背中におぶったなまえの足からパンプスがころりと脱げ、トラファルガー・ローは今夜何度目かの舌打ちをした。
―――まったく、どれだけ世話を焼かせるんだコイツは。
なまえがずり落ちてしまわないように注意深く膝をつき、ローはパンプスを拾い上げた。
靴というのは、いったい何時間歩き回ればここまで傷むのか。持ち主の悪癖をそのまま表したように、片側ばかり擦り減っている。気に入った持ち物は後生大事にしているのを知っているので、このパンプスは消耗品と完全に割り切っているのだろう。
それとも手入れをする余裕もない程の生活をしているのか。
むにゃむにゃと何事か呟いたなまえを、背中を揺らしてもう一度抱え直す。
酔った彼女を家まで送るのは慣れていたが、ここまで無茶な飲み方をするのを見たのは三度目だ。
一度目は長年拗らせた片想いのお相手にこっぴどく振られた時。
二度目は母親を亡くした時。
今日は、会社で自分が立ち上げたプロジェクトを他に持っていかれたと言っていた。
奪い返せばいいだろそんなモン、とローは一蹴したが、もう無理なのと泣かれた。
女性向けの製品開発プロジェクトで、それは入社した頃からの自分の夢で、信頼できるメンバーとともに改良を重ねようやくサンプルが出来上がった、と話してくれたのはつい先月のことだった。
発売されたら絶対買ってね。あっ、でもローには必要ないか、男の子だもんね。
そう冗談を言って笑うのを、眩しく思ったばかりだった。
―――このサンプル作った会社、どこ?うちとの取引あったっけ?取引先の選定ってね、会社的に色々ややこしいんだよ。女の子にはわからないと思うけど。まあ、とりあえずお疲れさん。また何か良いの思いついたら、教えてね。
あとは開発会議でプレゼンをして、取締役の承認がもらえたらいよいよテスト販売、というところだったらしい。
企画から外されただけでなく、上司から「女の子」呼ばわりされたのも彼女には大きなショックだった。あまり関わりのない上司ではあったが、上半期の評価は良かったので認めてもらえていると思っていたが、違った。
ただ機嫌を取られていたのだ。
私が、女だから。男じゃないから。
そう言って泣きながら酒をあおり続ける彼女に、ローは何も言えなかった。一度目も二度目も今回も、彼女は大事にしていたものを理不尽に失くしている。
それと似たような経験が、彼自身にもあったのを思い出して胸が痛んだ。
彼女の住むマンションの入口は小さな公園のようになっており、ローはいつもそこで彼女を見送って別れる。
ベンチに優しく彼女を降ろし、頬をぺちぺちと叩いて起こす。
「ほら、着いたぞ。鍵どこだよ」
勝手に中身を漁ろうとするローから鞄を奪い、自分でキーケースを取り出す。
完全にではないが、酔いが醒めてきたようだ。
「早く立て。マンションの中に入るまでは待っててやるから」
「部屋まで、来てくれないの…?」
まだよく回らない舌でささやかに強請られる。
漂った色香に目眩がするのを堪えながら、ローは彼女の腕を掴み強引に立たせた。
「こういう時甘やかすなって言ったのはテメェだろ、自分で言ったこと反故にすんな」
彼女の瞳は一瞬揺れたのち、またいつもの強気な灯をともした。
コイツのこの瞳が好きだ、と思った。
「うん、そうだね。…ありがと」
部屋に着いたら連絡するね、と会った時よりは幾分元気そうに、彼女はエントランスに向かった。
自動ドアが閉まる瞬間、もう一度振り向き小さく手を振るのが見えた。
やがてエレベーターに乗って行ってしまったのか、エントランスの照明が落ち、入口のドアは鏡となってローの姿を映した。
鏡の中には、いつもの自信に溢れた彼ではなく、甘やかしてやりたいのにそう出来ない、情けない顔をした男がいた。