夕陽に照らされた廊下は昼間とは違った顔を見せていて、まるで世界に一人だけ取り残されたような気分に陥る。
 いつもは友達と他愛のない話をしている場所も、陽が落ちるだけでこんなにも見え方が違うのか。人気と言えば、グラウンドから運動部の声が微かに聞こえる程度。
 昼間の喧騒は何処へやら、しんと静まり返った廊下でゆっくりと歩を進めた。
 目的の場所は自分の教室からは別の校舎で、更に上の階にある。
 音を出さないように静かに階段を登り、さらに廊下の角を曲がったところで、ピアノの音色が聞こえた。教室の札には音楽室と書かれており、ピアノは中から奏でられている。
 そっとドアの隙間から覗き見してみれば、そこには一人の男子生徒がピアノに向かっていた。
 夕陽に照らされて顔はよく見えないが、あれが、きっと──私の許嫁なのだろう。

 いわゆる良家という所に産まれた私は、何不自由なく育てられた。両親と兄からの愛情を受け、習い事も勉学も遊びも、全て十分に与えてもらった。
 名門であるはばたき学園に入学し、これから自分の道を見つけて歩むんだと思っていた矢先、父の事業が傾いた。
 倒産まではいかなかったものの資金繰りが上手くいかないようで、そこで業務提携を申し込んできたのがあの設楽家。
 有名な財閥で父からすれば願ってもない申し出だが、提携する際の条件の中に息子の結婚相手として私を指名してきた。
 自分の家が良家だということは理解していたけれど、許嫁だなんてフィクションみたいな話は流石に無いと思っていた。が、実際にあってしまったので今こうしてその相手を視察に来ている。
 設楽家の当主曰く、彼は難しい性格をしているらしい。このままでは結婚どころか女性とのお付き合いすら怪しいのでは、と心配した結果だそうだ。もちろんこちらに断れる術はなく、父からはひたすら謝られ、母からは泣かれる始末。
 いくら相手が有名財閥のお坊ちゃまだとしても、見ず知らずの人間と結婚なんて絶対に嫌に決まっている。
 けれど父も母も大好きだし、私が断れば事業の件もどうなるか分からない。
 いっそ、どんな人間なのかを自分で確かめれば良い。難しい性格と言ったって、会ってみなければ分からない。
 未来の旦那様になるかも知れない彼の情報を聞くと、驚いたことに同じはばたき学園に通っているという。更には同学年で、クラスだけが違っていた。そう言えば同じ学年の設楽という名前、聞いたことがあるような。

「え、名前、設楽君のこと気になるの?」

 まるで大変そうだとでも言わんばかりの表情を浮かべる友達に、気になるとかじゃないんだけど、と曖昧に濁す。
 その表情の意図を汲み取れず、それとなく聞いてみると、彼は親衛隊まで居るような、学園ではちょっとした有名人らしい。
 有名な財閥の子息で更にはピアノの天才で、顔も整っているという。そりゃあ親衛隊も出来る訳だな…と変に納得した。
 ただ、ちょっと変わってるみたい。と友達が笑うので、やっぱり全てを持ち合わせている人間なんて居ないんだなと眉を下げる。
 設楽君に会いたいなら隣のクラス行ってみなよ、と勧められたが、大勢の同級生が居る中で堂々と会いに行くなんて、話題にしてくださいと言っているようなものだ。ただでさえ親衛隊が存在するような人に近づくなんて、考えただけでも恐ろしい。

「あ、それかね…」

 設楽君、放課後よくピアノ弾いてるみたいだよ。音楽室で。
 友人のその言葉に、放課後なら誰にも見られず彼を確認できるかもしれない。そう思った私は早速行動に移すことを決めた。

 そして今、まさに音楽室の前。友達の言っていた通り、彼は放課後にピアノを弾いていた。
 私も一般教養としてピアノは習っていたけれど、その音色はレベルが違っていた。こんなにも美しくて、けれどどこか苦しそうで。
 夕陽が差す音楽室はキラキラと輝いて見えて、その中に居る彼は溶け込むように座っており、いっそ幻想的ですらある。
 なんと声をかけていいのか分からず、ドアの隙間から覗き見するのも悪い気がしてきて、つい背を向けて座り込んだ。
 盗み聞きも悪いかな、と思いつつも、その音から離れられない。目を瞑り、体育座りのまま刹那の音に耳を傾ける。
 こんなに綺麗な曲を奏でる人が、難しい人なんだろうか。きっと、悪い人ではないはずだ。根拠もないのにそう思わせるような優しさが、この演奏にはあった。
 束の間、演奏が終了したのか音が途切れた。結局顔はいまいち見えないまま、どのように接触すればいいかも分からずだったが、今日はこれくらいで帰ろう。そう思って立ち上がったのと、音楽室のドアが音を立ててスライドしたのはほぼ同時だった。

「…誰、お前。」

 目の前には先ほどまでピアノの前に座っていた人物。恐らく、設楽聖司。
 突然の逢瀬に開いた口が塞がらない。しかも相手は、そこそこ不機嫌そうだった。盗み聞きしていたのがバレてる?そうなれば弁解の余地などなく、出来ることはただ謝る事だけだ。

「ごめんなさい。素敵な演奏だったから」

 この感想は、本音。聴き入っていたのも事実。ただ彼は私の賛辞に興味なさそうにふぅん、と返しただけだった。お互い無言の間に気まずさを感じる。
 そもそも彼は許嫁が出来たことを知っているのだろうか。親から何か聞かされているのかすらも分からない。
 もし何も聞いていなくて、私が貴方の許嫁です、なんて事を言ってしまったら確実に変人扱いされる。私だってそうする。

「…お前、ピアノ弾くのか?」

 どうこの場を切り抜けようか、ぐるぐると思考を巡らせていると彼から突然の質問が降ってきた。
 少しだけ、と答えると彼は「そうか」と目を逸らして切なそうに口許だけ笑った。
 その表情がどういう意味を持つのか、私にはまだ分からない。けれど、どこか寂しそうな顔が印象に残る。

「設楽君とは、また会うことになると思う」

 同じ学校だから、とかではなく、きっと近々両家の顔合わせがあるはず。
 許嫁の件を知っているかは分からないけど、私から伝える事ではない気がして、この場ではそういうしかなかった。
 彼はあからさまに訳が分からないという表情をして見せ、首を傾げる。またね、と踵を返す私に、小さく彼が、変なやつ、と呟いた。

 思わない接触だったけれど、私に取っては少し前進だ。
 これからもっと彼のことを知っていければ、この結婚も受け入れることが出来るかもしれない。
 彼が許嫁に対してどう思うかは分からないけれど、それでも私は家族の為に決められた道を進むしかなかった。