来る週末。平日よりも早めに目が覚めてしまい、溜めていた家事をいそいそとやっても持て余した時間は、身だしなみにかけることにした。32ミリのコテで毛先を巻いてゆるめのローポニーテール。洋服は逡巡して、今日はロングトレンチスカートにあわせることにした。少し寂しい耳には、お花がモチーフになっているイヤリング。ストラップがリボンになっているパンプスを履いても、まだ余った時間に笑ってしまった。家にいてもどうしようもないので、少し寄り道でもして時間をつぶそうと早めに外に出た。
天鷲絨駅は相変わらず活気づいていて、あちこちでストリートACTならぬ即興劇が披露されており拍手が飛び交っている。三角のガーランドが電線のように街灯と街灯を結ぶそれに切り取られるように広がる空は澄み渡っていて、絶好の演劇日よりといったところか。

「あっ!さんかく〜!!」
「スミ〜〜〜!ちょっ!待って〜!!」

横切る風に、振り向くと走る黒猫一匹と、ハットを抑えながら走る青年がいた。声は二人分聞こえたのだけど、空耳だったかな?と思いながらビロードウェイをふわふわした足取りで歩いた。





MANKAI劇場は本日も満席御礼で、早めに来たつもりだったけれどわたしが着いた頃にはもう席は随分と埋まっていた。しっかり予習をしてきたわたしは、ハンカチとティッシュを膝の上に置いておく。冬組旗揚げ公演である『天使を憐れむ歌。』は泣ける公演であると評判なのであった。もう大人なので、映画を見て感情移入をして泣くこともそうそうないのだけど、念のため。そんな心の準備を十二分に終えた頃に開演アナウンスが流れる。前回の『ロミオとジュリアス』公演とは違ったドキドキ感は、間違いなく期待だった。ブザーの音で背筋がぴんとなって、幕は上がる。
天使のミカエルは天界からいつも人間界を見下ろし、一人の女性を見ている。 親友のラファエルはミカエルが人間の女性に恋をしていることを知り忠告をするがミカエルは聞く耳を持たなかった。しかし、その女性の死期が近いことを知ったミカエルは彼女を救おうと奮起し、その身を挺した。叶わない天使と人間のラブストーリーだった。『ロミオとジュリアス』とは違った胸がぎゅっと締め付けられるような、それでいて美しい終末を残し幕は降りた。沸きだす拍手に、わたしも紛れる。用意したハンカチとティッシュは年甲斐もなく大活躍だった。



「あ、お前」

未だ尾をひいた鼻を啜りながら、キャストによるお見送りが行われているロビーに足を踏み入れると、高遠さんと目があった。この間のことを覚えていてくれたのか、わたしに向かって声を発する。無視するのも失礼だろう、と控えめにお辞儀をする。

「すっごく、素敵でした」

本当は、沢山の言葉が胸に閊えているけれど、それをここで言葉にするにはあまりに長すぎる。極めて短い言葉だけど、出来る限り心を込めていれば、そっと高遠さんは目を伏せるようにわたしを見た。

「当たり前だろう」

高遠さんは気持ち口角を上げてそう言った。自信満々なその姿が、板の上でスポットライトを当てられていなくてもとても眩しくて、瞬きをしてしまう。
わたしにはこんな風に自信を持てることがあるだろうか。思いつく限りは、無くて、だからこそ眩しいのだと、気づいた。

「苗字さん!来てくださっていたんですね!」
「監督さん!」

そのままロビーを過ぎて劇場の出入り口に差し掛かったところでぱたぱたと背後から監督さんがやってきた。忙しいのにわざわざわたしにお客さんを割って顔を見せに来てくれたらしい。

「言ってくださればチケット用意したのに」

残念そうにそういう彼女は長い髪が少し乱れている。きっと急いでやってきてくれたのだと思うとなんとも胸が擽られて、その髪を一束指で救って形の良い耳にかけてあげる。

「いいんです。今日のわたしはただのMANKAIカンパニーのファンの1人としてきたので」

今回も、すごく面白かったです。そういうと監督さんは一瞬呆けたように口を開けてから、きゅっと唇を結んだ。
自分でチケットをとって演劇を見に来たのは、人生で初めてだった。運の力だけれど、それでも自分自身の力で勝ち取って自分の好きなものを堪能できるのはなんだか格別で、前回以上に演劇そのものを楽しめた気がした。

「・・演劇、本当に好きになってくださったんですね」
「はい!監督さんのおかげです!」

それもこれも、監督さんがチケットをわたしにくれたのがきっかけだ。それが無ければ、この劇場に足を踏み入れることも、こんな浮かれた気分の休日を過ごすことも、無かっただろう。それに、主宰であり監督である彼女を無くして、このMANKAIカンパニーは成り立たない。こんな大人になって、童心に帰ってしまうような胸打つものに出会うなんて思ってもみなかったのだ。ぎゅっと監督さんの手を取って笑うと、瞬間、ほろりと、監督さんの大きなくりくりな目から、大粒の涙がひとつ落ちる。

「か、監督さん・・?!」

一筋軌跡を辿ったそれは、顎のラインに沿って重力に従い消えていった。

「すみません・・嬉しくて」

ぱっと、慣れ慣れしかったかとその手を離せば、監督さんは笑った。頬を撫でるように擦って笑う彼女は雨上がりの虹のようだ。

「苗字さん、最初至さんを連れてきてくださった時は、わたしと同い年くらいなのに随分しっかりした方だなあって思っていて」
「・・そんな」
「でも、公演に来てくださった時はわたしがはじめて演劇に触れた時みたいな、子供みたいにキラキラ笑うから、それが本当に嬉しかったんです」
「監督さん・・」
「・・まるで、昔のわたしを見ているみたいで」

また、そんな姿を見れて良かった。と監督さんはまた涙を浮かべながらはにかむ。
寮で監督さんが話してくれたように。きっとこの劇場や寮をあたたかい場所にするまでの間、いや、わたしの知らない彼女の歴史には沢山の葛藤があったのだろう。その谷間を、わたしを通して思い出したのかもしれない。ぼやりと、先ほどの公演も相俟ってわたしまで泣きそうになってしまう。彼女の笑顔の裏にあるやわらかな部分に触れた気がした。

「誰・・コイツを泣かせたの・・!アンタ?」
「ひい!いや、あの」

そんなわたしの浮かべた涙は、恐怖ですぐさま引っ込んだ。というのも一体何処からやってきたのか、碓氷くんが監督さんの背後から鬼の形相で現れたからである。整った美しい顔立ちを増悪に歪ませた碓氷くんは控えめに言ってめちゃくちゃに怖くて、おまけに謎の紫のオーラすら見える。思わずちいさく跳ねあがるレベルだった。

「何言ったんだ」
「っす、すみません!」
「ま、真澄くん!違うから!」

わたしの慌てた様子なんてお構いなしに、碓氷くんはわたしと監督さんの間に入り込み、後ずさるわたしを追うように距離を詰める。背後に漫画だったらゴゴゴの効果音がつきそうなくらいおぞましいこの光景に、完全に委縮しきったわたしは謝ることしかできない。監督さんは彼の着ているジャケットを引っ張って弁解しようとするも、それじゃあ意味をなさないらしく恐ろしい顔でわたしを責め立てる。

「ふはっ、苗字サン顔やば」
「劇場来たら何故か真澄に恐喝されてる苗字さん見て笑わない奴いるの?」

最中今しがたやってきたのか、摂津くんと茅ヶ崎くんの声が真横から聞こえる。顔だけそっちを向けば腕組をしてくすくす笑いながら傍観する二人に、ほっとする気持ちと苛立ちひとさじずつ。

「たたた、助けてよ!」

美人を泣かせた罪はたしかに重いかもしれないが、これは一体全体誤解だ!二人の背後に隠れ碓氷くんから逃げるべくパンプスを鳴らした。ばればれのかくれんぼのはじまりはじまり。