(無限列車興収400億突破記念)
(※煉獄さんがちょっとやばい人なのでご注意ください)
(※夢主の誕生日表現があります)
(※中身ないのに無駄に長いです)






厄日だ。間違いなく今日は。

早朝に間違い電話の鬼電で叩き起こされ、電源を切って二度寝すれば見事な寝坊。運悪く機嫌が最悪だった上司に最早人格否定に等しい説教を受けた挙句、その日一日はいっそ清々しいまでの八つ当たり要員として些細なことに難癖をつけられた。
定時を大幅に過ぎた頃、漸く帰宅を許された私は、ぼろ雑巾並みに擦り切れた精神でとぼとぼと帰路に着く。途中、水溜まりを踏んだ車に思い切り泥を跳ねられた。もう泣きたい。こんな私の取るに足らない愚痴に、「あまり気に病むな!君が頑張っていることを俺は知っている!」と励ましのメッセージをくれたのはSNS上のフォロワーさん一人だけだ。ありがとうワッショイポテトさん。どこの誰だかは未だ存じ上げない、私の初めてのフォロワーさん。優しいあなたのお陰でその場に蹲らず帰ることができます。




「別れてほしい」


しかし、いざ頑張って帰宅したら極めつけにこれである。


「名前、僕のこと好きじゃないでしょ。ずっと黙ってたけどさ、もう無理だ」


二年付き合った彼氏にフラれた。


「街コンで君に出会った時は運命だと思ったし、告白にオッケーしてもらえた時は天にも昇る心地だった。君も同じ気持ちなんだと……でも違った。君は何をするにもどこへ行くにもなんだかつまらなそうで。とりあえず肯定しとけとばかりに肯定の返事しかしない。そもそも、僕の話聞いてないこともあったでしょ。記念日は毎月忘れてるし、ウイスキーが苦手だと言った僕に贈ってきたバレンタインチョコはウイスキーボンボン。誕生日は二年連続で同じ店の売れ筋ナンバーワンのネクタイ。ああ考えるのめんどくさかったんだなって思うよねラッピングも父の日仕様だったの気づいてなかったし。それに何より、君の優先順位はいつだって僕が一番じゃなかった。二年も付き合っているのに一度も体を許してもらえない、それどころか家にすら上がらせてもらったことのない僕の気持ちを一度でも考えたことある?ねえ、本当は他に男がいるんだろう?最初はそれでもいいと思っていたけれど、もう限界なんだ、もう解放してほしい」

何が辛いってフラれたこと自体ではない。寧ろそれに関してはほとんどショックを受けていないのがまず問題だろう。
そういうところである。彼の言うことが全て大正解かつ正論すぎて、己の最低ぶりが突きつけられたのが、何よりも衝撃を受けた。そりゃ厄も降るわ。

どこか詩人じみていたり、記念日を毎月祝いたい系だった彼をめんどくs…と思わなくもなかったけど、それ以外は優しくていい人だし、仕事も安定していて見目も悪くない。結婚を前提にお付き合いするには申し分ないどころか優良物件だった。
彼氏いない歴イコール年齢だった私を心配した母親が勝手にエントリーした街コンで出会った彼に交際を申し込まれた時、『全く微塵もときめいてはいなかったけれどまあ一緒にいるうちにいつか好きになるかなあ』という軽い気持ちでオッケーしてしまったのがこのざまだ。電話口から聞こえる彼の声は若干病んでいる。ここまで追い詰めてしまったのは間違いなく私だ。順調に交際しているものだと勝手に思っていたけれど、それは彼の我慢の上で成り立っていたものだったのだと今ここで初めて知る。


「わかった、今までごめんね」と手短な返事をして電話を切った私は、はああ、と大きくため息を吐いた。
今日散々見た怒った上司の顔、極限まで思い詰めた元彼の声、それらがぐるぐる脳内を巡りながら、ああ私の存在は人を不快にしてしまうだけなんだと、どこまでも落ち込んだ。自分が常々社会不適合者だとは思っていたけれど、もう本当に無理だ。消えてしまいたい。来世に期待したい。


ネガティブが最高潮に昇り詰めた時、本能が精神の限界の危機を感じたのか、私はほとんど無意識に助けを求めた。


「うううう、たすけてレンキョさあああん……!」


そう言って顔を上げると、狭いワンルームの壁に幾枚も貼り付けられた同じ人物のポスター。そして壁沿いに配置された飾り棚には今まで発売されてきた”その人”のグッズが所狭しと並べられている。私の癒しの空間だ。これらを見るだけで極限まで荒ぶった感情がすうっと落ち着いていくのだから、彼の顔には鎮静作用でもあるんじゃないか、世界の医学向上のため誰か本気で研究した方がいいのではと大真面目にそんなことを思ってしまう。

彼こそが、今をときめく人気俳優、煉獄杏寿郎――通称レンキョ。かれこれ八年間不動の我が最推しである。


彼との出会い(一方的)は私が高三の時だった。
友人の付き添いで観劇した舞台に、彼が出演していたのが事の始まりだ。
まだ駆け出しだったレンキョは敵将の部下という大勢のうち一人、所謂脇役中の脇役で。出番は僅か数分程度だったように思う。

――が、そんな彼に、私は目が離せなくなった。

まるで炎を纏ったかのような熱い闘志を露わに、堂々と剣を振るう迫力満点の殺陣。敵を見据える瞳は確かに燃え盛っていた。
たった数分が私にとっては途轍もなく長い時間に思えて、舞台上から彼がいなくなった後も、私の心はすっかりあの炎の化身のような人に囚われていた。

帰宅後、彼が煉獄杏寿郎という名で、私と同い年の現役高校生だということを知った。
ほんの数カ月前にスカウトされたばかりだったらしい彼は事務所のホームページに載ったそれ以上の情報はなく、簡素なプロフィール横の顔写真はまだ写真慣れしていませんとばかりに非常に初々しいものだった。
それを見てますます応援したくなった私は、生まれて初めてファンレターを書いた。応援してる人がいるんだよってことを伝えたくて、定期的に手紙を出し続けた。


そして五年ほど前、初めて開催された彼のファンイベント。その一環だった握手会で初めて手紙を直接渡したあの日。


『そうか…君が!ずっと会いたいと思っていた!』


そう言って私の手をぎゅうと、しっかり握ってくれた力強い掌に、太陽のような笑顔に、私は再び心奪われた。その言葉は私を認識してくれていたものなのか、ただの常套句だったのかは分からない。けれど、そんなことはどうでもよかった。警備員さんに引き剝がされるまで確と離さないでいてくれた手と、炎を溶かしたかのごとく熱の篭った眼差しを向けられていたあの数秒間は本当に幸せで、生涯忘れないだろう夢のような時間になったのだから。そして。
『いつか必ず迎えに行く!待っててくれ!」テントを離れる時に鼓膜に響いた彼の大きな声、恐らく次に受けるオーディションか何かの台詞だろうそれはロマンティックの度を越していて、いつまでも私の耳に残った。


そうしてレンキョだけを見つめること早八年。
今や彼は主演映画の興行収入が四百億円を突破するという化け物級の人気俳優になってしまった。メディアで彼の名を見ない日はない。なんだか雛鳥が巣立っていく親鳥の気分だ。古参あるあるだなこれは。マウント乙とか言われないように気を付けないと。


『己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ、歯を食いしばって前を向け』


見上げたポスターにはレンキョ自身の名言が刻まれている。
そうだ、前を向かなければ。仕事でどれだけ失敗しても、嫌なことがあっても、彼のこの言葉があれば乗り越えられる。
しっかりしなくては。推しの言葉を無下にするなどファン失格だ。


そうして漸く気持ちを切り替えると、放棄していた帰宅後のルーティーンをこなしていく。スーツと靴の泥落としという余計な作業もあったけれど。これは明日クリーニングに持っていこう。明日はちょうど休みだ。26歳の誕生日を迎える私に、元彼が一日デートプランを立ててくれていたために取っていた貴重な有給。何が悲しくて誕生日に一人寂しくクリーニングなんか行かなくてはならないのか、とこれ以上は考えないこととする。ここは前向きに捉えよう、クリーニングにゆっくり行く時間をくれてありがとう元彼。

そうだ、明日は私の誕生日だ。

今の今まで抜け落ちていたそれを思い出した瞬間、は、と顔を上げて一目散に玄関へ向けて走り出した。
目当ては郵便受けである。毎年この時期に届くはずの―――あった。


「ひゃあ〜〜!」


郵便受けに落ちていた封筒を奇声を上げながら取り出す私は傍から見たら大層気持ち悪いだろう。
だがしかし、止めないでいただきたい。私が毎年、自分の誕生日を楽しみにしている理由の全てが、これにあるのだから。
毎年誕生日付近に届く、ファンクラブ会員特典のバースデーカードに。

推しがファンの誕生日を祝うためだけに毎年撮り下ろしているこの特別な一枚を来たるべきその日に拝覧するべく、SNSでのネタバレには充分注意してきた。やっぱり誰かの誕生日を祝うためのそれで中身を知るより、自分のためのもので知りたい。いや、バースデーカード自体にレンキョさんの手は加わらないけど。
つまり、そのネタバレ自衛の努力が今日報われるのだ。
なんだか既に一度開封されたような跡があるけど気のせいだろう。さて、今年はどんなご尊顔を拝めるのかな、とレンキョの所属事務所が差出人として記載された封筒をわくわくしながら糊付けされた封をぺりぺり剥がす。


―――が、私の厄日は終わっていなかった。

その史上最悪の災厄は、今度こそ私を地に叩き落とす。




***




ぎゃははは、と女子らしからぬ大爆笑を繰り広げる友人を見つめる私の顔は、虚無だった。


「遅刻したせいで上司の八つ当たり対象に抜擢され、泥を跳ねられながら帰宅したら二年一緒にいた彼氏にフラれ、挙句年一回の楽しみだったレンキョのバースデーカードには悪戯書き!どうしたら一日でそんな地獄のフルコースが体験できるの!!」


今しがた力なく話した昨日の災難を一から簡潔化して傷を抉る性根の腐った友人に一瞬来なきゃよかったと思ったのは内緒だ。
いや、自業自得でフラれた女の空いた予定の埋め合わせに付き合ってくれた上、誕生日だからと今日の飲み代は御馳走してくれる希少な友人だ、付き合いも高校時代からと長いのだから大事にしなければなるまい。例え人の不幸を面白がっているとしても、だ。許さん。

一通りゲラゲラと面白そうに笑い狂った彼女と私の間には件の、一年間ずっと楽しみにしていたバースデーカードが無造作に置かれている。


《Wishing you all the best on your special day!》

この有難いお言葉と共に印刷されたレンキョの撮り下ろし写真は、今年は白い紋付袴姿でまるで和装の結婚式のようだ。
お正月にも毎年袴姿の年賀状を公開されるけど、それとはまた違った破壊力で尊いったらない。


――が、問題はその下である。


『誕生日当日、君を迎えに行く。 煉獄杏寿郎』


と、冗談でも笑えない落書きがされているのだ。しかも油性ペンで、くっきりと、写真に被る形で。
最低すぎる。これ訴えたら勝てるかな、と本気で考えたレベルだけれど、ただでさえ忙しい郵便屋さんを巻き込むだけの迷惑案件になるからやめようと踏みとどまった。でも、人の郵便物を勝手に開けて悪戯するなどという行為はれっきとした犯罪だ。

そもそも、なんなんだ、この雑ななりすましは。
確かに筆跡は似ていなくもないが、仮にもレンキョだったら煉獄杏寿郎などと律儀に名乗らずあの豪快なサインを書いてみやがれってんだ。私は書けるぞ。


「うっうっネタバレ自衛がんばってきたのに……たのしみにしてたのに……」
「はいはい辛かったわね」
「ひ、他人事だと思って…!あんたもウズテンからのバースデーカードに落書きされてたら怒るでしょう!?」
「そら三親等で償ってもらわなきゃ気が済まんわ。ほら梅酒でも飲みなさい。いつも通りソーダ割でいい?」
「ウイスキー…ロック…」
「……酒で忘れる気満々じゃない」


大人っぽい酒で感傷に浸ろうと思っていた私は忘れていた、自分が大して酒に強くないことを。




夜も更ける前に「明日早番だから帰るわ」とあっさりお開きにされ、軽く酔い潰れた私は友人にタクシーへ押し込まれた。
自宅アパートの前でタクシーから降りると、ふらふらと覚束ない足取りで階段を上がる。

あーあ、たのしかったなあ。お酒ひさしぶりに飲んだなあ。持つべきものは友達だなあ。
あれ、部屋の前に誰かいるなあ。わたし、部屋間違えちゃったかなあ。頭がふわふわする。気持ちいいのに気持ち悪い。


「やっと帰ってきたな!待ちくたびれたぞ!」


玄関扉に凭れるようにして腕を組んでいたその人は、快活にそう言った。
あれ?これ私に言ってる?サングラスしててよく分からないけど、たぶん私の知り合いにこんな人はいない。でもなんだか、すごく、よく知っている気がする。なんだろう。不思議だなあ。お酒の力ってすごい。


「む、酒を飲んできたのか?よし、俺が介抱してやろう!こちらへおいで、名前」


両手を広げて微笑んだ彼にはなんだか、鎮静作用というか、お酒と同様判断力を鈍らせる何かがあって。私はその腕の中へと無意識に引き寄せられてしまう。
よく知るラブダナムの香りがふわりと鼻腔を擽ったその刹那、私の意識は遠のいていった。




***




《酒は飲んでも飲まれるな》


先人は本当に素晴らしい教訓を残してくれたというものだ。

ただ、その教訓を全く生かせていない大馬鹿者の私は先人に百万回土下座すべきであって。

なぜなら私は今、酔った勢いでとんでもないものを自宅に招き入れてしまったようなのだから。


「おはよう、名前!」

「ギャーーーッ!!!」




どうしてこんなことになってしまったのか、全く覚えがない。
友人と飲んでタクシーで帰って、それで…………なんだっけ!?

それとも、今がまさに夢の中なのか。いいやそうに違いない。
そうでなければこんな、私の部屋にレンキョ本人が私が横たわるベッドの下で私の顔を覗き込みつつ、あの太陽のように輝いた笑顔を向けているはずがない。
ああそうか、夢か、夢なのか。ベッドの沈み具合と二日酔いの頭痛吐き気が妙にリアルだけれど、それもまた乙というやつなのか。

夢の世界ならより浸らせてもらおうと、常日頃の添い寝要員であるメガジャンボ寝そべりぬいぐるみレンキョVer.を引き寄せて抱きしめつつ荒ぶった心を落ち着かせる。
「よもや、騒いだり静かになったり君はなかなか愉快だな」と蕩けるような笑みを浮かべたレンキョに眼福だなあ、とまさに他人事のような感想を抱く。も、束の間。


「そんなもの抱かずとも、本物がここにいるだろう?」


ひょいと取り上げられた寝そべりレンキョ大。代わりにぐいと顔を寄せた本物のレンキョは吐息がかかるほどに近く、甘ったるく口角を吊り上げるその表情はどこか官能的かつ蠱惑的だ。
心臓が煩すぎて失神しそうだ。非常に惜しいことを言っている自覚はあるけれど、夢なら覚めてほしい、今すぐ。
後悔する気しかしないけれど、これは正直耐えられない。推しがイケメンすぎてつらい。意を決し、ぎゅっと頬を抓って現実世界の私に早く起きろと呼びかけた。

が、いつまでも意識は浮上しない。


「こら、痕になるからやめなさい」


寧ろ、私の手を掴むレンキョの体温がより一層リアルで、これは、まるで―――。


「げ、げんじ、つ……?」
「せっかく念願叶ったというのに夢とはあんまりだな!」
「ひっ……」


自主規制。
本日二度目の大絶叫がアパートの端から端まで響き渡ったことだけは言っておこう。





その後、ベッドから飛び起きた私は、一先ずレンキョをダイニングテーブルの椅子に座らせた。今までほとんど使う機会のなかった向かいのもう一脚に私が腰掛けると、「なんだか新婚のようだな!」と元気いっぱいに声を上げてくださった。はあ尊い、尊いけど話が進まないのでちょっと黙ってください。


「ええと、まず、その…お名前は」
「煉獄杏寿郎だ「そうですよね知ってます」」

「それで、その煉獄杏寿郎サンがどうしてこんな一介のファンの自宅に……なんの撮影でしょうか、ドッキリですか」
「君の神聖なプライベートルームにカメラを入れるはずがないだろう!よもや忘れてしまったのか?五年前の握手会で、いつか迎えに行くと告げたことを。そして、ファンクラブのバースデーカードに昨日がその日であると記したんだが、まだ届いてなかっただろうか。不安になって一昨日の朝電話を入れたのだが、なかなか繋がらなくてな」
「………」


突っ込みが多すぎてどこから捌いていけばいいのか分からない。あー握手会のあの台詞はまさかの私に向けてだったかあ、とか、あの落書きはレンキョ本人の筆跡だったかあ、とか、あの恐怖の鬼電の正体が分かって一安心だなあ、とか、……いやいやいや。


「お前か、お前が犯人か!寝坊するに至った元凶及び大事なバースデーカードを傷物にした大罪人め!!」
「む、寝坊したのか?それはすまなかった。だが、これからは俺が毎朝君を起こすからもう安心だ!そして、バースデーカードが不満なら新たに名前専用のものを作り直そう!」
「さっすが芸能人、メンタルの強靭ぶり半端ないですね!?!」
「ありがとう!!」
「褒めてない!!」


きっとこの人はレンキョの姿をした別の何かなんだ、きっとそうだ。画面の中ではどこまでも私に力を与えてくれるというのに、目の前のこの人はどこまでも私の力を吸い取っていく。
早々に収拾がつかなくなった話し合いにげっそりした私は、テーブルに肘をつきながら頭を抱えた。


「話は逸れたが、まずは誕生日おめでとう!」
「今それを言いますか……」
「本当は昨日言いたかったんだが、君は年甲斐もなく前後不覚になるまで酔っぱらっていたのだから致し方あるまい!」
「オブラートに!包んで!ください!ていうか、私なぜかパジャマ着てるんですけど…!」
「寝心地が悪かろうと俺が着替えさせておいた!」
「お巡りさんこの人です!信書開封罪と家宅侵入罪と強制わいせつ罪!!」
「手厳しいな!わははは!」


わははじゃない!爽やかな笑顔でインタビューに答えてるレンキョはどこいった。
部屋に貼られたポスターを見渡しつつ、早く私を夢の中へ帰してくれとさっきとは真逆なことを思う。

はあ、と大きくため息を溢した私の唇にレンキョの人差し指が触れる。「幸せが逃げるぞ」と、悪戯っぽく。


「先程から現実逃避しているところを悪いが名前、俺は本気で君を迎えに来たつもりだぞ」


しかし、不意に眦を細めて至極真面目にそんなことを言われると、どうしていいか分からなくなる。


「あ、あの、さっきから迎えって……」


そう言った刹那、彼は思い切り眉を顰め、「やはり覚えていなかったか」と残念そうに呟いた。
そして、おもむろに立ち上がるとそのまますたすた私の背後へと移動する。

振り返ろうとしたが、手遅れだった。

これは、夢にまで見たバックハグというやつだ。
今私は、八年不動の最推しに、後ろから抱き締められている。恋人同士が戯れるような気軽さで。


「結婚するなら俺みたいな男がいいと、八年前手紙に書いてくれただろう?」


――ああ、思い出した。
確かにそんなことを書いた。書いたが、それはあくまでも”みたいな”という訳であって。


「八年前、この業界に入った俺は正直この仕事をしていくべきか迷っていた。他にもやりたいことがあったからだ。だがしかし、そんな時に一通のファンレターが届いた。俺個人に宛てたファンレターはそれが初めてだった。この仕事でも人の役に立つことができるのだと、初めて手応えを感じた俺は、この道を極めることを決めたんだ。その後も精進を重ねる中、定期的に届く手紙が嬉しくて楽しみで仕方がなくなった。しかしある日、『将来結婚するなら杏寿郎くんみたいな人がいいです』の文言に、俺はひどく焦った。その子の人生に俺が存在しないことを思い知ったからだ。俺は誰にもなれない俺を目指した、彼女の理想がうんと高くなるように。俺以外に目を向けられなくするために。五年前、彼女に初めて会えた時にはその気持ちはより強くなって、一層稽古を重ねた。そして、事務所から『映画の興収が四百億を超えたら彼女に会いに行くことを許可する』という言質を取った俺は、狙い通り無事事務所公認を勝ち取った。規格外の数字だからな、最早誰にも真似出来まい。―――さあ名前、どうしようか」


いやどうしようと言われても。

饒舌に語るレンキョは余裕綽々としつつ、獲物を捕らえたとばかりに私を抱きしめる腕にぎゅっと力を込めた。
この人はきっと、途轍もなく頭がいい。自分の武器を全て知った上で、私が抵抗出来ないと分かった上で、そうしている。


「君が好きだ。俺と結婚してほしい」

「……いや、早くない!?」


耳元で熱く囁く低い声は危うく二つ返事で「はい喜んで!!」と言ってしまいそうだったけれど、しかしこればかりかは流石に理性が勝った。
レンキョは悔しげに「よもや、だめか」と呟いている。やっぱ計算だったんじゃないか、質が悪い。
身を捩って緩んだ腕を振りほどくと、非難混じりに彼を見上げた。


「そもそも、推しが一般人ファンと結婚だなんて普通にショックすぎますからね!?ご自分の発言には細心の注意を払うべきです!そもそも私があなたに抱いているのは推しへの無償の愛です安っぽい恋情と一緒にしないでください!こんな何の取柄もない女に惑わされると人生棒に振りますよ!」
「むう」
「非常に尊いですが可愛く言ってもだめです」


よく言った。今日ほど自分をファンの鑑だと思ったことはない。
私をこのままレンキョの拗らせオタクとして殿堂入りさせてくれ。それだけで我が人生に悔いなしである。

しかし、結構はっきりと言い放ったにもかかわらず、レンキョは決してフラれた顔はしていなかった。


「わかった。では、一年だ!一年だけ猶予をやるからその間に俺を男として好きになってくれ!」
「いや話聞いてましたか!?」


しかもなぜ『猶予をやる』とそんなに偉そうなんだ。
燃え滾る瞳が見据えているものは挑戦でも賭けでもなく、確信だった。その炎に呑み込まれそうになる。八年前のように。


「手始めにまず、俺をレンキョと呼ぶのは禁止だ!俺は今プライベートでここに来ている、俳優のレンキョではなく煉獄杏寿郎個人としてだ!」


とんでもなく頭をぐらぐらと揺さぶる頭痛は二日酔いのものなのか、全く話を聞かないこの男に疲憊しつつあるからなのか、恐らく後者だろう。
一先ず今日のところは早く楽になりたくて、はいはいご勝手にと適当な返事をする。
彼が思い出をどんなに美化しようと、私はただのしがないOLだ。そのうち飽きるだろう。推しに言い寄られるという生涯の幸を使い果たした夢のひと時に、暫し酔わせていただくとしようか。


だが、私はまだ知らない。
彼の執着心、ストーカーじみた熱烈な愛情表現を。
一年後、『煉獄杏寿郎、一般女性と結婚!十年愛成就か?』のニュース速報をこの男の隣で見る未来を。



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