本丸に足を踏み入れた瞬間、不思議といつも背筋が伸びる。
それは普段過ごしている場所とは雰囲気が違うから、私が審神者であるという自覚からかもしれない。
霊力が低く、適性もないに等しい私が審神者を任されているのは、政府からの勅命によるものだからだ。
それほどまでに今は審神者が不足しているらしく、私みたいな所謂落ちこぼれにも審神者として動いてほしいとのことだった。
自分の仕事は審神者だけではなく、他にもある。会社に行っているし家もある。なので本丸に来られるのは週に数回ほど。
それでも良いという条件で審神者業を請け負った。
うちの本丸の刀剣男士には寂しい思いをさせていると思うけれど、今の生活を手放して審神者一本で生きていけるほど私には力が無い。
霊力が全くない訳ではない。けれど、本丸を維持出来るほどの霊力は備わっていない。
なので、政府から派遣されているこんのすけという狐を介して霊力を分けてもらっている。更に本丸にいる刀剣男士達が足りていない分は手伝ってくれていた。
こんな審神者で、こんな本丸に顕現させてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいになる。その分、本丸に居られる時間は自分に出来ることを精一杯しようといつも思う。
「名前!今日は早かったね」
近侍の髭切が嬉しそうに駆け寄ってくる。髭切は私が最初に顕現させた刀なので、この本丸で一番の古株だった。
「うん、向こうの仕事が終わりそうにないから。先にこっちに来ちゃった」
いつも現世の仕事が多くて、つい本丸に来るのは遅い時間になりがち。
それもこれも上司に無茶振りをされるせいなんだけど、仕事自体は楽しいからまだ頑張れている。
最近は特に振られる仕事量が尋常じゃなくて、流石に本丸に顔を出せていない日が続くと良くないと思い、無理やり切り上げてきた。
「…また上司とかいう奴に嫌なことされたの?」
にこにこしていた髭切の表情がすぅっと冷えるのが分かる。まずい、この表情の時の髭切は本当に怒っている。
慌てて否定するけれど、髭切は納得がいっていないようだった。
「名前がここに来られないのも、そいつが名前に色々押し付けるからなんだろう?」
「う、えっと…」
その通りなんだけれど、その通りだともはっきり言えずに言葉を濁す。
この前酔った勢いで髭切に仕事の愚痴を溢してしまったのがいけなかった。それ以来、髭切は私の上司を目の敵にするようになってしまった。
確かに人に仕事を押し付けるしあまり好きな上司ではないけれど。ここまで明確に殺意を向けている髭切を見ると、それは良くない事だと思う。
「私は大丈夫だよ、髭切」
怒ってくれてありがとう。そう髭切に笑顔を向けると、髭切は幾分か治まったようだった。
「ねえ名前。ずっとこっちに居られないの?」
眉を下げて寂しそうに言う髭切。そんな表情をされてしまっては私まで寂しくなってしまう。
私よりずっと上にある髭切の頭を優しく撫でると、髭切に急に抱きしめられた。
「名前と離れると、僕はどうすれば良いか分からなくなる。」
名前さえ居れば、僕は何もいらないのに。
そう呟く髭切の表情は見えないけれど、きっと悲しい顔をしているのだろう。すり、と猫みたいに髭切が私の首に擦り寄るから、くすぐったいのと恥ずかしいのとよく分からない感情に陥る。
「ひ、髭切…?」
自分で心臓の音が聞こえるほどうるさい。きっと髭切にも心臓の音が届いているはずだ。
それなのに、髭切は抱きしめるのをやめないどころか、回す腕をきつくする始末。
「ずっとここに居なよ。名前」
耳元で囁く髭切は、すごく意地悪だと思う。
現世の仕事を辞めて、審神者として生きていく。力がない私にはきっと簡単な事じゃないはずなのに、それも悪くないかも知れないと思わせられるほど髭切の囁きは酷く甘くて魅惑的だった。