恵まれし時代
「ここ、両親の寝室なんですけど、お休みになる時はここを使ってください」


話していた通り、食後に家の中の案内が始まった。
レッスン室は割愛され、玄関、厠、名前の私室、書斎と一通りの説明を受け、次いで連れられたのは大きな寝台が一つ置かれた寝室だった。

名前は躊躇いなくその部屋に足を踏み入れると、「全然使ってないからなぁ…掃除した方がいいかな」と呟きながら、きっちりと閉ざされていた遮光カーテンと窓を開ける。途端、長らく滞っていた空気の流れが再開した。


「ご両親の寝床を勝手に使ってもいいのか?」
「あ、もしかしてそういうの気にするタイプです?シーツは新品のものに変えますし、ベッド自体も引っ越しの時に買い替えてからそんなに使ってないので、使用感はあんまりないんじゃないかなあ……?」
「いや、そういうことではない!君がいいのなら有難く使わせてもらうこととしよう!」
「はい!」


名前は杏寿郎につられるかのように快活な返事をし、寝台のシーツをてきぱきと剥がし始めた。あまり手間をかけたくないが、既に至れり尽くせりである。
幽霊とはいえ今までの様子からして、やはり人間と同じように疲れたら睡眠もとる体なのだろう。杏寿郎自身は雑魚寝でも一向に構わないのだが、こうして気を遣ってもらえるのは心苦しい半面純粋に有難い。

取り払ったシーツを丸める名前に何か手伝うことはないかと尋ねたところ、こちらへと手招きされたのでそのように歩み寄る。

すると、今度はクローゼットへと移動した名前が何やら中を漁り出した。
取り出した男性物の洋服をおもむろに杏寿郎に当て出したので、杏寿郎はまるで借りてきた猫のように大人しく身を固くする。
そんな姿を見て名前はふふっと可笑しげに笑うと、「服のサイズ確認してるだけですよー」と言った。


「ずっと同じ服を着ているわけにはいかないですし。これ、父のものなんですけど、この後お風呂に入ったら一先ずこれを着てください」


そうして渡された洋服も当然、杏寿郎にとって馴染みのない意匠であったが、流石に着方がわからないということはなさそうだ。
身一つで妙齢の女性の家に転がり込むなどなんとも情けない状況ではあるが、致し方あるまい。


「すまない、世話をかけるな!」
「いいえ、たぶん私が呼び出したようなものなので!」
「それもそうだ!」
「全肯定されるのもなんか微妙な気持ちになりますね!」
「それはすまない!ははは!」


和やかな空気だ。
出会ったばかりだというのに、名前も杏寿郎もそうとは思えないほどに互いに互いを心地よく思っていた。




***




最後に案内されたのは風呂場だ。


「え!煉獄さん二十歳なんですか!?」


何気なく明かした杏寿郎の実年齢に名前が素っ頓狂な声を上げたのは、雑談混じりに設備の説明を一つ一つ受けていた最中の出来事だった。
大正とはまるで使い勝手の違うこの時代の湯殿において、湯の出し方や、それぞれ使い道が異なるのだという4種類の液状石鹸、脱いだ服の置き場所等を教わりつつ、ちょっとした会話の流れから今に至ったのだ。

「そんなに驚くことか?」と目をまん丸くする杏寿郎に、名前はこくこくと頷く。


「や、だって…私よりずっと大人っぽいかんじがするのに、…年下だなんて……」
「苗字は俺より上だったのか!」
「そうなるでしょう!?」


杏寿郎の言葉へ食い気味に反応する名前は、どうやら童顔気味の顔立ちを気にしているらしい。愛らしくていいと思うのだが。
そもそも杏寿郎は純粋に見た目だけで判断していたわけではなかった。


「学生だと言っていただろう?俺のいた時代では女学生が二十歳を超えることはまずないからな!」
「あ、そういうことですか……」


明治大正時代において、女性の社会的役割といえば結婚し子を産み育てることだ。進学先や奉公先も少ないがゆえに、その生き方を望んでいない者にとっては生きづらい世だったことだろう。
そういった時代背景から、二十歳を過ぎても尚学生であるという名前は杏寿郎にとって新鮮以外の何物でもない。

見た目での判断ではないとわかるやほっと安堵の息を吐いた名前に、しかしながら年若く見えたこともまた理由の一つであることには違いないのだが、という台詞は杏寿郎が珍しく空気を読んで思うだけに留めた。


「この時代では男女分け隔てなく小学校6年間、中学校3年間の義務教育を受けた後、高校から大学専門、大学院っていろいろ進路が選べるんですよ」
「うむ、一定水準の教育は保証され、その後の生き方は自分で選べるというわけか。いい時代になったものだな」


杏寿郎はかつて自分が生きた時代に思いを馳せる。

自由に、思いのままに生きられない人たちをたくさん見てきた。
鬼狩りの名門という重圧を受けながら例え結果が思わしくなくとも必死に鍛錬を積む弟。心無い者から女性という価値観を押し付けられたばかりに自信をなくした元弟子の同僚。はたまた別の同僚は貧しさゆえに充分な教育を受けられず字が書けないのだと小耳に挟んだことがある。そもそも、鬼殺隊に身を置いている隊士や隠たちは、複雑な生い立ちや親兄弟を殺された悲しい過去を背負った者たちばかりだ。
好き好んで鬼狩りをしている者など、ほぼいないだろう。鬼殺が生きる理由になってしまっただけ。

もしも、こんなにも平和で、充分な教育を分け隔てなく受けられることが当たり前な、なろうと思えば何にでもなれるこの恵まれた時代に生まれたならば。
彼らは、彼女らは、もっと幸せな生を全うできるのではないか。
余計な世話だろうが、そう思わずにはいられない。


しかし、そんな杏寿郎の胸の内や感情の機微に一切の気づきを見せず、名前は朗らかな笑みを浮かべながら他愛ない話を続ける。
話しながら、操作一つで浴槽の湯を溜め始め、慣れた手つきで液状石鹸の一つを別の簡易的な袋から注ぎ足していた。


「ちなみに私は、音楽を専門に学ぶ大学の4年生です。今年卒業の、22歳」
「よもや!」


やはり見えないな、とは流石に口に出せないが、思わずつま先からてっぺんまでもをまじまじと観察してしまう。幸い名前は手元に集中していたので、杏寿郎の視線に気づく様子はない。
顔立ちのせいだけではなく、恐らくこの平和な世を生きる現代人だからだろうと、杏寿郎はそう解釈した。

しかしながら、突然目の前に現れた幽霊に惜しげもなく愛嬌を見せてくれるこの年上の女性は恐らく少し異端で、特別人に対する警戒心が薄いのだろう。現代人が皆こんなにも危ういことはあるまい。彼女のその危うさに助けられている自分が言うことでもないのだが。

それでも。
口を開けばあどけなく感じる彼女でも、竪琴を爪弾けばたちまち神秘的な存在に見えるのだから不思議なものだ。
失礼極まりない比較ではあるが、脳裏に焼き付いて離れない先程の名前の姿を杏寿郎は今一度思い返し、「君は将来素晴らしい音楽家になるのだろうな」とほとんど独り言のように呟いた。
名前は照れ臭そうな笑みを浮かべ、ふと杏寿郎に目を向ける。

そして、雑談を続ける何気ない口振りで、それを問うた。


「煉獄さんは、もしこの世に生まれ変わったら、何になりたいですか?」


即答できなかったのは何故か。それは、杏寿郎がらしくもなく戸惑ったからだろう。

最初こそ反射的に「例え生まれ変わっても今に変わらず剣を握るだろう!」と言ってしまいそうであったが、そういう話ではないと瞬時に気づいた。

この世――すなわち、鬼狩りを必要としない、平和なこの世で。
自分は一体、何になれるというのか。

考えたこともなかった。
鬼狩りの一族として生を受け、鬼を斬るために、父の背中を追いかけ、母との約束を守るために鍛錬を積んできたのだから。それ以外の生き方など、考えたことがあるはずもない。
それに、考えても仕方のないことだ。そうは思うのに、何故かきっぱりと割り切ることができないことを、胸につかえたまま取れない何かが示していた。


しかし、名前はまさか自分の何気ない問いで杏寿郎が軽く狼狽しているとは気づいていない。

やがて、杏寿郎が答えを導き出すよりも早く、石鹸を詰め替え終えた名前が今の問いなどまるでなかったかのように「よし、それじゃあ私はリビングでお待ちしているので、ゆっくりしてきてくださいね」と仕切り直したので、杏寿郎も我に返り慌ててそれに同調する。

名前が出て行った脱衣所の扉を意味もなく見つめ、暫し呆然と立ち尽くした。
まさか自分が、答えの出ない問いに直面するとは思いもしなかった。




coming soon...

(MENU)
(BACK TO TOP)