せっかくの休みだと言うのに、目が覚めたのは午前8時。いつもは7時に起きている事を考えると1時間は多く寝られた訳だけど、それでも予定もない休みの日の早起きはもったいないと思ってしまう。
 早起きは三文の得なんて誰が言い出したんだろう。普段公安で忙しく走り回っている身からしたら休みの日くらいゆっくり寝ないと割に合わないと思う。二度寝でもしようかと布団を被り直した。夏に近い春の気候は暖かく、薄い毛布一枚で十分心地良い。
 遮光カーテンの隙間から漏れる朝日を無視して目を瞑ろうとした。その時、バタン、と大きな音が聞こえた。隣の家のドアが勢いよく閉まる音だ。その後続いて、よく知った声。マンションの廊下で大声で叫んでいるのは同じ公安のパワーだろう。そのパワーと会話しているのがデンジだ。ギャーギャーと騒いでいる声の内容までは聞き取れはしないが、いつも通りのやり取りだろう。二人の声は徐々に小さくなり、廊下の先にあるエレベーターへ向かっているのだと気付いた。
 あの問題児二人で出掛けたのだろうか。アキの声が聞こえなかったと言う事は、恐らくそうなんだろう。二人でどこに出掛けたのか少し気になったが、それよりも今、壁を隔てた隣の家にはアキ一人きりという事の方が大事だ。
二度寝の体制に入っていた身体を起き上がらせて伸びをする。軽く髪を梳かし、眉を描いて唇にピンクを置いた。何も予定もない休日に、リップなんて塗らない。それも全部、アキのせい。
 自分の家の玄関に立ち、適当な近所に出かける時に履くサンダルと、この前ちょっと奮発して買ったヒールを見比べる。近所は近所だ。これ以上ない距離のお隣さん。それでもこのサンダルを履く気になれないのは、アキに見られたくないからに違いない。まあ、彼はきっと、靴なんて気にしないんだろうけれど。
 お隣の玄関前に立ち、ノックを一つ。返事はない。ノックをもう一つ。コンコン。きっと鍵は開いていると思うけど、勝手に入っては不法侵入だ。いくら顔見知りと言えど、法は弁えている。じっと扉の前で待ち続けていると、それはゆっくりと開かれた。ふわり、と慣れた香りと共に、髪の結ばれていないアキが顔を覗かせる。髪を結んでいない彼はレアだ。以前、病室にお見舞いに行った時に一度見たきり。そう、あれは姫野先輩が亡くなった後だ。

「名前さん、朝早くからどうしたんですか」

 普段から表情の乏しい彼は大して驚きもせず、扉を開く。予想通り一人みたいだ。パジャマ姿を見るに、どうやら寝起きらしい。彼も休みなのか、それとも午後からの出勤なのか。4課ではない自分がアキのシフトなんて知る由もないが、午前の出勤時間を超えたこの時間に家に居るという事は、どちらかしかないのだ。即ち今、アキには暇があるということ。
 何か用かと言いたげなアキの問いには応えず、にこりと笑みだけ返す。開けてくれた扉とアキの身体の隙間をするりと縫って、玄関への侵入に成功した。家主が扉を開けてくれたのだ。不法にはならない。そのまま振り返ると、呆れ顔のアキと目があった。私の表情を見て察したのか、ため息を吐きながら扉を閉める。それを家に上がる許可ととった私は、ヒールを脱いで玄関に揃えた。
 勝手知ったる早川家のリビングに入ると、私の家には無い大きめのローテーブルが置いてある。座布団はみっつ、デンジとパワーと、アキの分。同居者が居ない私は少し羨ましくなる。家に帰っても誰もいないというのは寂しいものだ。まあ、あのうるさい二人と同居は嫌だけれど。だからこうして、たまにアキの家に入り込んでは居座ったりする。特に何をするでもない。ただ空間を共有したいだけ。
 私が座布団の上に座ると、アキはカウンターにあるキッチンに立つ。「朝ごはん食べますか?」そう聞いてくれる彼に、私は「食べる!」と笑顔で返した。
 手際良くトースターに食パンを二枚入れ、フライパンを火にかける。冷蔵庫から取り出した卵とベーコンをフライパンに並べると、小気味良い音が響く。滅多に料理をしない私の家では聞くことができない貴重な音だ。その音を尻目にテレビをつける。朝のニュース番組にはさほど興味はなかったが、こっそりアキを見ていると気付かれないようにするためだ。
 キッチンに立っているアキは悪魔と対峙している時とは別人に見える。料理は嫌いではないのだろう。少しばかり楽しそうに見えるのは私の勘違いではないはずだ。トースターがチン、と可愛い音を慣らしたところで、フライパンに少しの水をひく。焼けたトーストを取るくらい手伝っても良いかなと思ったのだけれど、以前料理を手伝おうとした時に珍しく本気のトーンで「邪魔です」と凄まれた事を思い出して、大人しく座っている事にした。
 アキがトーストを一枚ずつ皿に乗せ、テーブルに運ぶ。アキの家には調味料が変に揃っていて、その中でもトーストには蜂蜜とシナモンの組み合わせが一番好きだ。成人男性の家にシナモン、普通ないでしょう。そして私がその二つを好んでいる事を知っていて、アキはテーブルに置いてくれる。丁度蒸し焼きにされていた目玉焼きとベーコンも出来上がったようで、綺麗に皿に盛られた朝食プレートとアップルティーも仲間に加わった。ちなみにこの半熟の目玉焼きもアップルティーも、私の好み。ここまでくるともう胃袋を握られてるんじゃないか、とすら思う。しかも好みを把握されているだけじゃなく、アキの料理はちゃんと美味しい。
 一通り運び終わった後アキも座布団に座ると、どちらからでもなく自然と一緒に手を合わせた。小さくいただきます、と呟く。トーストを一口かじると蜂蜜の甘さとシナモンの香りで満たされる。この味が好きで、自分でも蜂蜜とシナモンを買ってみた。けれど一人で食べた時と、アキの家で一緒に食べた時では味が違う。トーストを頬張っていると、正面に座っているアキと目があった。普段あまり表情を変えないアキが珍しく笑っていて、思わず心臓が脈打つ。

「相変わらず美味そうに食いますね」

 そう言って目を伏せ、自分もトーストを齧ろうとするアキから目が離せなくなる。見られていた羞恥か、褒められた歓喜か、よくわからない感情が私の中で渦巻いて思考を停止させる。私が美味しそうに食べる姿なんて見せるのは彼だけだという事を、アキはまだ知らない。