ぽたり、と汗が顎を伝って落ちる。それは左手の甲の上に着地した。机をひとつ挟んですぐ目の前に居る出久くんをそっと盗み見ると、こめかみから頬にかけて透明な線が出来ている。汗を拭うのも忘れて教科書を読み込む姿は真剣で、とても彼らしい。

 放課後の教室、私とデクくんの二人きり。九月に入って暑さのピークは過ぎたものの、まだまだ残暑は続いている。どうして教室に居残りしているのかというと、一つだけどうしても苦手な科目があり、その科目について相澤先生から個人的な課題を出されてしまったから。その時の先生の形相といえば、それはもう本当に鬼みたいだった。普段やる気のないように見えてしっかり生徒を見てくれているのだから、相澤先生は頼れる先生だと改めて思う。
 そうして教室で一人寂しく居残ろうと準備していた時、ぞろぞろと教室から出ていくみんなとは逆に出久くんも自席に座ったままなことに気付いた。話を聞くと最近謹慎をくらっていたので、遅れた分の座学を取り戻したいとのことだった。そういえば爆豪くんと二人で謹慎していたっけ。二人とも頬や腕に怪我をしていて、絆創膏が痛々しかったのを覚えている。

 優しい出久くんは私の課題の話を聞くと、手伝うと笑顔を見せた。自分の遅れを取り戻す為に残っているのに、私の課題に付き合わせるのは申し訳なさすぎる。けれどそれを伝えた所で引くような出久くんではなかったし、私自身も課題を一人で攻略出来るかと言われれば全く自信はなかった。だって相澤先生の問題、意地悪なものが多いんだもん。
 お言葉に甘えまくった結果、一つの机に椅子を突き合わせて向かい合わせに座り、今に至る。机には私の課題が広げられていて、出久くんは自分の教科書を手に持って読み込んでいる。何かわからないところがあればすぐに教えて貰えるので、私にとっては至れり尽くせりだ。

 出久くんが使用できる机のスペースが無さすぎてまた申し訳ない気持ちになったけど、ブツブツ言いながら教科書を読んでるから集中は出来てるみたい。そんなことで怒るような人ではないと分かっているけど、内心少しホッとする。彼は人に気を使いすぎて損するタイプだから。でもそこが彼の良い所でもある、と思う。

 ぺらり。静かな教室に教科書をめくる音だけが響く。課題が詰まった訳じゃない。ふと、教科書を持つその手を、指を、腕を見て、細かい傷が多い事に気づく。出久くんって入学した時こんなに逞しかったっけ?
 ヒーロー科は毎日訓練の日々でみんな成長している。特にA組はヴィランとの戦闘もあり、他のクラスよりも成長率は目紛しい。クラスメイトの頼もしい姿を見られるのは誇らしいと思う。それにしても、だ。出久くんの成長速度は他人と比にならない。爆豪くんや轟くんも目を見張るものがあるけれど、この二人は体力テストの頃から既にベースが出来上がっていた。出久くんは、今やその二人を飛び越えそうな勢いだ。もっとずっと細いイメージを持っていた腕には、よく見ると筋肉がしっかり付いている。どれだけ努力すれば、この短期間でここまで成長できるのか。自分にも、みんなにも見えない所でたくさん訓練しているに違いない。

 腕から目線を滑らせると、出久くんは真剣な表情のまま教科書と睨めっこしていた。何故だか目が離せなくなる。理由は自分でも分からない。シャーペンを持った手も動かせないまま、まるで魔法にかけられたみたいに固まってしまう。
 じっと見ていると流石に視線を感じたのか、出久くんが教科書から顔を上げる。ぱちりと目線が絡み合って、その瞬間ガタンと音がした。出久くんが仰け反って後ろの机にぶつかった音だ。

「ご、ごめん!どこか分からない所あった?」

 教科書に集中しすぎてた。と頭をかく出久くんに、ううん。と返事をする。返事をしてから「じゃあどうして見つめていたの」と聞かれたら、それに適当な答えを持ち合わせていない事に気づいた。どうして?自分でも分からない。
 幸いなことに出久くんは気にならなかったみたいで、一つ返事を置いてからまた教科書へと視線を戻す。私はというとやっぱり課題に戻る気はなくて、出久くんを見てしまう。机ひとつ挟んだだけの距離は近くて、意識するとなんだか不思議な気持ちになった。

 ぽたり、と汗が伝って落ちる。それは私のノートの隅に着地した。教室には冷房がついているけれど、いつも弱設定だ。九月だというのにまだまだ暑い。心臓がいつもより騒がしく聞こえるのも、体温が高い気がするのも、全部暑さのせい。
 ノートがじわりとふやけていく。もう戻れないのだと、頭の隅で理解した。