灰谷家のお姉ちゃん
「あ、醤油ない。」
ソファに座って携帯を弄っていると背後からそんな声が聞こえた。独り言にしてはデカく、かと言ってこちらに話しかけていると言うには小さなその声に返事することなく携帯に意識を向ける。
「ねー、醤油ないってば。」
「あぁ...?」
再度発された言葉は今度こそこちらに語り掛けてきたもので面倒ながらも首を回して背後に目をやった。対面式のI型キッチンからぱたぱたと音を立てながら顔を出す姉に眉を寄せながら言葉を返す。
「買いに行けば。」
「やだよ、もう部屋着に着替えちゃったし。めんどくさい。リンちゃん行ってきて。」
確かに姉のエプロンの内には見慣れたピンクグレーのマキシ丈のワンピースを身につけていた。確か去年の誕生日に兄である蘭が買い与えていたものだ。ちなみにエプロンは俺が強請られて買い与えた。壊滅的にセンスがない姉は何か必要なものがあればすぐに俺たちに選ぶように迫ってくるのである。突っぱねたい気持ちは多々あるが共に暮らし一緒に行動することもある姉がダサいものを身に纏っているのが耐え難く結局毎度その要求を受けることになるのだ。
「ヤだね。諦めて別の飯にすれば?」
かといってわざわざ醤油ひとつのために使われるのは癪だ。何を作っているのかは知らないがメニューを変えてあるもので作るように携帯に視線を戻しながら提案する。
「やだ。今日の夕ご飯は煮物にするって決めてたの。ゼッタイ。」
如何にも拗ねているというように眉根を寄せ頬を膨らませ姉が背後から抱きついてくる。どうやらぶりっ子で乗り切ろうという手らしい。が、そんなことで揺れ動く訳もなく。
「じゃ、今日は姉貴飯ナシな。」
「なんで!?なんでそんな酷いことできるの!?」
俺カップ麺でいいや、と携帯を弄りながら告げればそんな風に育てた覚えはありませんーー、と喚き始めた。あまりの騒々しさに半目になりながら姉貴を首元から引き剥がす。耳元で大声を出すな。
「じゃあ兄貴にでも頼めば?気が向けば買って帰ってくるかもよ。」
「蘭ちゃんかぁ、蘭ちゃんはなぁ......。」
今日はまだ帰宅していない兄貴の名前を出せばぴたりの喚くのをやめて今度はうーうーと唸り始めた。
「蘭ちゃんはねぇ、マイペースだからなぁ...。店内で見つけた全く別のものとか買ってきちゃいそうだしなぁ...。」
買ってきちゃいそうじゃなくて買ってくるんだ。兄貴の気まぐれは今に始まったことじゃない。頼んだものと違うものを買ってくるのはいつものことだし、自分では食べたくないゲテモノの類や新味のお菓子を俺たちに食べさせようと買ってくるのだ。ちなみに自分用に買ってきたものも大抵ちょっと食べたら満足して残飯処理させようとしてくる。専ら食べてるのは姉貴だが。太るというのに毎回学習せず完食して体重が増えたと騒いでいる阿呆である。そんな兄貴が十中八九まともにお願いされたものを買ってくることはないだろう。
「じゃ、諦めろ。」
「そ、れ、は、いーーやーーー!」
「じゃあ自分で買いにいけよ......。」
呆れて溜息をひとつ。完全に駄々こねモードに入ったのか背後に回っていた姉が回り込んできて俺の隣にピタリとくっついて座ると俺の顔を両手で掴み、自分の方に向かせてきた。
「ね、おねがい。りんちゃん買ってきて♡」
「い、や。」
「なんで〜〜〜......。」
へにょり、と眉を下げうるうるとした瞳でこちらを見つめてくる姉貴。姉貴は美人だ。小動物のような振る舞いとよく動き回る表情。くりくりとした目に赤く瑞々しい唇。その端正な面持ちに騙された男は数しれず。こう振舞えば自分の言うことを聞いてもらえるのだと信じている。実際聞いてもらってるし。基本男限定みたいだけど。だけど幼少期から一緒にいる俺にそんなぶりっ子が通じるわけが無い。
「......。」
鬱陶しい両手を払い、携帯に視線を向ける。にべも無い俺の対応に姉貴はううううう、と唸りながら俺の膝に頭を乗せてきた。おみぃ。
「どけって。おもい。デブ。」
「ひどいひどいひどい〜〜〜〜!なんでそんな事言うの〜〜〜〜〜!!?」
膝の上で寝返りをうつようにごろごろと頭を動かす姉貴が心底鬱陶しい。早く兄貴帰ってこねぇかな。これ押付けて部屋戻りてぇ。今戻ったらぜってぇ着いてくるよな...。
「もういい。」
「あ?」
「じゃあもういいもん!今日夕飯食べない!ここで寝る!!」
始まった......。完全な面倒臭いモードに入ったのか俺の太ももに顔面を押付けて寝るから!!と叫ぶ姉に脱力した。とにかく面倒臭いムーブをする事にかけて姉の右に出るものはいないなと確信する。兄貴だったら(機嫌が良ければ)構い倒してやるのだろうが生憎俺はそこまで面倒を見きれない。
「......。」
見きれないが。1番楽にこの場を収める方法は分かっている。膝の上で黙り込んだ姉貴を見てもう一度大きなため息をひとつ。
「...おら、着いてってやるからさっさと準備しろ。」
ぴくり。
膝の上で姉貴の体が動く。結局こうなるのか、とウンザリしながら片手で姉貴の頭を叩く。
「りんちゃんも一緒。」
「おー、一緒一緒。はよ準備しろやクソ姉貴。」
「5分待って!」
がばり、と体を起こして自室に駆け込む姉貴の背中を見送る。あれで俺より年上ってやばいだろ、と独りごちながら届いたメールを確認する。差出人は兄貴から。まだ遊んでいるのかブレブレの写真が1枚。色や動きから考えるに喧嘩中だろう。買い物途中に兄が絡まれたのか機嫌が悪い兄に見つかったのか知らないが今日ばかりはその様子を見ても白けてしまう。せめて自分もそこに入れたら楽しめたのに。
はぁ、とため息を吐いて背もたれに頭を預けていれば準備が終わったのであろう姉貴が戻ってくる音が聞こえた。
「さ、りんちゃんいこ!!」
「あー、はいはい。」
ご機嫌な様子の姉貴に内心舌打ちをしながらソファから立ち上がる。こんな予定じゃなかったのに、あークソ。
「んふふ、りんちゃんとデート久しぶり。」
靴を履いて立ち上がればするり、と片腕に絡みつく姉貴。こういう所が同性に嫌われる所以なんだろうなと思いながらはいはいと扉を開く。
「ガキのおもりの間違いだろ。」
「またまた〜。」
脳天気な姉貴に顔を顰めながら絡まれていない腕で姉貴の頬を抓る。抓られているくせにへらへら此方に笑いかけてくれる姉に口元が小さく緩む。結局のところ、悔しいことにこのはた迷惑な姉と過ごす時間も嫌いでは無いのである。
2021/07/01