背中があたたかいのは、そこに愛おしい人のぬくもりがあるから。
身体が震える。…でも、震えているのは、私じゃない。


「なんで杏寿郎さんが泣くんですか」
「……君が泣かないから、代わりに泣いているんだ」


いつか、杏寿郎さんに言ったことをほとんどそのまま返されて。じわりと視界に涙が滲む。


「……なんで生きてるんですか、あなたは――」


あの列車の任務で。腹に大きな穴が開いて、……それで。


「――死んだと思ったか?」
「っ!」


なんで。そんな思いを込めて、杏寿郎さんを振り返ろうとする。
けれど、きつく私を抱きしめた腕は、それをさせてくれなかった。


「無限列車に関する情報をお館様に告げたのは、君だろう?父上に案内まで頼んでな」


息が、止まる。
あの日の最期の悪あがきが、忌々しい未来を変えていた。





***




「お願いが、あります」


青い顔で見上げた私に、その御仁――煉獄槇寿郎様は、静かに眉根を寄せた。


「私を、お館様の元へ案内してくださいませ」
「……何故俺がそんなことをせにゃならん」
「あなたが今、ここにいるからです」


槇寿郎様の焔色の瞳が、その奥で僅かに揺れる。


ねえ、私、知ってるんです。
私が眠っている間、誰にも見つからないようこっそり訪れては、何も言わずに帰っていたのでしょう。そうでなければ、わざわざ誰も通らない中庭の奥を慣れたように進んで、私の病室に向かって真っすぐに来られるはずがない。私をまるで実の娘のように可愛がってくださった槇寿郎様は、その頃を”かつて”と評するには、あまりにもお変わりがなかった。

そう。根本は何も変わっていないのだ。前世で、杏寿郎さんの死を誰よりも後悔したのは、間違いなくこの人なのだから。
結局最期まで心を通わすことが叶わなかったこの親子は、息子の死を以て漸く止まっていた時間が動き出した。何という皮肉だろう。


『今まで、本当にすまなかった』


竈門くんが訪ねてから数日後、槇寿郎様は苗字家の門を一人で潜った。
両親を間に挟んだ私を前に、深々と土下座するその姿に。あの時の私は傷を抉られてしまっただけだった。
周りの態度が、杏寿郎さんがもうこの世にいないことを知らしめていて、気丈なふりをしながらいつまでも前を向けない自分に心底嫌気が差したからだ。
槇寿郎様がどれだけ杏寿郎さんを愛しているか、やっと根拠が見つかったのに。その思いが二度と届かない、伝えることができない現実は私を更に追い詰めた。


「槇寿郎様、あなたの娘となるはずだった者の、最期の頼みです。聞いてくれませんか」



そうして私は、槇寿郎様に連れられて産屋敷邸へと向かい、未来に起こりうる無限列車の被害を私が知る範囲で全てお館様にお話しした。
産屋敷の遠い血縁といえど、こんな小娘が突然訪ねてきたかと思えば、この奇行だ。未来だなんだと、一体誰が信じるだろう。ただの狂言だと一蹴されるのは、覚悟の上だった。
それでも、これが私の最期の悪あがきだったから。自分にできることなど、もうこれしかない。その一縷の望みを同じ結果で断たれてしまったら、今度こそ私は、人として生きていくことができなくなってしまう。
だから私は、あの後自ら姿をくらました。最低な未来が、変わることを願って。




***




杏寿郎さんは、全てを知っているようだった。
知っているからこそ、もう逃がさないのだとばかりに腕に力をこめる。苦しいのに、ちっとも苦しくない。相対する感情に頭がぐちゃぐちゃだ。


「名前」


「俺は、君を愛している。誰よりも、何よりもだ」



唐突に紡がれたその言葉。
幼い頃から必死で伝えてきてくれていたのに、愚かにも私自身が背を向け続けていた、杏寿郎さんの想い。

――でも。

それならば。


「…なぜ」
「うん?」

「ではなぜ……最期に残した言葉が『自分を忘れて自由になれ』だったのですか……!?」


途端。堰を切ったようにぼろぼろと溢れ出た涙。
ずっと、飲み込み続けてきた私の本心。一度口にしてしまえば、もう留まる術を知らなかった。

杏寿郎さんの葬儀が終わって数日たったある日、炭治郎くんが青い顔をして告げにきた杏寿郎さんの遺言は、『俺を忘れて自由になれ』の一言。
この言葉こそが私を本当の意味で地に叩き落とした、呪いだった。彼にふさわしくあるため生きてきた、これまでの人生を全て否定され、突き放されたようで。

「そんな言葉で、私が喜ぶとでも」と。まるで子供が癇癪を起こすかのごとく、わあわあと泣き喚いている私は、傍から見たらさぞ滑稽なことだろう。


それでも、冗談じゃなかった。


杏寿郎さんが鬼狩りである以上、いつどこで死んでしまってもおかしくないことはずっと昔に覚悟していたつもりだったのに。あなたは、それを忘れさせてしまうくらい優しく、平和な眼差しを私に向けるから。……なんて、こんなの言い訳だ。
本当は、鬼狩りの妻となるのに、夫が殉死する未来を誰よりも考えたくなかった。
逢瀬を重ねて。互いの好きなこと、楽しいことを共有し、笑って。愛を誓い合って。そして、いつか子を成して。
そんな、人並みの人生でいい。ただ、幸せになりたかった。この人と、二人で。

ああ、なんて贅沢なのだろう。


「ほんとうに……冗談じゃない、ですよ……!!」
「……すまない、」
「謝っても遅いんです、あの時私は全てを失った!あなたに隠された本心を知って、私は――「本心のはずがないだろう!!」」


ただでさえ耳元にある唇が突然発した大声。鼓膜が破れそうで驚いたのと、切羽詰まったような語調に、びくりと硬直する。


「あんな言葉が本心だと、なぜ思うんだ!君を幸せにすると、約束を違えてしまった俺が最期に出来る事など、己の意志を殺してでも君の幸せを願うしか」
「そんなのいらない!!」


負けじと出してしまった大声に、今度は杏寿郎さんが固まる番だった。
こんなふうに互いに気持ちを曝け出しあっているのは、たぶん初めてだ。


「どんなに重くても、不甲斐なくても、愛しているから君も生涯俺だけを愛してくれ、と。そう言ってほしかった………!!」


大人になってからお互いに愛を伝え合った事など、ないくせに。そんな都合の良いことを言ってあなたを困らせる。
それでも、それさえ言ってくれれば私は、あなたを愛したこれまでの人生を肯定しながら生きることができたのかもしれないと、今となっては何が正しかったのかわかりもしないのに、感情のままに喚き、捲し立てる私は、かつてこうありたいと願っていた”煉獄家長男の婚約者”でも、最早”苗字家息女”ですらなかった。
自分がこんなにも感情的な人間だったとは知らなくて、どうしたらいいのかわからずに俯いて泣きじゃくる。湖の水面が静かに揺らめくこの美しい空間に、私の嗚咽だけがただただ響いていた。


「……すまない」


先に折れたのは杏寿郎さんだった。
声量を幾分も抑えた優しい声が切なげに耳朶を打つものの、私の涙は止まってくれやしない。


「独りよがりもいいところだな。どんなに恋焦がれていても、伝わっていなければまるで意味がないことに今更気づくとは」
「…そうです。何もかもが見当違いだし、遅いんですよぜんぶ」
「ああ、君の言う通りだ」


すまない、と。許しを乞うように彼の額が肩口にすり寄せられる。癇癪を起こす子供を宥める手法ともとれる潔さはしかし、首筋を掠めた髪の感触が愛おしすぎて、意地を張り続ける気力が徐々に削ぎ落されてしまう。
「だが」と続けた杏寿郎さんの声には自然と耳を傾けていた。


「手遅れではないことも事実だ。――――君は、…俺は、今。目の前にいるのだから」


その言葉に、息を呑む。
刹那。静かだった水面を大きく揺らす、突風が巻き起こった。桜の木がざわりと音を立てて靡き、薄紅の花びらを辺り一面に舞い上がらせる。
それはまるで、かつて水底に沈みながら募らせた後悔を全て浄化させてしまうような、美しい光景だった。

あたたかさを纏った涙が、ぽつり、と、杏寿郎さんの手の甲に落ちる。
すると彼は腕の中の私をくるりと回して正面に向き直り、その涙を今度は直接拭わんと目元に優しく指を這わせた。

せっかく拭ってもらった涙はしかし、ずっと、会いたくて会いたくてたまらなかったその姿を視界に入れるといよいよ収拾がつかなくなってしまって、情けない嗚咽が響き続ける。こんな状況なのに、優しく微笑んでいる杏寿郎さんの余裕はなんだか物凄く悔しくて。左目に見慣れない眼帯をつけた杏寿郎さんは、前よりも大人びている気がした。


「…なん、ですか、その、派手な眼帯」


涙を誤魔化すにしても、もっと他にあるだろうと我ながら思う。


「これは同僚の趣味だ!……変か?」
「……変だと言えない自分がくやしいです」


真っ赤に腫れあがった目をぷいと彼から背けるも、杏寿郎さんは全く意に介さずに「そうか、それはよかった!」と明るく笑い飛ばした。その笑顔は、子供の頃に初恋を捧げた笑顔、そのままだった。
泣き顔に思わず、小さく笑みが込み上げる。やっと笑ってくれたな、と言わんばかりに優しい顔で彼は、頬を伝い落ちた雫を再び、拭い去った。



「帰ろう、名前」



水面に反射する陽の光がまるで、この世界のすべてを輝きで満たしているように思えた。






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