※夢主=酒場の歌姫、の妹。まだ幼い。
赤髪海賊団の出港を見届けてから一週間。彼らがいなくなった穴を埋めるかのように、酒場は相変わらず賑わっていた。
店主であるロイドさんがキッチンからようやく顔を出し、フロアを見回している。注文のチキンが焼き上がったようだ。けれど奥さんは忙しくフロアを行ったり来たりしていて、ロイドさんにまったく気付いていない。
「私が運んであげる」
「ありがとな、なまえ。助かるよ。窓際のテーブルだ」
受け取った皿からふわっと広がったスパイスの香りに、お腹が元気よく返事をした。ステージが終わったら、私も何か食べよう。
〈飲みたいだけなら酒買って帰れ〉がポリシーであるロイドさんは、安息日の前の晩に、フロアの奥にステージを作る。
ステージではちょっとした手品や芸、歌やダンスが見られる。お客さんのお支払いは、この日だけはなんと、席料のみ。楽しく飲めたのは演者のおかげ、今夜の支払いはそちらへ。そんな粋な計らいのおかげで、私達はたいへん気持ちよくお金を頂戴している。
私はお酒は飲めないけれど、この酒場と、ここにいるみんなが大好きだ。
「お姉ちゃん、もうすぐ出番だよ」
ステージ一番人気の歌姫は、私のお姉ちゃん。私とそう年齢は変わらないのに、歌声はもう立派な大人の女性。恋の歌から、親子の情で泣かせる歌、思わず手を叩きたくなるような賑やかな歌まで、お姉ちゃんは要望のまま何だって歌える。
私はお姉ちゃんの歌に合わせてピアノを弾く係。私が知らない曲の時は、別の人が別の楽器で参加する。時にはお客さんもステージに上がる。他の演者が乱入して、みんなで踊り出すこともある。
一人で寂しそうにお酒を飲んでいたおじさんが、歌が終わる頃には隣の客と肩を組んで朗らかに笑う。いつもはケチなおばさんが、これで美味しい物でも食べな、とベリーをたんまりくれる。お姉ちゃんの歌には、きっと魔法のような力があるに違いない。
ここの所お姉ちゃんはずっと浮かない顔をしていたけれど、ステージに立ってお辞儀をすると、笑顔の〈歌姫〉に変身していた。
歌ってとみんなからお願いされたのは、船長さんに教えてもらった曲だった。海を渡る男達の、愉快な日常を歌う曲。これなら私でも弾ける。私もお客さんに向けて一つお辞儀をしてから、ピアノの前に座った。
お姉ちゃんが、す、と息を吸ったのを合図に私は鍵盤を強くはじく。眩しい光のようにフロア中を満たす歌声を追いかけながら、私はあの海賊達のことを思い出していた。
***
彼らが酒場のドアを叩いた時、最初は追い出すつもりだったんだ、とロイドさんは話していた。お酒を扱う夜のお店とはいえ、私やお姉ちゃんみたいに、まだ大人とはいえない年頃の演者たちも多く出入りしている。万が一でも争い事に巻き込まれたら、お客さんや私達がケガをするかもしれない。
とは言えせっかく来てくれたお客さんに向かって、海賊はお断りだよ、なんてバカ正直に言っても怒らせてしまうだけだ。そうした無駄なケンカを避けるため、この店では〈海兵さん御用達〉の看板を勝手に掲げている。基地からは遠いので、実際は海兵さんなんて滅多に来ない。けれど店の中で暴力をふるうような人はこれまで来たことが無いので、ハッタリとしてはそれなりに通用しているらしい。
だからロイドさんは、店を訪れた一団が〈赤髪〉だと知ってものすごく慌てた。きっとこの程度のハッタリなんて見抜いているに違いない。どうにかして穏便に出て行ってもらわなければ。そう腹をくくった時、赤い髪の船長さんが前に出てこう言った。
「まァまァ、そう怖い顔しないでくれ。美味い酒が飲めると聞いてここへ来たんだが」
いかにも昔からの友達に、一緒に飲もうと誘われたように聞こえたそうだ。殺気なんて欠片もなく、これが本当にあの〈赤髪〉なのか、と。
聞けば仲間の一人が大ケガをしてしまい、その治療のための予定外の上陸だったらしい。
しかし港にはクラッツ爺さんといって、それはそれは海賊嫌いのとんでもなく怖いお爺さんがいる。ドクロの旗を掲げた船が入ってこようものなら、きっと港中大騒ぎになったはずだ。彼には会わなかったのかと聞いたら
「会ったも何も、ここまで案内してくれたのは、その爺さんだ」
にこやかにそう言われてしまい、断る理由がすっかり無くなってしまった。船長さんの人懐こい笑顔がそのまま一団の雰囲気を作っているような、今思えば不思議な人達だった。
彼らはあっという間に酒場の常連と親しくなり、店にも私達にも羽振良くお金を使ってくれた。ステージのない日は、彼らが異国の話や歌を聞かせてくれた。訪れたことのない島の、見たこともない動物。知らない花の色、鳥の声。いつまでも降り止まない雨の音、荒れ狂う波の凶悪さ、吹雪のすぐ後に吹く春一番。彼らの話はどれも新鮮で、私達をいつも喜ばせた。
船長さんには左腕がなかった。だからステージの後は、拍手の代わりによく私の頭を撫でてくれた。大きな掌はとても気持ち良く温かかった。
何でも知ってる船長さん。優しくて強い船長さん。けれど時折、寂しそうな顔をすることがあった。そういう時の船長さんは、いつも東の海岸にいた。
あの海の向こうに、何があるの。
その答えだけは内緒のまま、とうとう教えてもらえなかった。
「私もみんなと一緒に海に出てみたいな」
一度だけそんなワガママを言ってみたことがあった。他の人は笑っていたけれど、船長さんは困ったように目を伏せた。目線の先に、自身の失くした左腕。そういえばこの人達は、それぞれの身体に残る傷跡の理由について、決して語ってくれなかった。いつも綺麗な所だけ、私達に聞かせてくれていた。
嘘だよ、と慌てると、今度はいつもの笑顔で頬をつねられた。私の頬が温かいチーズのようにむにむにと伸びるのを見て、副船長さんがぷっと吹き出した。
文句を言ってやろうと思って副船長さんの方を見たら、その向こうにいたお姉ちゃんと目が合った。お姉ちゃんはぷいと目を逸らして、先に酒場を出て行ってしまった。変だなと思ったけど、理由を聞くことはできなかった。
ある日、お姉ちゃんが船長さんと二人でいるのを見た。
見てはいけないものを見てしまった気がして、思わず物陰に隠れてしまった。
二人が何をしゃべっているのかは、私のいる所までは聞こえなかった。ただ、お姉ちゃんがすがりつくように船長さんの服をつかんでいるのが見えた。その姿はまるで、見たことない女の人のようだった。
船長さんはあやすようにお姉ちゃんの背中をぽんぽんと叩いてから、すがりつく腕をそっと剥がした。お姉ちゃんはもう、船長さんに触れようとはしなかった。
「ガキのくせに、覗きか。趣味が悪いな」
私に声をかけたのは、副船長さんだった。そんなつもりじゃ無かったとはいえ、覗いていたことを自覚したら、なんだか急に後ろめたくなった。
「さすが姉妹だな。言う事やる事ソックリだ。……まァ、」
アンタの方がいくらか素直だがな。
なにが、と聞いたが答えてくれなかった。
船長さんは優しいけれど、副船長さんは意地悪だ。宿題の答えが合っていないと怒る先生みたいだと思った。
嵐よ来い、と神様にまで願った出港の日は、あいにくの快晴だった。予定通り島を出ていくらしいと聞いて、お姉ちゃんとロイドさんと一緒に港まで見送りに行くことにした。
港ではクラッツ爺さんが楽しそうに海賊船の最終点検をしていた。その周りでたくさんの人が、歌ったり踊ったり、バイオリンを弾いたりして、まるでお祭りのような賑わいだった。ロイドさんもそちらへ行ってしまったので、私はお姉ちゃんと二人きりになった。
お姉ちゃんとはここ数日、ほとんど会話をしていなかった。お姉ちゃんはあの時からずっと落ち込んだ様子で、何を話しかけても相手にしてくれなかったからだ。取っておいたピザを私が勝手に食べてしまって喧嘩になった時よりも、今の方が気まずかった。
船長さんにあいさつしに行こうよ、そう声をかけたけど、お姉ちゃんはうつむいたまま首を横に振った。私はロイドさん達とここで見てるから行っておいで、と言われたので、私は一人で行くことにした。
大きな声で船長さんの名前を呼ぶと、こちらを向いて腕を大きく広げて迎えてくれたので、走って思い切り飛び込んだ。クラッツ爺さんに同じことをするといつも転ばせてしまうけれど、船長さんは片腕でもちゃんと受け止めてくれた。
この時私は初めて、船長さんの身体が思っていたよりずっと大きく、たくましいことを知った。
「なんだ、もう終わりか?なまえ」
急に恥ずかしくなって離れてしまった私を、船長さんは意地悪そうに見つめてきた。
こんなふうに茶化されたら、言いたいことなんて何も言えなくなってしまう。大人はお別れが上手で、ずるい。
「なまえ、元気でな。姉さんと、仲良くしろよ」
「うん」
大きな船の上から、船長さんを呼ぶ声がする。もうサヨナラの時間だ。
海は私がこれまで考えていたより、もっと広くて遠い。彼らにそう教えてもらった。だから、また会えることはもう無いかもしれない。
だけどこんなに晴れた日に、泣き顔になるのは嫌だった。鼻の奥が痛むのを必死にこらえながら、私はニッコリと笑った。
「またね」
たとえもう会えないとしても、今日みたいな日に似合うのは、きっとこんな言葉だ。
船長さんは笑って頷いた。副船長さんが初めて、私の頭をそっと撫でてくれた。
***
水平線の向こうに消えた船を思い出して、ピアノを弾いていた指は止まってしまった。あの時と同じで、鼻の奥がツンと痛い。
指の上に、涙が一つ溢れた。それをきっかけに、また一つ、二つ。鍵盤の上に。手の甲に。太ももに、ひざに、床に。あとからあとから。
お別れなんて、本当はしたくなかった。恥ずかしいなんて思わずに、あの時もっと、ぎゅっと抱きしめてもらえば良かった。
あの時船長さんにすがりついていたお姉ちゃんが。お姉ちゃんを突き放した船長さんが。何を話したのか、何を考えていたのか、全部自分の中に流れ込んでくるようだった。そしてそれが私の喉を、胸を、つぶれるくらいに締め付けた。
お姉ちゃんは伴奏が無くなっても、変わらず歌い続けていた。ライトの下で堂々と、少しも声を震わせることなく、その曲を最後まで歌い切った。
終わったら、お客さんが泣きながら拍手をしてくれた。お姉ちゃんに支えられて私がようやく立ち上がるまで、その拍手は鳴り止まなかった。
手を引かれたままステージを降りて、店の裏に出た。こっちを向いたお姉ちゃんの顔は、涙と鼻水でグチャグチャだった。私もそれを見てまた泣いた。二人で抱き合って、たくさん泣いた。
お姉ちゃんも。私も。あの人のことが好きだった。本当に本当に、大好きだった。
***
「お頭ァー、こっち来ないんスか?」
酒の入ったジョッキを片手に大声を出した船員を、副船長は軽く手で制した。
「放っとけ。後で勝手に入ってくる」
「どうかしたんスかね?一人でしんみりしちゃって」
「さァな」
シャンクスは甲板の向こうで、壁にもたれるようにして立っていた。正面から受ける海風が、彼の赤い髪をそっと撫でていく。
風に混じって、小さく鼻歌が聞こえてくる。その曲名が何だったか思い出して、副船長は苦笑した。
星空の下、やわらかな波音は寄り添うピアノのように、心地よい旋律に変わっていく。束の間の平和に緩む気持ちを、今夜だけは許そうと思った。