駅から十秒という好立地にあるコンビニエンスストア。毎週火曜日、仕事帰りは必ずここに寄ると決めている。というのも火曜日は新作スイーツの発売日だからだ。ありがとうスイーツ開発部の皆さん。私が今日も会社に行けたのは、すべてあなた達のおかげです。
だというのに、目当てのスイーツの棚はほとんど空だった。楽しみにしていた新作も勿論売り切れており、心の中でがっくりと肩を落とす。
──まあ、しょうがないか。
悔しいが新作スイーツは明日の楽しみに取っておくことにして、何か代わるものはないか、とパンの棚を物色した。すぐに目に入ったのは、こちらも新作なのか目立つポップのついた惣菜パンである。スイーツ扱いはできないが、明日の朝食には良いかもしれない。そんなことを考えながらパンに手を伸ばしたら、空中で別の手にぶつかった。
「あ、すみません!」
慌てて顔を上げると、長身の男性が私を見下ろしていた。
「失礼。貴女の方が先です、どうぞ」
彼はそう言って、私が取ろうとしていたパンを指した。丸くて小さい、変わった形の眼鏡をしている。その奥の表情は見えないが、唇を一文字に結んだ様子によると彼はひどく不機嫌そうだ。
「いや、あの、だいじょうぶです! よかったらそのパン、どうぞ!」
ここは穏便に済まさねばという強い義務感に駆られ、素早く別のパンを掴み後退りした。揉め事になっては危険だとでも言いたげに、頭の中でうるさく警告音が鳴っている。ラスト一個の新作パンよりも、自分の身の安全の方が私には重要だ。
男性はしばらく私の方を見ていたが、やがて視線を棚に戻した。
「そうですか。それでは」
男性の発した声は平坦ながらも思いの外穏やかで、私は拍子抜けした。
私は昔から、勘だけは人一倍良い。さっき受けた警告音、あれが鳴った時は大抵悪いことが起きるので身構えていたのだが、気のせいだったのだろうか。今は、とても静かだ。
ドリンクコーナーに向かう彼と入れ違いに、私は先に会計を済ませた。やれやれ、今日の収穫はパンひとつか。もう遅いし帰ったら先にシャワーを浴びて、うどんでも食べてさっさと寝ようかな。
そんなことを考えながら、レジを離れた時だった。
……ぐ………ウ、…が…
──ああ、まただ。
キンと響く耳鳴りのような高い音と、足元から響くような低い声。間違いない、アレだ。
昔から、勘の良さが災いして他の人には見えないものが見えることがあった。襲いかかってくるものを、私は秘かにアレと呼んでいた。
外に出る自動扉がギリギリ開かない距離。そこで私は立ち止まってしまった。
今にして思えば、それが良くなかった。いつものように気付かなかった振りをして、何が何でも家に帰れば良かったのだ。
……視 え ………テ、……… ?
立ち止まっている間に、アレは横にぴたりと張り付いてきた。生臭い息が耳にかかり、こみ上げた嘔気をぐっと堪える。
落ち着け、私。今までも大丈夫だったじゃないか。
そう思っているのに身体が動かない。
視エて る ナ ?
アレが笑ったのが、気配でわかった。ぬちゃりと粘ついた音と、首筋を舐められるような感触。実体のない質量が私の右肩からじわじわと侵食した。
嫌だ、気持ち悪い。誰か助けて。
「邪魔です」
さっきと同じ平坦な声に、一瞬で意識を引き戻される。
「……え?」
「そこに居られると邪魔です。退いてください」
「あ、すみません」
声を出してようやく、自分が息を止めていたことに気付いた。
「貴女ではありません」
彼は一言、そう放つと私の右肩を手で払った。
いや、払ったなんて生易しいものではなかった。まるで刀と化したかのように、彼の手が鋭く空を切った。アレは壁の端まで吹っ飛び、グシャリと潰れた音を立てた。
なおも固まったまま私が動けないでいると、彼は私の横を「失礼」とあっさり通り抜けた。ドアが開き外の風が吹き込んでくる。
「あの!」
慌てて私も外に出て、彼に追いつく。
「ありがとうございました」
彼はもう一度私の全身を、上から下までスキャンするように眺めた。まっすぐに結ばれた唇が解かれる。
「横取りの詫びです」
そう言って彼はコンビニの袋を軽く上げた。同じトーンの声なのに、さっきよりも温かく感じる。眼鏡の奥の目が、若干細められたように見えた。
「あの、よかったらお名前──」
言いかけて、私は気付いた。さっきの警告音が、また鳴っているのだ。急に口を噤んだ私を、彼は訝しげに見守っている。
この人に関わると、きっと良くないことがある。それがわかっているのに、私は彼と深く関わろうとしている。
「お名前、を、教えてください」
動かしてはいけない歯車が、回り始めた。