店の角を曲がった途端、大きな壁のようなものにぶつかった。衝撃の重さでぐらりと身体が揺れ、その場に座り込んでしまう。ぶつかったのは壁ではなく、大柄な男性だった。
彼のことはよく知っていた。ガレーラカンパニーの不良職人、パウリーさん。この度副社長に就任したと聞いた。腕の良い職人とはいえ、ギャンブル好き借金まみれの人を幹部に据えるとはいかがなものか、と思ったものだ。
彼を追いかけているのは、ファンの女ではなく明らかに柄の悪そうな男達だった。まだ夕方なのに、男達からは酒の匂いがする。おそらく真っ当ではない方の借金取りで、パウリーさんがまたどこかのツケを踏み倒そうとしたのだろう。だらしのない人は嫌いだし、できれば関わりを持ちたくない。だから差し出してくれた腕を、思わず振り払ってしまった。
けれど私はすぐに、申し訳ないことをしたと思った。彼の驚いたような顔が、今にも泣き出しそうな少年のように見えたから。
誰かに背中をぽん、と叩かれて我に返った。振り返ればよくうちの店に来るおばさんで、心配して声をかけてくれたようだ。わずかの間に不良職人も借金取りも、その場からいなくなっていた。
手で小さくマルを作っておばさんに応えると、おばさんはにっこりと笑った。
「家に帰るなら、送ろうか?」
私に〈聞こえる〉ように、ゆっくりと口を動かしてそう言ってくれる。親切な申し出だが、私は首を横に振った。おばさんの家は私とは反対方向だ。最近一緒に暮らし始めたお孫さんが、そろそろお腹を空かせている頃だろう。
おばさんは無理強いすることなく、にこやかに手を振って見送ってくれた。この町に住む人たちは、本当に優しい人ばかりだ。
私の耳は、小さい頃にその機能を失っている。産まれた時はまだ聞こえていたそうだが、残念ながらその頃の記憶はほとんど無い。それでも私が幸福だったのは、周りの人に恵まれたからだと思っている。
今は家族3人で、小さな商店を営んでいる。パウリーさんは、たまにうちへ葉巻を買いに来る客の1人だった。
明くる日、パウリーさんは小さな花束を持って店に現れた。けれど花束には不釣合いな、怖い目つきをしている。一体どうしたのかと思って見ていると、会計台で座っていた私の前まで一気に詰め寄ってきた。
私に何か話しかけているようだが、そっぽを向いているため、内容がまったくわからない。花束をずい、と突き出してきたのでおそらく私にくれるつもりなのだろうが、理由もわからず受け取るわけにはいかない。
結構です、と言うつもりで私が顔の前で大きく手を振ると、パウリーさんはしまったという表情になった。職人服の胸ポケット、腕、腰と順番に叩いていき、肩を落とす。すると母が微笑んで、いつも使っているメモ用紙を横から渡してくれた。ついでにペンも借りて、軽く手を上げて礼を伝える。
パウリーさんは〈ケガは?〉と書いたメモを見せてきた。
〈きのう ぶつかった ケガは?〉
どうやらぶつかったお詫びの花らしい。母のアドバイスもあり、せっかくなので受け取ることにした。
問いに対して首を横に振る私を見て、ようやくパウリーさんは眉間のシワを薄くした。〈よかった。〉と破顔した彼は、これまで私が抱いていた印象とはまるで正反対だった。ぶつかっただけの私にわざわざ花を贈ってくれるなんて、ずいぶん律儀な人だ。手を振り払ったりなんかせず、きちんとお礼を言えば良かった。そう思った。
あれからパウリーさんは頻繁に店にやってきて、葉巻を買うついでに、一言二言会話をして帰っていくようになった。天気の話。二軒先の店にいる大きな犬に吠えられた話。アイスバーグさんの新しい秘書の話。何も買わずにマドレーヌやクッキーを置いていくだけの日もあった。
会話は主に筆談だったが、私が口を読めることを知ると、直接話しかけてくれるようになった。わかるようにゆっくりと声を出してくれるのは助かったが、そうしながら真っ直ぐ見つめてくるのでたいへん困った。パウリーさんはいつの間にか、私の中でちゃんと男の人になっていた。
ある日の夕暮れ時、彼はまた店にやって来た。踏み台を会計台の横に置き、そこに腰掛ける。仕事が速く終わった日はそうやってよく店に長居していた。客先から戻ってきた父に見つかり、ハタキをかけられてホコリと一緒に外へ追い出される姿を見て、母とよく笑った。いつもいつも、本当に楽しかった。
だけど、私には言っておかなければならないことがあった。それを伝えるために、パウリーさんに書いたメモを見せた。
〈あの時のことなら、もう気にしていません。お詫びならもう結構です。〉
メモを見た彼は大きく目を見張った。明らかに動揺していた。
お わ び
一句一句、反復される。ケガの見舞いに来てくれたのなら、とっくにその用件は済んでいるはずだ。それに、そもそも私はケガなんてしていない。
こんなことを言ったのは、昼間の出来事のせいだ。うつむいて拳を握りしめる。
商店街を歩いていたら、知らない女性達に取り囲まれた。何か言っているようだが、何人かが代わる代わる話すのと、早口なのとでまったく読み取れない。なんとか一人だけでも口を読もうと正面の女性を見ていると、急に横から耳を引っ張られた。
〈あんたなんか〉
〈ぱうりーに〉
〈どうじょうされてるだけじゃない〉
同情されてるだけじゃない。もっともなご指摘だ。そんなことをわざわざ言いに来たのか、こんな大勢で。
慎ましく暮らしてさえいれば、誰からも何も言われない。優しくされたからといって、調子に乗って境界線を越えてはいけない。長い間忘れていたことを、私は思い出してしまった。
パウリーさんの反応が気になって目線を上げた。彼はあの時と同じく、泣き出しそうな顔をしていた。
踏み台から腰をあげ、パウリーさんの脚が扉の方へ向かうのが見えた。これで良かったんだ。私達は、あの時街角でぶつかっただけの仲に戻るべきだ。
二、三深呼吸して、ようやく緊張が解けた。影の動きで店の扉が開いたのがわかって、私はつい振り返った。けれどそこにいたのは、パウリーさんだった。
どうして。驚いた私をよそに、パウリーさんは最初の時と同じように、また真っ直ぐ私の方へ歩いてきた。思わず後ずさった私の腕を、彼はあっさりと自分の方へ引き寄せた。
何か言いたげに口をぱくぱくとして、思いつめた様子でメモを取る。ペンで何か書いて、間違えたのか上からぐりぐりと線を書いて消す。また何か書いて、ぐりぐり。ぐりぐり。彼はしまいに、頭を抱え込んでしまった。
一体どうしたのか、心配で顔をのぞきこんだが目を合わせてくれない。今までのメモはくしゃくしゃと丸めて服のポケットに入れ、代わりに、新しい紙にこう書いた。
〈最近上陸した海賊が、この辺をうろついてる。気をつけろ〉
そういえば父も同じ話をしていた。船の修理費を巡って争い事が起こるのは茶飯事だったが、ガレーラカンパニーが大きな戦力を欠いた今、この町の治安も脅かされていた。
「なまえ」
パウリーさんは私の両肩をつかむと、とても真剣な顔で私を見つめた。
「また来る」
それだけ言い残して、店を出て行った。
また来る。それは、期待してもいい、ということだろうか。詫びでも同情でもなく、来たいと思ったから来てくれるのだと。
私は少しだけ、いや、かなり舞い上がっていた。だからせっかくパウリーさんが警告してくれたことを、すっかり忘れてしまっていた。
目が覚めたら知らない場所にいた。頭が痛い。何かで殴られたみたいだ。
港の倉庫だろうか。立ち上がろうとすると、大きな影が何体も近付いてきた。
見上げたが、周りが暗いせいで何もわからない。かろうじて男とだけ判断できるぐらいだ。
そのうちの一人に、乱暴に髪を掴まれた。酒臭い。男の着ている服から、潮の香りに混じって血の匂いがする。どこかで嗅いだような匂い。
それを思い出すのと、男が何かを叫んだのはほぼ同時だった。これは、あの時パウリーさんを追いかけていた男達の匂いだ。
男の口の動きに、〈おもいしらせてやる〉〈ふなだいく〉という語句が見えた。
船大工。ガレーラの人達のことだろうか。
何も言わない私に腹を立てたのか、頬を一発殴られた。痛みと衝撃で、その場に崩れ落ちる。もう一度髪を掴まれ、上を向かされた所で、男達の空気が変わった。
私の位置から見えたのは、倉庫の入り口から漏れた光だった。光は徐々に大きく広がり、その眩しさに目を細める。その向こうから、人が現れた。
人影は両脇からロープを繰り出した。蛇よりもしなやかで速く、鞭よりも鋭く、巧みにロープを操る姿は、私がよく知っている人だった。
あんなにいた男達が、一人ずつ倒されていく。職人の大切な手が血に濡れる。胸に差したお気に入りの葉巻は何本も落ちて転がっている。凶暴性をあらわにした彼を見ながら、怪我をしていないかという心配以上に、自分を助けに来てくれたことが嬉しいと思ってしまった。
私の髪を掴んだままの男が最後の一人となった時、初めてパウリーさんの表情が見えた。これまでにないくらい、険しい顔をしていた。
〈はなせ〉。そう口にするやいなや、彼の放ったロープが男の手首から肩の方へ、きつく絡みついた。パウリーさんがロープを引くと、いとも簡単に男の手は私から離れた。体勢を崩した男がたたらを踏んだところに、パウリーさんの拳が飛んでくる。最初は顔に。そしてお腹。うずくまり悶え苦しむ男を容赦なく蹴り上げると、転がった先で男はそのまま動かなくなった。
パウリーさんは肩で大きく息をしながら、私の前に膝をついた。
口をゆっくりと動かし、〈だいじょうぶか〉と聞く。殴られた所はまだ痛むが、大丈夫だ。私が頷くと、パウリーさんが大きく息を吐いた。
〈よかった〉。そう言って私に触れようとして、手が汚れているのに気付いたのか、慌てて引っ込める。私はその手に追いすがり、自分の頬にぴたりと寄せた。誰のものともわからない血がついていたけれど、汚いとは少しも思わなかった。
私はパウリーさんの目を見て、感じたことをそのまま声に出して伝えた。ありがとう。ありがとう。何度も何度も。
彼の前で発話をするのはこれが初めてだった。伝わるだろうか。来てくれてありがとう。助けてくれてありがとう。
パウリーさんは私を強く引き寄せて、その腕の中に閉じ込めた。私はいつの間にか泣いていた。息がうまくできなくなっても、しゃくり上げながら、私はありがとうと言い続けた。言う度に腕の力が強くなった。
「なまえ」
彼は私の耳元に唇を寄せ、何か囁いたようだった。顔を見ることもできないので、何と言われたのかはわからなかった。けれど耳を擽る彼の吐息は、幾度も幾度も、やさしく降り注がれた。
それは私にしか聞こえない、彼の声だった。
***
父が私達の交際を許したらしい、と母から聞いた。どうやら私の知らない所で事態は進んでいたらしい。教えてくれれば私だって、きちんと自分で話をしたのに。
除け者にされたようで寂しい、と拗ねていると母はさらに私の知らなかったことを教えてくれた。
〈父が許してくれるまでは、何もしないと約束していたそうですね〉
膝の見えるスカートを履いただけで烈火のごとく怒る彼。まるで父親がもう一人増えたみたいだ。貞操観念があるのは結構だが、いい加減キスの一つくらいはしてもらいたい。
先程のメモを見せてから、パウリーさんはぷいと横を向いたままでいる。
少しだけ背伸びをして、彼がくわえたままの葉巻を没収した。驚いた彼がようやくこっちを見たので、私は自分の口元をちょんちょん、と指で叩く。
残念ながら意味が通じなかったようなので、私はもう一度同じことをした。ただし、今度はもっとわかりやすいように、唇を少し尖らせて。
彼は今にも爆発四散しそうな顔をして、口をぱくぱくと激しく動かした。伝わったことに満足した私は、これ以上ないくらいの勇気を振り絞って、彼を見上げた角度のまま瞳を閉じた。
観念した彼に優しく触れられた時、この人のことが、心の底から愛おしいと思った。