「本当に、そのフレーズでいいんですね?」
「いいって言ってるじゃないの、ちゃちゃっと書いちゃってよ」
「そんな気楽なものじゃないんです」
アイマスクを付けたまま執務室のソファで寝そべるクザンに、私はわざと聞こえるような大きさで溜息をついた。
硯の中を墨汁で満たし、柔らかな筆先をそこに浸す。師匠から譲り受けた大筆は、いまや私の握り癖にしっくりと馴染んでいた。まるで意志を共有するかのごとく、こちらの思う通りの線を引かせてくれる。
<ダラけきった正義>。今まさにそれを体現している上司の姿を、書でどう表現したものか。勢いに乗せて走らせたような筆では、きっと与える印象が強すぎるだろう。かと言って仮名特有の丸みが強調されてしまうのも良くない。
いっそ活版にすればいいのに、と心で零す。
「なまえちゃん、まだー?」
「まだです」
これが芸術家のよく言う、降りてこない、という感覚だろうか。いつもなら紙の上にぼんやりと浮かぶ字体が、今は何も見えない。
彼が以前の彼のままだったら、すんなり書けただろう。太筆で雄々しく力強く、文字通り燃え上がる勢いそのままに筆を走らせる。それで良かった。
しかし彼は変わってしまった。変わっていく過程を、私はクザンのすぐ傍で見てしまった。ダラダラと緩んだその内側で別の部分を締め付けて、彼がいまだ苦悩していることも知っている。彼の正義を客観視するには、私達の距離があまりにも近過ぎるのだ。
「なに、恋人の寝顔に見惚れちゃった?」
アイマスクをずり上げこちらを向いたクザンは、マスクごと上司の仮面を外してしまっていた。まるで自宅の寝室にいるような、甘えるような瞳をこちらに向けている。
「そういや、今日の晩飯はなんだったっけ?」
「……勤務時間中です。公私混同は嫌いだと言っ たはずです」
「あらら、厳しいねェ」
ぷつりと途切れてしまった集中力はしばらく戻ってきそうにない。晩御飯のメニュー候補を次々と挙げる呑気な男を一瞥して、一日筆を置き深呼吸する。
青空を切り取った窓の外から、これから訓練に出る新兵達が整列点呼する声が聞こえてきた。
まだ真っ白の軍服を着た、青いままの若者達。彼等が、他人の流す血を見るのはいつだろうか。私は、いつだっただろうか。
「そんなに生き急いでどーするのよ、若者が」
いつの間にか窓際に来ていた彼が、私の頭上で呟く。わずかに願い乞うかのようなその声は、 友を喪い自らの正義すら見失った、少し前までの彼の姿を思い出させた。このまま消えてしまうの はないか。そんな不安に襲われて、気付けばク ザンのシャツの袖を掴んでいた。
私を見下ろしたクザンは、ほんの少しだけ目を細めた。縋るような私の手を優しく包み、そっと自身から離す。
「なまえ、そんな顔しなさんな。勤務時間中なんだろ?」
小さな子どもにするように私の頭をぽんぽん、と撫でて背中を向ける。自らの言葉で返された手前、その背に再び触れるわけにはいかない。
今なら書くべきものを書けそうな気がした。たっぷりと墨を吸った大筆を手に、もう一度半紙に向かう。
この先もう揺るがないであろう彼の正義が、想いが、前途ある者達へ届くように。願わくば彼らが、今夜の晩御飯を楽しみに今日一日を過ごすような、そんな日々が続きますように。