〈ビクトリア・シンドリー不慮の死〉から十年。寂れた劇界に彗星の如く現れたのが、後に伝説となる舞台女優、ノリッジ・オリヴィアであった。
その美貌も然ることながら、卓越した演技力を備えていた彼女は、以降あらゆる公演で主役を務めた。しかし彼女は終演後のファンサービスはおろか、新聞社の取材依頼ですら一切受けることがなかった。オペラカーテン越しでしかお目にかかれない特別感は、上流階級の所有欲をおおいに刺激した。観劇券の転売額は瞬く間に高騰し、リピーターを自負していたはずの貴族達は、いつしかその懐具合が気になり始めたようだった。ある者は転売側に寝返り、またある者は黒い取引に手を染めた。
そうして闇々の底で産声をあげた化け物が、流れてくる金を喰らって大きく膨らみきった頃。
―――ノリッジ・オリヴィアは、忽然とその姿を消した。
「まさに伝説、だよなぁ……」
くわえたままになっていた煙草から大きな灰の塊が落ち、マーティンは持っていた写真を慌てて横にどけた。
これから先、この被写体以上の美女にお目にかかることは、おそらく無いだろう。新聞記者という仕事に生涯の情熱を捧げる約束をしたマーティンにとって、女性の美醜は興味の対象外だったが、〈かの海賊女帝とどちらが上か〉という低劣なディベートにはよく参加した。結局、決着はつかなかったが。
被写体は正面を向いておらず、この写真が盗撮であることを示している。オリヴィアの熱烈なファンを自称する一般市民から買い取った物だ。失踪事件の直後は目も当てられない有様だったが、あれから少しは落ち着いただろうか。
事件性ありと判断した当局による大規模な捜索が行われたが、オリヴィアはまったく見つからず、有益な目撃情報もまた得られなかった。当初こそ無事を祈る声ばかりであったが、次第に彼女は人々の好奇の的へと成り下がった。代わりに主役に抜擢された女が事件に関わっているのではないか。どうせ男と逃げたに決まっている。いや、攫われて競売にかけられたと聞いた。そんな無責任な噂が泡のように次々と生まれては消える中、マーティンは同時期に発生したまったく別の事件から、ある一つの仮説を立てていた。
―――もし彼女が、革命軍の諜報員だったとしたら?
穴が開くほど見つめたオリヴィアの写真。そこに写った美女はまるで、撮られていることを承知していたかのように、薄らと微笑んでいるように見えた。
「今さら出ないわよ、オリヴィアの記事なんて」
サボは新聞から目を上げて、同朋であるなまえの方を見た。朝刊を隅から隅まで探る彼の様子に、さすがに呆れているらしい。
「世間の興味なんかとっくに冷めてるし、そもそも正体がバレるようなヘマはしませーん」
長期潜入から戻ってきて早々、久しぶりの挨拶もなくなまえは当たり前のようにサボのベッドを占領してころころと転がっていた。鬱陶しかった変装からようやく解放され、すっかりお寛ぎのご様子だ。
そもそもは裏社会における金の流通経路について、見当をつけるためだけの潜入だった。随分と派手な諜報活動をしてくれたが、ターゲットにした武器市場を壊滅にまで追い込めたのは、完全になまえのお手柄だ。劇場がピンハネしていた報酬まで回収してきたのは予想外であったが。
当の本人は間抜けな顔で大きな欠伸をしている。これがあのノリッジ・オリヴィアと同一人物だとは、確かに誰にも見抜けないだろう。女の変装術は恐るべしだ。
「けど写真を撮られたんだろ?」
「撮られたんじゃないわ。撮らせてあげたの。いつも観に来てくれてたから、そのお返しにね」
「その写真を、どっかの記者が買ったって聞いたぞ」
証拠を闇に流す代わりに恩恵を享受していた政府役人が揃って首を切られたことと、一人の女性の失踪とを結びつけて考えるような事は万が一にも無いと思うが、それでも念には念を入れておきたい。なまえの身の安全に関わるのであれば尚更だ。
「心配だ。ちょっと行ってくる」
「今から?」
「すぐ戻るさ。ここで待ってろ」
〈オリヴィア〉がたくさん稼いできてくれたおかげで、思わぬ活動資金が手に入ったと幹部達はご満悦だが、サボが何よりも喜んだのはなまえが傷一つ無く自分の所へ帰ってきたことだった。
潜入中は気が気でなかった。それは最早、同朋への情をとっくに超えていた。
彼が誰にも告げずに胸中でひっそりと育んでいる情の名を、なまえはまだ、知らない。