マクロコスモス社と言えばこのガラルで知らない人間は居ない。それくらいに有名な大企業で、ガラルでの生活のほとんどに関わっている。子会社もたくさんある中、本社に就職できる人は限られていて、もちろん希望者も多い。私もその中の1人で、学生の頃からマクロコスモスで働く事が夢だった。
 そんな憧れのマクロコスモス本社に入社してから半年。ローズタワーで勤務できるとドキドキしていた初日に、今では懐かしさすら感じる。
 結論からいうと、ローズタワーで働く夢は叶っていない。
 ガラル各地にいるジムリーダーと、マクロコスモス社の社長もとい、ガラルポケモンリーグの委員長であるローズさんのやり取りをスムーズに行うために新しく作られた部署。そこが私の配属先だった。出勤初日にローズタワーで社の説明を受けて、新設部署への配属になると聞き、そこでローズタワーには自分のデスクが無いことを知らされる。この部署はジムリーダーのいる街での勤務になるとのことだった。
 配属先の先輩にあたる女性が、私の担当はスパイクタウンになると教えてくれた。髪を一つに束ね、シワひとつ無いスーツに身を包んだ彼女は仕事ができる女性のイメージそのものだった。
 仕事内容は簡単、担当のジムリーダーと意思疎通を図ること。会社とジムリーダーの間を取り持ち円滑なコミュニケーションを取れるようにすること。多忙なローズ委員長の代理とも言える。
 丁寧な説明の後、質問を受け付けてくれたので「新人の私に務まるんでしょうか?」と聞くと、「担当のジムリーダーによるかもね」と苦笑いを頂いてしまった。
 ブラッシータウンで産まれ育った私がスパイクタウンについて知っている事と言えば、ダイマックスをしないジムリーダーがいる、という事のみ。ポケモンバトルをしない私はジムリーダーには疎かった。誘われればリーグ大会も見るけれど、私が知っていたのは有名なキバナさん、モデルのルリナさん、チャンピオンのダンデさんくらい。
 スパイクタウンのジムリーダーはネズさんという人で、先輩曰く少し気難しい人らしい。「まあ、あなたならきっと上手くやれる気がするわ。素直そうだし」。そう言った先輩の表情はやっぱり明るいとは言えなかった。

 初めてスパイクタウンに足を踏み入れた時は自分が生きてきた中で見た事がない人やポケモンが多すぎて、この街に食べられるんじゃないかと思った。実際すれ違う人はみんな私の事を睨み付けてくるし、独特のファッションをしていて近寄りがたい。防御が下がりそうな思いでとにかくジムリーダーのネズさんに会わない事には仕事も始められないと、街の中で一人奮起した事を思い出す。
 初対面のネズさんの印象と言えば、これ以上に意思疎通が難しい人は居ない、だった。
 ネズさんはマクロコスモスからの派遣社員など不要だと思っていたらしく、まさに取り付く島もなかった。私は仕事でコミュニケーションを取りにきているが、ネズさんはそれを必要ないという。双方の意見が反対方向にしか向いていないのだから、意思疎通が出来ないのは当たり前だった。
 それでもめげずに通いつめ、というか職場はここなので通うしかないのだけれど、仕事という名の雑用もこなしつつ半年が過ぎた。
 初めこそ表情はあまり変わらないし言葉数も多い方ではないネズさんの意図を汲み取るのは難しかったけれど、ようやく微妙な表情の変化に気付けるようになれた。例えば嬉しい事があった時は少し目尻が下がるし、嫌な事があれば眉間のしわが1本増える。ネズさんは嫌な事があった時の方が顔に出やすいかもしれない。ローズ委員長からの突然の呼び出しがあった時なんて、それはもう分かりやすく眉を寄せる。それでも最近は喜んでいる表情を見る事も増えた。ネズさんはコーヒーが好きなようで、事務所で私が入れたコーヒーを美味しいと飲んでくれた時は感動すらした。

 スパイクジムに居るジグザグマたちのブラッシングは、私の日課になっている。ジグザグマは進化後のマッスグマに比べると毛質がパサパサしているけれど、きちんとブラッシングしてあげると毛並みも手触りも良くなると知った。ずっとジグザグマは毛がジグザグしているからジグザグマと言うのだと思っていたが、ジグザグに動く事からその名前が付いたと教えてくれたのもネズさんだ。
 自分にもパートナーであるワンパチが居るけれど、バトルはさせた事がない。私のポケモンの知識なんて最低限しかないのだと、スパイクジムに勤務するようになって痛感した。
 ジグザグマ達にも最初は警戒されていたけれど、今ではすっかり膝の上で寛いでくれるまでになった。そのまま寝られたりもするので、逆に動けなくなってしまうこともあるけれど。
 ふわふわになったジグザグマを優しく撫でながら、ネズさんの帰りの時間を考える。今日はナックルシティに用事があったらしく、昼過ぎには戻ると告げて外出された。そろそろ帰る頃合かとスマホを開いて時間を確認した時、馴染みのあるメロディと共に画面が着信の表示に切り替わる。そこにはマクロコスモス本社に勤務している、男性の先輩の名前が出ていた。私がスパイクジムで作成した資料などを纏めてくれている、頼れる先輩。
 緑のボタンをスライドし電話に出ると、スパイクタウンの近くに来たので資料を手渡したいとの事だった。本社とのやり取りは基本的にメールと電話だけれど、重要な書類の受け渡しなどがある場合は対面になる。

「久しぶりだね、名前ちゃん」
「先輩、お疲れ様です。この前会ったばかりじゃなかったですっけ?」

 調子良さそうにそうだっけ、なんて恍ける先輩に笑顔を返しておく。名前ちゃんも本社勤務なら良いのになぁ、と呟いていたが、その言葉がどういう意味を持つのか私には知る由もない。
 手に持っていた茶封筒を私に差し出すと、資料の提出期限など軽く説明をしてくれた。それとついでに、と可愛らしい紙袋も一緒に手渡される。中身はナックルシティで有名なカフェの洋菓子だった。

「ナックルシティの担当の所も行ってきたからさ、お土産」
「わぁ、ありがとうございます!」

 あとでネズさんと食べよう。コーヒーのお茶菓子に丁度良さそうだ。ネズさん喜んでくれるかな、なんて考えてニコニコしながら先輩の次の言葉を待つ。用事は終わったはずなのに、先輩の足は縫われたようにそこを動こうとしない。次の言葉を待ちながら、今日の残りの業務を考える。ネズさんが帰ってきたら目を通して貰いたい資料がある。その後は備品の買い出しにも行きたい。今日中に終わらせたい仕事はあとは、とこっそり思考を巡らせていると、先輩が頭をがしがし掻きながら徐に口を開いた。

「あー、あのさ。次の日曜日…」
「名前」

 先輩の言葉を遮り、私の名前を呼ぶ声。低く、聞きなれた声に視線を上げると先輩の背後にネズさんが立っていた。いつもと同じ無表情に少しだけ不機嫌を滲ませているのは私の勘違いではない、と思う。「ネズさん」と私が呼ぶと、先輩も後ろを振り返った。先輩がどのような表情をしているか私からは見えない。ネズさんは彼を一瞥すると、彼の横を通りすぎて私の側に立つ。

「誰です?」

 ネズさんから発せられた声は驚くほど冷たく、文字通り肝を冷やした。ネズさんは決して人当たりが良いとは言えないが、ここまで敵意らしいものを見せるのも珍しい。少なくとも、この半年間では聞いたことのない声色をしていた。ネズさんと先輩は初対面のはずなので、何が理由なのか全く分からなかった。それとも、何か気づかないうちに私が気に触る事をしたのだろうか。

「マクロコスモスの先輩です。資料を届けに来てくれて…」

 必死に笑顔を作りながら先輩を紹介すると、こちらに向き直った先輩も軽く会釈をする。ネズさんはへぇ、でもふぅん、でも無い、興味のなさそうな抜けた返事を一つ置いてスパイクタウンのシャッターを潜った。ネズさんがジムへ戻るのに、私だけ外で立ち話をしている訳にもいかない。

「あっ、ネズさん待ってください!先輩、資料とお菓子ありがとうございました」

 一礼して踵を返し、急いでネズさんを追いかける。追いかける途中で先輩が何かを言おうとしていた事を思い出したけど、ネズさんの態度が気になって引き返す余裕はなかった。仕事の用件なら後ほどメールを送ってくれるはずだ。
 すぐ追いかけたはずなのに、追いつく頃にはネズさんはもう既にジムのすぐ裏にあるオフィスに入ろうとしているところだった。急いで駆け寄ると、ネズさんがドアを開いて待ってくれていた。礼とともに頭を下げて扉を潜る。ネズさんの顔をちらりと見たけれど、もういつもの通りに戻っていて不機嫌の色は見当たらなかった。自分のデスクに資料ともらったお菓子を置くと、ネズさんも椅子にゆっくり腰をかける。ナックルシティどうでしたか、コーヒー入れるので休憩しませんか、さっき先輩がお菓子くれたんですよ。取り留めもない話をつらつらと並べながら、慣れた手つきでお湯を沸かす。ネズさんも聞いていないようできちんと相槌を打ってくれるので、やっぱり基本は優しいのだと思う。
 コーヒーによって暖かくなったティーカップと、先輩がくれたアップルタルト一切れをネズさんのテーブルに並べる。ネズさんは集中して紙と対面していて、何かを考えているようだった。邪魔しないように私も静かに自分のデスクに戻り、先ほど受け取った資料に目を通す。

「…で、行くんですか?」
「え?」

 突然のネズさんからの問いに、頭には疑問符しか浮かばなかった。前後の会話もないのに質問とはネズさんらしい。頭をひねってはみたもののやっぱり適当な答えは見つからなくて、ネズさんをちらりと見れば涼しい顔で紙とにらめっこしたままでだった。
 どこにですか?と素直に聞けばネズさんは少し驚いた素振りを見せて、またすぐに目線を紙へと戻した。

「さっきの男、ですよ」
「さっきの…あ、先輩の事ですか?」

 そういえば何かを言いかけていた。確か、次の日曜日って聞こえたような。先輩が私に用事なんて仕事のことでしかないので「仕事なら行くしかないですよね」と笑いながら答えると、ネズさんは今までに見た事のないほどの呆れ顔を見せた。

「…オマエ、自分を可愛いと思った事があります?」
「えぇ?!」

 次は疑問符だけではなく、感嘆符までついてしまった。それほどにネズさんから出たのは思ってもみない言葉だった。今は先輩の話をしていたはずだ。それからどうして自分を可愛いと思った事があるか、という質問になるのか。
 自分は人並みで、特別可愛いなんて思った事はない。可愛いという言葉はルリナさんやネズさんの妹のマリィちゃんに使われるべきだと思う。あ、ルリナさんはどちらかと言うと綺麗かな。

「ないない、ないですよ。私より可愛い人なんて沢山居ますし…」

 大袈裟に手を振って否定する。ここで自分に自信がある子は、うまく肯定出来るんだろうか。私は自分に自信なんてないから、そういう子はある種羨ましいとも思う。眉を下げて笑う私に、ネズさんは軽くため息をついた。

「まあ、オマエらしいっちゃらしいですがね」

 そう言って席を立つと、私のデスクの傍に立つネズさん。ただでさえ身長が大きいのに座ったまま見上げると更に威圧感がすごい。
 椅子に座ったまま動く事が出来ずにいると、ネズさんの手が私の頬に滑らされた。人間、驚きすぎると声が出なくなると言うのは本当なんだと身をもって知った。ネズさんの骨ばった手が私の頬桁を撫でる。時間が止まったように、呼吸すら忘れる。

「オマエは可愛いですよ」

 もう少し自覚を持った方がいい。そう言ってネズさんがフッと笑うから、今日はネズさんの見た事のない表情をたくさん見る日だなぁ、なんて考えて頬の熱を必死に逃がそうとするけれど、真っ赤な私を見てネズさんがまた笑うものだから、その努力は無駄に終わるのだった。