布団の上で上体を起こす私と、その傍らで腰を下ろす彼――私の婚約者こと、煉獄杏寿郎さん。
任務の後、ここへ直行してくれたのだろう。背中に『滅』の文字が刻まれた黒い隊服は、ところどころ砂埃がついていた。
「それにしても、先程は驚いたぞ。急に泣き出すのだから」
――何かあったのか?
そう尋ねる杏寿郎さんの燃えるような瞳に、どきりと心臓が跳ね上がる。
気になるのも無理はないのだろう。
何をした訳でもなく、婚約者が自分の姿を見た瞬間、泣き崩れたのだから。
まさか本当のことは言えまい。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」と苦笑いして誤魔化すしかできない私に、杏寿郎さんは優しく目を細めた。
「心配くらいさせてくれ。名前はもっと自分の感情に素直になった方がいい」
そう言って、私の目元にそっと指先を滑らせた杏寿郎さんに、思わず頬を赤らめる。
まさか、涙の痕が残っていたのだろうか。慌てて身を引き、着物の袖でごしごしと顔を拭う私の腕は間髪入れずに杏寿郎さんに掴まれて、「こすってはだめだろう」と軽く窘められた。
こうして再び、生きている杏寿郎さんに会えるなんて。
前の世界での私は、彼に涙など見せたことがなかった。忙しい彼を煩わせたくなかったし、炎柱の未来の妻たるもの、強い女性でなければと日々己を律して生きていたから。
――と、ここで、とあることを思い出す。
今が杏寿郎さんが亡くなる二年前の世界だとするならば、彼はまだ炎柱ではなく、甲階級の隊士のはずだ。
そして私が熱病を患ったこの時期は、いよいよ祝言の準備を本格的に進めていこうという話が出ていた。
結局、それもこの後すぐに炎柱を襲名することになる杏寿郎さんの多忙さゆえに、なかなか日程が組めず気づいたら二年経っていたのだけれど。
「もうじき君を妻として迎えられると思うと、胸が躍るな」
ああ、聞き覚えのある台詞だ。
”前”の杏寿郎さんも、この時何を考えていたのか、急ににこにこしながらこんなことを言い出したのだ。
杏寿郎さんが鬼殺隊に入隊して以降、私たちは手紙のやり取りがほとんどの連絡手段だった。誠実な人だから、婚約者を放っているみたいで落ち着かなかったのだろうと、今だからこそそう思い至る。
こんなふうに、少しくらい会話の流れが変わったところで、結局は同じだということを、私は既に立証済みだ。
前の世界の出来事をなぞるたび、また、婚約者が死ぬ苦しみを、その後の地獄を味わなければいけないのかと思うと、今すぐ消えてしまいたい衝動に襲われる。
夢なら早く覚めてほしいと、この短時間で既に何度願ったことか。
前の私は、杏寿郎さんのこの言葉が嬉しくて、頬を赤くしながらも微笑んで返した。
しかし、今回はそんな気になど到底なれない。なれるはずがない。
赤面どころか、どんどん色を失くしていく私の表情に、感情の機微に敏い杏寿郎さんは何を思っただろう。
「名前?」
「…すみません、ぼうっとしてしまっておりました。私も楽しみです」
あまりにも何も言わない私に、やがて杏寿郎さんは俯き加減だった顔を覗き込んだ。慌てて笑顔を形作ると、前の世界では心からの台詞だったはずのその言葉を、その場しのぎで紡ぐ。
奥歯をぐっと噛みしめていないと、今にも浮かべていた笑みが崩れて、再び醜態を晒してしまいそうだった。
これ以上顔を見られたくないのに、杏寿郎さんは一向に目を逸らしてくれない。私を射貫くように見つめる焔色の瞳が、今はたまらなく恐ろしいものに思えた。
じわじわと視界が滲んでいく。
「名前、やはり何か――」
「姉上!無事ですか!!」
スパーン!と勢いよく襖を開け放つ音で、幸いにも零れ落ちそうだった涙が引っ込んだ。
杏寿郎さんの言葉を遮ったその正体――我が弟こと和彦は、今にも噛みつきそうな野犬のごとく鋭い眼差しを杏寿郎さんに向けている。私の表情に構うほどの余裕がないことは、これまた僥倖と言うべきか。
「煉獄杏寿郎!貴様っ…俺が父上に呼ばれている隙をついて、姉上の神聖な私室に図々しく足を踏み入れるとは、いい度胸だ!」
無茶苦茶である。
久方ぶりに顔を合わせるや罵声を浴びせられた杏寿郎さんは、見開いた目を丸めるだけで、全く気にした素振りは見せていない。いつもの光景とはいえ、それに少しだけ安堵する。
将来の義兄になるはずである杏寿郎さんに対して弟のこの態度は、私が弟を可愛がりすぎた結果…だと言うべきなのだろう。
物心がはっきりついた頃である齢五歳の私は、初めてできた弟という存在にそれはそれは感激し、何かと甲斐甲斐しく世話を焼いてきた。
母やお手伝いさんには「あらあら」「仲良しさんだこと」と微笑ましく見守られてきた姉弟関係であったものの、結果、姉を慕う気持ちが少し行き過ぎた困ったさんと化してしまったのだから難しいものである。
しかし、杏寿郎さんはそんな弟の暴言も慣れたもの…というか最初から全く相手にしていないようで、可愛げの欠片もない未来の義弟を実の弟のごとく可愛がってくれていた。
「和彦!大きくなったな!」
「うるさい!子供扱いするな!」
こんな具合で嚙み合ってはいないのだが。
今となっては懐かしいやり取りを眺めつつ、弟にも随分心配をかけてしまった、と申し訳なさが込み上げる。
だからこそ、繰り返してはいけない。
「学問の成績も極めて優秀だと手紙で名前から聞いた!大したものだ!」
「人の話を聞け!それから姉上を呼び捨てにするな!!」
自分のためにも、家族のためにも。
杏寿郎さんに負けじと大声を張り上げる弟の平常運転ぶりに、先程よりも心持ちが穏やかになった。
そんな心境の中、やがて私は、とある決心をする。
***
数日後。
苗字家専属の医師に全快のお墨付きをもらい、病み上がりの体も随分軽くなった私は、父の書斎を訪れていた。
部屋の中央、父の向かいに腰を下ろし、その神妙な面持ちを物ともせずにどこまでも真っ直ぐ見据える。
「……本当にいいのか?」
重苦しい空気の中、父の低い問いかけに私は、「はい」と深く頷いた。
「私は、煉獄杏寿郎様との婚約破棄を、所望します」
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