中学の頃、バスケットの試合に連れて行ってもらった時、私の中で何かが溢れた。形容し難いそれは感情として確かにあって、その試合を見た時に初めて感じたものだった。
自分の身長より遥か上にあるゴール。リングを通る瞬間のネットの掠れ。叩きつけられたボールの弾む音。点差は2点。最後まで諦めない選手と、無情に過ぎていく時間。タイムアップのブザーがなると同時に、弧を描いたボールがゴールポストへと吸い寄せられていく。
息を呑む、というのはこういう事なんだと身をもって知った。一瞬の静寂の後、ネットが揺れてボールが落ちる。スコアボードを見れば、負けていたチームが1点リードしていた。
あれ、ゴールに入れたら2点じゃなかったっけ。なんて隣の友達に言えば、遠くから入れたボールは3点になるんだよ。と教えてくれた。その時は友達に引っ張られる形で着いてきたものだから、詳しいルールなんて分かっていなかった。逆転勝利に湧き上がる選手達を見ながら、うるさく鳴る心臓を抑えた。
バスケは面白いスポーツなんだと知ってしまってからは、どうにか身近に置こうとしたけれど、うちの中学にはバスケ部がなかった。友達と放課後に公園で遊んだりもしたけれど、やっぱり私は自分でプレイするよりも見る方が好きだった。
湘北高校に入学した時、一番に確認したのがバスケ部の存在だった。バスケに関わるなら、マネージャーしかないと思った。マネージャーなんてした事がなかったし、迷惑かけそうで最初は自信がなかったけれど、悩みながら体育館の前をうろうろしていたら彩子先輩に大歓迎されてしまい、結局マネージャーになることを決めた。
初めは慣れなかったマネージャーの仕事も、ふた月も経てば大抵の事は出来るようになった。ボールの管理やドリンクの準備などの雑務中心だけれど、それでも出来ることが増えるのは嬉しい。
男子バスケットの魅力はやっぱり迫力があるところだと思う。うちのバスケ部も何を食べればそんなに大きくなれるの?って人ばかりで、正直羨ましい。赤木先輩は別格として、桜木くんは筋肉もついてるし木暮先輩も周りが大きいせいで目立たないけどしっかり身長はあるし。流川くんは、寝る子は育つの典型かな。私も身長があれば、ダンクシュートを決めたり出来るんだろうか。
人間は他の事を考えながらでもドリンクを完成させられるらしい。いつの間にか部内の人数分出来上がっていたボトルを前に、我ながら慣れたものだ。なんて、まだたった二ヶ月しか経っていないのに得意気になる。一度に持てる分だけ籠に詰めて体育館へ向かった。
分厚い鉄の板を挟んだ向こう側は、まるで別世界の様だといつも思う。大抵騒がしい湘北バスケ部だけれど、赤木先輩が厳しいおかげで練習する時はみんな切り替えて真面目に取り組んでる。桜木くんは集中力が切れてよく脱線しがちだけれど。
この地道な練習の積み重ねが試合につながるのだと思うと、それだけであの日の高鳴り思い出す。努力を惜しまない部員の皆に尊敬の念を抱きながら、それをサポート出来ることに喜びを感じる。
「皆さん、お疲れ様です。飲み物持ってきました」
中に入ってカゴを置くと、早速桜木くんが駆け寄って来る。桜木くんは赤木先輩の妹の晴子ちゃんが好きらしいんだけど、私にも優しく接してくれるからもしかしたら女子に弱いのかも。
「名前さん!いつもありがとうございます!」
ドリンクを手渡すと、桜木くんは深々とお辞儀をしてくれる。それだけなら良かったんだけど、そのままドリンクごと手を握られてしまった。頭を上げた桜木くんは思ったよりも近くて、少しだけ照れてしまう。けれどドリンクはまだあって、他の部員のみんなにも渡さないといけないし、でも無闇に手を振りほどく事もできずに困っていると、桜木くんの頭めがけて宮城先輩のチョップが飛んできた。
「邪魔だ花道!名前ちゃん、俺にもちょーだい」
頭を抑えてうずくまる桜木くんを少しだけ心配しつつ、宮城先輩にもボトルをお渡しする。サンキュ、とドリンクを補給しながら汗を拭う先輩。その横から三井先輩も顔を出す。赤木先輩の一旦休憩、という号令と共にわらわらと部員達が寄ってきて、あっという間に持ってきた分のボトルは無くなってしまった。
早く残りの分も取りに行こう。そう思って扉へ向かおうとした時、やけに視線を感じて足を止める。先を辿るとそこには流川くんが居て、視線がぶつかる。まさか目が合うと思っていなかった私は咄嗟に顔を逸らしたけれど、流川くんは変わらずこちらを見ているようだった。
「どしたの、名前ちゃん」
後ろから彩子先輩に声をかけられて、飛び上がりそうになる。思っていたより私がびっくりしてしまったせいか、彩子先輩にごめんと謝らせてしまった。
「あ、彩子先輩…なんか、流川くんに睨まれているような気がして…」
極力小さな声で、彩子先輩にだけ聞こえるように話す。実際睨んでいるのかはわからない。ただ理由が思い当たらない視線ほど怖いものもない。もしかして流川くんもドリンク、欲しかったのかな。
彩子先輩は流川くんを一瞥して、「あー…」と声を漏らす。何かを察したような雰囲気に、私の疑問符は増えるばかり。
「あれはね、多分睨んでるんじゃなくて…えーと、逆の意味だと思う」
「逆…?」
更に謎が深まって、目を瞬かせた。睨むの逆ってなんだろう。もしかして私の事を見てたのだろうか。なんて考えてはみるけれど、可愛いファンも沢山いる流川くんが私のことを見ている理由なんて何一つ思いつかない。
そんなことを考えていると、彩子先輩の「あ」という短い発音と同時に、目の前に影が落ちる。振り返るとすぐ後ろに流川くんが立っていて、思わず仰け反ってしまった。
「わ、流川くん。何か用…?」
近寄ってきたということは普通は何か用があるはずだが、流川くんは何も答えない。彩子先輩はそそくさとどこかへ行ってしまうし、二人きりの変な空間で無言の圧に押し潰されそうになる。
「あっドリンク欲しかったよね、ごめんね。すぐ取ってくるね」
若干の早口を紡いで、この空間から抜け出そうと試みる。返事を待たずに足を動かそうとすると、流川くんから意外な言葉が飛び出た。
「俺も行く」
「…え?」
それは仲の良い友達とコンビニ行く時に言うような、それくらい軽い言葉で。けれど流川くんとあまり話したことのない私からすれば、デートに誘われたくらいの重みがあった。
正直気まずいけれど、一応手伝ってくれるみたいだし断るのも申し訳ない。どう返事しようか考えあぐねていると、流川くんは私の返事を待たずにカゴを持って先に体育館を出てしまった。
マイペースなのは知っていたけれど、ここまでとは思っていなかった。面食らっている間にも流川くんはどんどん進んでしまうので、急いで追いかける。
給湯室に入ると、流川くんは既にカゴを下ろしてドリンクを手に持っていた。
「あ、ごめん。私もやるよ」
給湯室は狭く、187cmもある男子と二人で入るとなると窮屈ですらある。ドリンクをカゴへ入れるだけの作業なのに、気をつけないと何処かしらが触れてしまいそうになる。流川くんとこんなにも近い距離にいた事がないので、少し、というかかなり落ち着かない。
無言の空間に、遠くから他の部活の声が響く。ドリンクは全て入れ終えた。あとは体育館へ持っていくだけだ。カゴを持ち上げようと手を伸ばした瞬間、流川くんが先にカゴを取ってしまった。これはマネージャーの仕事なのに、部員にそんなことさせてしまっては申し訳ない。
「私が持って行くから流川くんは先に戻ってくれていいよ。手伝ってくれてありがとう」
緊張が伝わらないよう、気をつけて言葉を紡ぐ。声が上擦っていないかだけが気がかりだったけど、普通に話せたはず。
どうにも居心地の悪いこの場から早く抜け出したい。そう思っているのに、対して流川くんは無言で私を見下ろしたままだ。
「…あの、流川くん?」
不安になってもう一度声をかけてみるけれど、流川くんはこちらを見つめるだけ。必要以上に言葉を発しない彼からは、何を考えているのかが読み取れない。しかしカゴは彼の手にあって、無理矢理奪う訳にもいかず成す術がない。もちろん奪えるとも思っていないけれど。
「お前が…」
ぼそりと口を開いた流川くん。私?私が何かしたのかな。知らない間に何か嫌な事をしてしまったのかもしれない。ドキドキと騒ぐ心臓を抑えつつ、言葉を聞き逃さないよう静かに耳を澄ます。
「お前が、他の奴と喋ってると腹立つ。」
「えぇ…?」
想像していた10倍理不尽な事を言われてしまい、思わずため息まじりの疑問符が口から出た。これほど困惑という感情がぴったりな状況もそうそう無い。他の奴っていうのは部活のメンバーのことなのだろうか。でも話さない訳にはいかない。何故なら私はバスケ部のマネージャーだから。
「なんで腹立つのかがわかんねー。それでお前のこと見てた」
「あっ、だからさっき体育館で目があったの…?」
小さく頷く流川くん。さっきの疑問が晴れて解消されて、少しだけすっきりした。けれど、それも一瞬だった。そもそも腹を立てられてる理由がわからないと、こちらも対策のしようがないのだ。一方的にムカつかれて対策も何もないなぁ、とも思うけど。
私がどうすればいいのか頭を捻らせていると、流川くんが上からずい、と覗き込むように近づいた。
「特に、あの猿とは喋るな。」
猿って、桜木くんのこと?流川くんは桜木くんのことを何かとライバル視してるからやっぱり嫌いなのかな。でも、それと私が話すのが嫌な事とどう繋がるのかは全くわからない。喋らない訳にはいかないけど、でも流川くんが怒ってしまうし…?結局解決策が分からないままだ。
一人でうーんと唸っていると、気付けば流川くんが給湯室から姿を消していた。カゴを持たせてしまった、と急いで後ろ姿を追いかける。
流川くんがどうして腹を立てていたのか、真相を知るまでまだまだ時間がかかりそうだった。