
他の人達は自分の勤務を終えて帰宅してしまい、残っているのは私と博士くらいだ。
彼の席のすぐ後ろにある窓ガラスからは夕暮れ時を知らせるようにオレンジ色の明かりが差し込んできている。
 
「もー、誰かに手伝ってもらえばいいのに」
 
「……すみません」
 
定時までに終わると思っていたものの、資料の訂正などが次々と見つかり修正しているうちに定時だ。
元々、最初に隅々まで確認していない自分が悪いのだ。
あの時に確認しなかった自分を責めてやりたいと思うものの、時既に遅し。
そんな事を彼に話したところでただの言い訳にしかならず素直に頭を下げる。
 
「……言ってくれれば、ボクが手伝ったのに」
 
「そんな、悪いですよ」
 
「元々はボクの講演だし……ボクにだって責任はあるよ」
 
そう彼は言うと開いていたパソコンを隅に片付けてデスクに両手をつくと重そうに腰を上げる。
どこへ向かうのかと思いきやその先は給湯室だった。
慌てて後を追い、顔だけ出して覗き込むと紅茶のパックが入っている箱に手を伸ばしている。
来客用なのに紅茶でも作るのだろうか。
 
「あの、私やりますよ」
 
「いいよいいよ、ナマエはボクのデスクに座ってて」
 
そう言うと彼は鼻歌交じりにマグカップを二つ取り出しては紅茶作りに勤しんだ。
そんな彼が少し微笑ましくて薄く笑みを浮かべると一度自分の席に戻って椅子だけを彼のデスクの前に引っ張ってくる。
その間に資料の再確認をしようとノートパソコンも持ってきて、デスクの上に広げて確認しながら彼を待っていると、目の前に湯気立つ紅茶が置かれる。
 
「ありがとうございます」
 
お礼の言葉を述べると私の分の紅茶を置いた事で空いた片手でノートパソコンをパタン、と閉じられてしまう。
何故、と問いかけるように彼に視線を戻す。
 
「今はお茶会なんだから、仕事は後回しだよー」
 
「はぁ……」
 
いつの間にかお茶会が開かれていたらしい。
自分の席に紅茶を置くとまた給湯室に消えてしまった。
疑問符を浮かべながらノートパソコンを汚さないよう自分のデスクに戻していると、クッキー缶を持って博士が戻ってきた。
確かあれは最近カルネさんが研究所に訪れた時に持ってきたものだ。
女優の仕事でロケに行った先で買ったとか話していた気がする。
テーブルの真ん中にクッキー缶を開けて置くと、自分の席に腰掛けて満遍の笑顔でこう言った。
 
「さ、お茶会しようか!急だから安物でゴメンねー」
 
「でも博士、資料は……」
 
私の心配をよそに博士はクッキーに手を伸ばしている。
チラリとクッキー缶を覗くとサブレやラングドシャなど多種類のクッキーが所狭しと敷き詰められている。
私も思わず手を伸ばしそうになるが、今はぐっと堪えた。
 
「休憩も大事だよー」
 
「でも明日の朝一に博士は出られるので……」
 
「ボクも手伝うから、今は休憩する。これは上司命令だ」
 
いつもより真剣な顔つきで言われて思わず身体が強張るも、「なんてね」と紅茶を一口飲んだ後に付け足された。
苦笑を浮かべながらも紅茶の水面を見つめる。
ほんのり香る茶葉の香りと共に反射して映る自分の顔は少し疲れているようにも思える。
 
「ナマエは頑張りすぎだよ」
 
「そうですかね……」
 
自分ではよくわからない。
言われたことを期限までやっているだけだ。
ただそれだけである。
 
「たまには有給使ったら?残ってるでしょ?」
 
「んー、そうですねー……」
 
頭の片隅で最後に有給使ったのはいつだろうか、と辿るも覚えていない。
週末は休みのものの、急用で研究所に来ることはしばしばあるため休みという休みを取っていない気がする。
 
「今度休み取ったら?」
 
「……そうですね、そうします」
 
ではいつ休みにしようかな、と曖昧な計画を練りながらもマグカップに手を伸ばして紅茶を飲む。
渇いている口内に紅茶が満たされ、その温かさが身体に染み渡る。
この香りと味、アールグレイだろうか。
 
「ほら、お菓子も沢山あるからね」
 
「ありがとうございます」
 
身を乗り出して、クッキー缶を僅かに私の方に寄せる。
迷いながらも一枚選ぶと一口齧り付く。
 
「ボクも休み取ろうかなー」
 
そうポツリと独り言のように呟いてクッキーを食す。
 
プラターヌ博士というとずっと研究所にいることが多い。
私達が先に帰宅しても、恐らく彼は残っている事が殆どなんだろう。
それなのに彼は疲れの表情を見せる事なく、毎日自分の作業をこなしている。
そんなプラターヌ博士を密かに尊敬しているも、彼も決して疲れていないわけがないのだろう。
 
「博士も休みましょうよ」
 
「そうだねー、一緒に休み取ろうか?」
 
「あはは、面白そうですねそれ」
 
チラリとクッキー缶の中身を確認する。
サブレがあと一枚しかない。
最後の一枚を頂こうと手を伸ばすと、プラターヌ博士もサブレを狙っていたのか指先が触れ合う。
 
「あっ…」
 
反射的に手を引っ込めてしまう。
まるで博士を意識しているのを丸出しではないか、と両太腿に両手を付き、気まずさに視線を逸らす。
 
「あの、最後のサブレどうぞ……」
 
声が少し裏返ってしまったような気がして尚更恥ずかしい。
かあ、と頬が熱を帯びていく。
 
「ナマエが食べてよ」
 
「私は……、いいです」
 
首を静かに横に振る。
 
「要らないの?」
 
「……要らないです」
 
「本当に?」
 
「……本当です」
 
半ばしつこいと思いながらも視線を合わせずに応える。
うーむ、と少し困ったように唸る声が聞こえた。
 
「じゃあ、半分こしようか」
 
ガサガサという音は恐らくサブレを取り出す音だろう。
顔は何処でもない何処かに向けたまま視線だけを目の前にいるプラターヌ博士に向ける。
サブレを両手で割ろうとしているのが映り、慌てて何も見ていない素振りをする。
パキッ……とサブレの割れる音が聞こえた。
 
「あー……」
 
残念そうな声が聞こえた。
恐らく上手く割れなかったに違いない、と心の中で決めつけながらも彼に視線を戻すと、やはりそうだった。
 
「ゴメン、大きさ偏っちゃった。ボクは小さい方を食べるから」
 
そう言って大きい方の割れたサブレを差し出してきた。
割れ方を見るにかなり偏っているようだ。
これじゃあ博士の方は2割しか残ってないじゃないか。
そんな偏り具合だった。
 
「博士が大きい方食べてください」
 
「だーめ、今日はキミがお客さんなんだから」
 
どうやら私はこのお茶会のお客さんだったらしい。
渋々とサブレの片割れを受け取る。
私の表情とは反対に博士は何処か満足そうで、ニコニコと笑顔を振りまいている。
そんな笑顔に思わず釣られながらもサブレを一口食べる。
サクサクとした食感に濃厚なバターの味がまたたまらなく、紅茶がすすむ。
 
「それで、さ……さっきの話の続きなんだけど」
 
「続きですか?」
 
「そう、休み一緒に取ろうかって話」
 
あれは冗談では?と聞き返すとカップを片手に困り笑みを浮かべられた。
どうやらプラターヌ博士にとっては冗談ではなかったらしい。
 
「休み、一緒に取ってボクと出かけない?」
 
「それって……つまり?」
 
そういうの、期待してしまっていいのだろうか。
次の言葉に期待を膨らませる半分、期待外れな言葉が出てくる不安もあった。
 
するとプラターヌ博士は視線を反らし、一度紅茶を啜る。
私も合わせるように紅茶を一口頂く。
彼の口から次の言葉が出てくるまで、緊張で胸の高鳴り紅茶の味がよくわからなくなってきた。
先程まではそんなことなかったのにこれも全部博士のせいだ、と勝手に責任を転嫁する。
 
「……デート、だよ」
 
その言葉に恥ずかしさのあまりにカップを持つ手に力が篭った。
再び熱を帯びる頬。
仄かに期待していた言葉が出てきた喜びに緩む口元。
それを隠すために紅茶を飲むふりをして口元をマグカップで隠した。
彼も同じ気持ちなのか不自然に腕で口元を隠すも、僅かに頬が紅く染まっているのを私は知っていた。