金曜日の夜、よくある居酒屋の座敷に男女が六人ずつ。その内の一人は私で、もう一人は大学時代からの友人。あとは知らない人ばかり。飲み放題を言い訳に、机の上には人数分以上のグラスやジョッキが乗っている。あまりお酒に強くない私はカクテルでなんとなく誤魔化しつつ、唐揚げをつついていた。お酒は普段飲まないけど、居酒屋ご飯は美味しいから嫌いじゃない。周りが酒飲みばかりのせいで余りがちなポテサラを自分の小皿に移しながら、騒ぐ男女を眺める。
 最初に全員で自己紹介をしたはずだが、薄らとしか記憶にない。今目の前で楽しそうに話している男性の名前も分からない。自分も何か言ったはずなのに、名前なのか、それとも年齢なのか。あれからそんなに時間は経っていないはずなのにもう思い出せなくなっていて、さては自分が思っているよりアルコールを摂取しているのかな、とぼんやりする頭で思考する。

「ごめんね、名前。付き合わせちゃって」

 隣から小さな声が耳元に届く。これは友人。流石にわかる。彼女も結構飲んでいるはずなのに、涼しい顔のままだ。彼女は昔からお酒に強かった。レモン酎ハイを片手に持ち、空いたもう片方の手をピンと立てて”ごめんね”のポーズをする。全く謝る気のない姿だが、大学時代から彼女はずっとこうだ。けど、こういう所が付き合いやすくて好きだったりする。

 この友人から『合コンの人数が足りなくて、どうしても参加してほしい』と連絡を受けていなければ、私は今この場に居ない。合コンには興味は無かったけど、居るだけで良いという話だったのと、決して多くはない友達の頼みだから参加を決めた。最近周りで結婚する子が増えていて、少し焦っているらしい。同じ年齢だから結婚を焦る気持ちはとても分かる。
 結婚か、と考えて思わずため息が漏れる。昔は26歳なんてとっくに結婚してるのかな、なんて想像したりしていたけど。つい彼の姿を思い出しそうになって、頭を振った。現実は優しくなんてない。

「名前ちゃんだっけ、全然飲んでなくね?俺と飲もうよ」

 先ほどまで別の女子と話していた男が、知らない間に隣に座り込んでいた。その手にはご丁寧にビールジョッキが二つ携えられている。
 ビールの美味しさは未だに分からない。彼と一緒に居た時にそう言った事がある。彼は「名前さんってそういう所子供ですよね」って言って笑ってたっけ。今考えても年下のくせに生意気だ。でも、そういう所も含めて好きだったんでしょう、と無意識に自問する。答えは返ってこない。無言の肯定というやつだ。

「ちょっと、やめなよ。名前お酒強くないんだから」
「いいじゃん。飲めない訳じゃないだろ?」

 友人が私と男の間に割って入ろうとするけれど、男は強引にジョッキを渡してくる。昨日の私ならやめて、とちゃんと断れていた。でも今はどうだっていい。酔い潰れたっていいし、この男と一夜明かす事になっても別にいい。
 男からジョッキを受け取ると、彼女は本気で心配している様子で私を覗き込んだ。

「ダメだってば。あんた彼氏いるでしょ。こんな所に呼んで悪かったとは思ってるけど、飲み過ぎたらどうなるか…」
「別れたよ。だから大丈夫」

 そう、彼とは昨日別れた。つい昨日、喧嘩して。スマホにメッセージは届いていたけど、見てもないし返事もしていない。だから別に心配することなんてない。ぐい、と一気にビールを煽る私を見て友人は心配そうな、男は好悦の表情を見せた。
 良い歳なんだから、自分の事は自分で決められる。今、判断力が鈍っているという事は否定はしない。それでも、この一瞬の寂しさを埋めてくれるのならお酒でも男でも、なんでも良かった。

 そこから先の記憶は朧げで、何度かジョッキやグラスを持たされては口へ運んだ事だけが記憶にある。何を飲んだかは覚えていない。いつもならすぐ気分が悪くなるのに、今日はふわふわと良い心地だった。これが酔うって事なのかな、とギリギリで留めている意識で思考する。肩に知らない男の手が乗っていても、男の胸元に頭を引き寄せられても何も気にならない。
 新しいグラスを求めてゆらゆらと右手を上げたとき、個室の引き戸が音を立てた。

「すいませーん。彼女引き取りに来たんですけど」

 その声は、聞き覚えがあるというにはあまりにも耳に馴染み過ぎていて。空を彷徨っていた右手がビタリと固まる程には衝撃を受けた。
 いきなり開いた個室の扉にみんなの視線が集まる。突然の来客に一瞬静まり返ったものの、扉を開けた主を確認した瞬間全員が騒ぎ出した。それはもちろん人気No.2ヒーロー、ホークスがそこに立っていたからに他ならない。

「えっ、ホークス?」
「マジ!?スッゲェ本物だ」
「彼女ってどういうこと?」
「ホークス、一緒に写真撮って!」

 そこにいた皆が思い思いの台詞を吐く間、ホークス、もとい啓悟くんはぐるりと視線を這わせ、私を引き寄せていた男を一瞥する。強い覇気に気圧され、それだけで私の肩は男の手から解放された。状況が未だに飲み込めず、はくはくと口は動くのに声が出ない。そんな私を見かねてか、友人がこそりと「私が呼んだの。ごめん、さっきスマホ勝手に触った」と、耳打ちしてきた。動かない頭でパスコードを誕生日にするのはもうやめよう、と何故かそれだけ強く思った。
 啓悟くんは騒ぎ立てる皆を貼り付けた笑顔でいなしつつ、私の横に膝をつく。狭い個室が彼の羽のせいでさらに狭くなる。彼とはずっと一緒に居たせいで、顔を見ればわかる。これは笑顔に見えて内心めちゃくちゃ怒っているやつだ。

「迎えに来ましたよ。ほら、立って」
「な、なんで…」
「なんでって…彼氏だから?」

 ”彼氏”のワードに部屋がまた叫び声で埋まる。他のお客さんに怒られないだろうか、なんてどうでもいい心配をしてしまうほど。黄色い悲鳴をあげる女子、泣き出す女子、イケメンはいいよなぁと愚痴りだす男子など反応は様々。
 言われた私はというと、その返事を待っていたわけではない。私の中ではこの関係は昨日にもう終わっているはずだった。それなのに、友人に言われたからと言って何故迎えになんて来たのか。頭には疑問符しか浮かばない。立って、と言われてもまだ飲み会は一応進行しているし、お会計だってまだだ。
 動かない私を見かねてか啓悟くんは小さく息を吐き、仕方ないと言わんばかりに私の足と背中に手を回す。そこから持ち上げられるのは一瞬。急に床から離されて、必死にバランスを取るために啓悟くんの服を掴んだ。

「これ、お釣りいらないから」

 いつの間にか机に置かれていた一万円札を背に、私を抱えたまま個室の窓に足をかける啓悟くん。剛翼で私のバッグを器用に掬い、抗議の声を上げる間も無く窓からふわりと飛び出した。居酒屋からは変わらず叫び声が飛び交っていたけれど、すぐにそれも翼の音にかき消されて聞こえなくなる。彼は何も言わない。そう言えば、前にもこんなことがあったなとぼんやり思う。夜、啓悟くんに連れ去られるのは2回目だ。言いたいことも聞きたいこともあったけれど、今だけは彼の腕の中で静かにしていようと思う。熱い頬に冷たい夜風が気持ち良かった。

 ぐんと高度を上げて着いた先は、知らないビルの屋上。私が逃げられないようにわざとこんな場所に連れてくるなんて、意地悪だ。
 そっと降ろされた場所から見渡すと、綺麗な夜景が広がっていた。今この状況じゃなければ美しさを堪能していただろうけど、そうもいかない。まだ酔いが覚めずにふらつく足を、屋上の柵に手をついて支えた。そんな私を啓悟くんはすかさず抱き止めてくれる。

「珍しく酔ってるじゃないですか。」
「…まぁね。」

 そんな姿初めて見た、と彼は少し目を瞬かせる。彼氏と別れた次の日くらい飲ませてほしい。というか、もう彼氏でもないのにどうしてこんな距離が近いんだろうか。

「さっきのアレはどういう事ですかね?」

 アレ、とは。居酒屋でくっついて来ていた男の事だろうか。啓悟くんの手が腰に回っているせいで、ぴたりと身体が密着する。顔を寄せられれば逃げ場はなくて、それでも少しでも抵抗したくて鼻先を逸らした。

「啓悟くんには、関係ないじゃない」

 つんとした態度を装ってはみるけれど、声が震えていないか心配になる。そう、関係ないはずなのに。

「俺は別れないって言ってるでしょう」

 目を合わせたら最後、真っ直ぐな瞳から目が離せなくなる。自分の中の気持ちが抑えられなくなりそうで、両手で彼の身体を押し返した。俯いた地面が滲む。

 私だって、別れたい訳じゃなかった。けれど、毎日若い女の子に言い寄られる啓悟くんを見るのが辛かった。ただでさえ自分は彼より歳上で、別に美人な訳でもないし、自信が持てない。どうして自分と付き合ってくれているのかも分からなくなってしまっていた。
 そんな時、彼の事務所に差し入れでも届けようとした昨日。廊下で彼のファンらしき若い女子二人組とすれ違った瞬間に聞こえた言葉が頭から離れない。

『あの人もホークスのファンなのかな』
『歳いってそうだし違うんじゃない?』
『彼女だったりして』
『えー、ないない!』

 あはは、と笑いながら歩いていく二人に、勝手に苦しくなる。やっぱり釣り合ってないんだな、なんて。分かっていた事のはずなのに、事実として突きつけられるとずっと耐えていたものがあっさり崩れてしまうものなのだと身をもって知った。

「だから、私が無理なの…啓悟くんと一緒に居るのが、辛い…」

 No.2ヒーローの彼女という重責。仕事上の付き合いもあるから事務所には出入りできるけれど、付き合っている事を簡単に公には出来ない。啓悟くんはちゃんと愛情表現をしてくれていた。それでも自分に自信が持てなかった、私のせいだ。みんなに愛される、求められている彼の隣に立つような立派な女性にはなれない。だから、啓悟くんは何も悪くないから、このまま綺麗にお別れしてお互い違う幸せを見つけた方が。だから、と言葉を紡ごうとした瞬間、それは彼の言葉で遮られる。

「…どうすれば、辛くなくなりますか?」

 予想外の台詞に思わず顔を上げた。彼の表情は珍しく弱気で、いつもの飄々としている姿からは想像もできない。付き合ってからもこんな顔を見るのは初めてだった。

「俺は、名前さんと一緒に居られなくなる方が耐えられない。こんなにも貴女しか見えてないのに」

 ぎゅう、と音がしそうなくらいに抱きしめられて呼吸が苦しくなる。身体だけじゃなく、心も軋んだ。彼の言葉にどう返事をすればいいのか分からず、ただ立ち尽くす。ねえ名前さん。と啓悟くんが耳元で囁いた。

「結婚しましょう。それとも、俺のこと嫌い?」

 唇が耳に付く程の至近距離に心臓が跳ねた。啓悟くんは少しだけ身体を離して、私の顔色を伺うように首を傾げる。私が彼を嫌うはずがない。そんな事とっくに分かっていて聞いてくる彼は本当に意地悪だ。

「嫌いな訳ないよ…」

 絞り出すように発したそれは、啓悟くんの「うん、知ってる。」という満足そうな返事に食べられた。ちゅ、と遠慮がちに唇の端にキスを乗せられると、もう拒む理由はなくて。おずおずと顔を上げれば、次は唇の上にキスをひとつ。これ以上ないほど優しい表情をした啓悟くんに、どうしようもなく胸が締め付けられた。

「本当に、私でいいの?」
「名前さんがいいんですよ。」

 結婚、なんて口で言うほど簡単なことではないはずなのに。現役のNo.2ヒーローが結婚にどれだけ世間が騒ぐだろう。考えただけでも不安が広がる。そんな私の考えはお見通しかのように啓悟くんは大丈夫ですよ、と笑顔を向けた。

「俺が守りますから。それに言ったでしょ、離す気ないって。」

 俺からは一生逃げられないですよ。彼はそう言って私の頬を撫でる。手足を縛られている訳でもないのに、その場から縫われたように動けない。無言を肯定ととったのか、啓悟くんは満足そうに微笑んだ。