「では、お邪魔しました」 「帰り道気を付けてくださいね」 「また来てください!」 カレーを平らげ、気持ち程度のお礼にと洗い物を手伝ったわたしは玄関で監督さんと皆木くんに見送られていた。一礼して、さあドアを開けようと鞄を肩にかけたその手を伸ばしたところで、ふわりと少し冷えた空気が前髪を揺らした。 「ただいま〜・・・・は?」 「ち、茅ヶ崎くん」 ばったり。わたしがドアノブに手をかけるより先に玄関のドアは開き、いかにも会社帰りの茅ヶ崎くんとかちあった。ぱちりぱちりとお互い目を見合わせているその後ろから「至さんおかえりなさい!」と監督さんが場にそぐわない陽気な声をかけているのがどうにも異質だ。 「送るよ」 「え、悪いよ」 いきさつを軽く説明すると、くるりと茅ヶ崎くんは体を180度反転して折角帰ってきたところだというのに出て行ってしまう。その背中に「茅ヶ崎くん、大丈夫だから」と声をかけても彼の長い脚は止まらないので、お邪魔しましたともう一度監督さんと皆木くんに声をかけてから寮から出ていく。 「どうぞ」 いつになく強引な茅ヶ崎くんの表情は、背中越しではとても読めない。勝手に門を潜って帰る訳にもいかず、その背中を追うとすぐ横にあるガレージに停めている茅ヶ崎くんの車の助手席へと導かれた。一瞬迷うも、大人しく車内へと入り、シートベルトをつける。そうして、エンジンブレーキは外され、車はゆっくりと動き出した。ハンドルを握る茅ヶ崎くんは、いつも通り王子様のようにかっこいい。それに、車内はシトラスの上品な匂いもするけれど、流れるのは、雰囲気のいいジャズではなく、この間ゲームセンターで太鼓を叩いた時、茅ヶ崎くんが選んだ曲だった。 「カレー美味しかった?」 「・・・美味しかった!」 まるで反復するようにそのままの言葉で返してしまったのは、大なり小なり緊張していたからだろうか。すっかり墨を落としたような夜に住宅街の心もとない街明かりに、予想していなかった茅ヶ崎くんの車という二人きりのシチュエーションは、なんだかそわそわしてしまう。そんな子供みたいなわたしの返答に「そっか」とふっと茅ヶ崎くんはちいさく笑った気がした。 「あんな料理上手な監督さんがいるなんて茅ヶ崎くん幸せ者だね」 「まあ三食アレじゃなければね・・」 三食?と疑問のワードにわたしがひっかかっている間にも「いや三食でストップすればまだいい方だけど」とすら続く。実は監督さんはカレー作りの修行僧だったのか?と考えるも、彼女のきらきらの笑顔を思い出しては、今日も美人さんだったなと考えがそれていった。 「監督さん」 「うん?」 「苗字さんのことすごく気にいってるみたいだから仲良くしてあげてね」 「・・・え?」 「男だらけの劇団に女性一人だし、きっと俺らには言えない困りごともあるだろうしさ」 「・・うん」 暗闇を割く様に対向車のライトに照らされて、茅ヶ崎くんの横顔がはっきりと見える。それは社内でみるような人好きをするような美しい笑いを浮かべたものじゃなくて、舞台の上でスポットライトにあてられたときにしていた真剣な顔と同じだった。 きっと監督さんは茅ヶ崎くんにとって大事な人なんだ。瞬間にそれが確信になる。 「・・それに俺のことも、よろしく」 いつになく歯切れ悪く、茅ヶ崎くんはそう続けた。対向車は過ぎ去って再び車内は黒がさした。 「・・茅ヶ崎くん?」 探すように、彼を呼ぶ。 「俺、勝手に苗字さんと仲良くなったつもりだったんだけど、苗字さん俺と距離とりたがるでしょ」 さっきも、本気で歩いて帰ろうとしたし。と続いた言葉にわかっていたのに、何故車に乗せたのだろうかと、疑問が浮かぶ。 茅ヶ崎くんってこんなに他人に興味を持つ人だったろうか。持ちつ持たれつ、いい意味でも悪い意味でも利害関係に留まる範囲で線引きをきっちり持つ人であると思っていた。勿論それはわたしに対しても。 最近は確かに社外でもひょんなことから関わることがあったけど、あくまで彼の思惑の範囲内で、意味もなく同僚の枠から特別飛び出すような台詞を吐くことはなかったように思う。 「・・その心は?」 臆病なわたしは保険をかける。まるではぐらかすような言葉のようにきこえるかもしれないが、探りをいれた。 「俺ばっかり色々バレて、ものすごくつまらないから苗字さんのことも暴いてやろうかなって」 あっけらかんと、先ほどの空気とは一転、茅ヶ崎くんはゲームをしている時のようなトーンを落として言い放つ。まるで意地をはった子供のような言葉だ。彼のテリトリーに踏み入りすぎたのが逆鱗の一端に触れてしまったのかもしれない。 「ジョブ食らわされたら、投げぬけA級でお返ししないとやっぱり気が済まないし」とやっぱりよくわからないが物騒な言葉を続ける茅ヶ崎くんとは裏腹に、車は安全運転で道を進んでいく。 「・・わたしなんて、ふつうの、つまらない人間ですが」 茅ヶ崎くんみたいに色んな顔を持っている訳じゃない。ただのしがないOLだ。シンデレラにだってなれなければ、それを演じる役者でもない。せいぜい偶然居合わせたエキストラくらいの立ち位置だろう。そもそも、何も暴かれることなんてないというのに。 「それはどうかな?」 じわりとブレーキがかかった車は信号で止まった。相変わらず車内は暗がりだけれど、今度は茅ヶ崎くんがわたしの方へと向いたのでその表情が見えた。目を細めてにやりと笑っている。まるでわたしの知らないわたしを知っているかのような、見透かしたような目。 「手始めに、今日は駅までじゃなくて家まで送らせてくれる?」 「・・お手柔らかにお願いします」 いつから茅ヶ崎くんの車はかぼちゃの馬車に変えられてしまったのだろう。ぽつぽつと徐々に現れてきた、行く道を照らすやわらかなオレンジの街灯が、変にロマンチックに見えるから、彼から目をそらした。 車は再び動き出す。わたしの自宅まであと5分もない距離。この胸に沸くざわめきをいったいどう隠そうか。 |