まるで体そのものが心臓になってしまったんじゃないか、というくらいばくばくと鳴り響く早鐘が近く聞こえる。AM10:00。朝一番、わたしは社長室に通されていた。最上階にあるそこは丸一年以上勤めても入社の時以来一度も立ち入ったことのなく、今足を踏み入れているのは異例の事態だ。何かをやらかしてしまったのか、と一瞬浮かぶも心当たりは全くない。それ以上考える暇はないまま、大きく開いた窓の青空をバックに手を組んだ社長に名前を呼ばれる。

「苗字くんに頼みがあるんだ」
「は・・・はいっ!」

一層大きくなる心臓の軋む音に負けないように返事をする。
何を頼まれるかは未知だが、これは『仕事』だ。社会人であるわたしに社長自らの口で課せられた責務となれば何が何でも全うしなければならない。

「茅ヶ崎くんをどうか社員旅行に参加させてほしい」
「・・・・・・・・・はい?」





「という訳なんですが」

移り変わって昼休みの会議室。早速茅ヶ崎くんを呼びだしたわたしは、ホワイトボードを使って図を描いてまるで本当に会議であるかのようにそれはそれは丁寧に説明をした。
端的に言えば、毎年恒例の社員旅行に茅ヶ崎くんを女性社員のモチベーションや若手のコミュニケーション不足を解消するためにも参加させる旨のお願いだった。茅ヶ崎くんは去年もなんやかんやで社員旅行を回避して、大部分の飲み会の参加ものらりくらりとかわしている。今回の社員旅行もいい返事が頂けていないことが社長の耳にも伝わり、何故か最近仲がいいと噂されているわたしに白羽の矢が立ったという事だ。どれだけ茅ヶ崎くんの存在が本社に影響をもたらしているのか、もっと言えば社長が直々に動く件だったかのツッコミについてはもうお手上げ状態だ。
しかし、これはわたしに課せられた『仕事』だった。社員旅行はあくまで日頃の業務を離れてといった趣旨があっての旅行であるが、『仕事』の一環であるのは間違いない。社長直々に言われれば、わたしだって気は引き締まる。

「・・・・・・ごめんね、俺たしかその日は新公演のための稽古が」
「ちなみに監督さんに確認してオフシーズンであることの裏は既にとってあります」

明らかに嫌そうにわたしから目を反らした茅ヶ崎くんは王子モードの声音をたてるがばっさりと遮る。わたしは先日公演にお邪魔した際に監督さんとは連絡先を交換していたのだ。その時の碓氷くんの顔といえばやはりめちゃくちゃ怖かったけれど今日になって良かったと思っている。

「・・したたかだよね、苗字さん」
「わたしの面子がかかっておりますので」

にこり。茅ヶ崎くんに代わって営業スマイルを浮かべる。対してこれ以上ないくらいひきつった顔をした彼は大きな溜息を零した。

「・・でも、無理強いは出来ないけど。一応社員旅行は任意参加だし」

茅ヶ崎くんの憂いの表情をくみ取り、ホワイトボードの図を消して彼の向かいの席へと座った。ないに等しいかもしれないが一応任意制を採っている社員旅行な訳だし、茅ヶ崎くんだって彼なりの言い分があって参加しないのだろう。意味もなく輪を乱すような人ではないことは知っているつもりだ。わたしだって、彼の意見を尊重せず無体を強いることをしたいわけではない。

「・・同室が嫌なんだよね。好きにゲームの体力消費も難しいし、俺一人になる時間ないと絶対に駄目なタイプだから」

寮の部屋も一人部屋にしてもらっているし、残念ながら俺24時間営業ではないからさ。
そう言った彼はだるそうに頬杖をついた。王子様らしくない姿だけれど、これもこれで茅ヶ崎くんの姿であることを十二分に知ってしまったわたしはたしかに、と思うほかない。
社員旅行は基本的に二人一部屋で泊まることになるのできっと一人きりになる時間は全くないと言って過言ではない。彼は以前『やりにくくなる』と言ったけれどきっと王子モードが仕事スイッチなのだとしたらそれ以外の面を職場の人に見せるのは不本意であり、社員旅行ではそれが難しい。もっと言えばゲームをする茅ヶ崎くんの姿が女性社員にお披露目された暁にはもしかしたらこの高層ビルが傾く可能性だってあるだろう。なにかいい案がないかと、頭を巡らせた。

「あ!じゃあわたしの部屋にくればいいんじゃないかな」
「・・・・・・・・え?」

ひとしきり流れた沈黙に、はっとする。あらぬ誤解を生んだ気がした。
現に茅ヶ崎くんは頬杖を辞めて目をまん丸くしてこちらを見ている。慌てて顔の前で手を振る。

「ち、ちがうちがう!うちの課人数が割り切れないからわたし、一人部屋になる予定なの。だけど毎年恒例で女性社員は大部屋でオールナイト飲み会だから、結局部屋を空けるしその間使ってもいいよって話!」
「あ〜・・・なる〜」

急いで弁解をすると、誤解は無事解けたらしく茅ヶ崎くんは再び脱力して頬杖をついた。社員旅行は1泊2日なので一夜限りとなればその夜は存分にはっちゃける訳だ。仕事から恋愛トークまで幅広く持ち寄ったそれをおつまみにお酒をのんで適当に雑魚寝が去年のパターンだったから、今年もそれになるのは目に見えている。そうじゃなくても一人は寂しいし何処かの部屋にお世話になろうと思っていたので部屋を空けることに変わることはないだろう。

「まあ確かに、いつまでも適当言って断れるわけじゃないよね」

実際問題社長が動き出してしまったのは茅ヶ崎くんに痛手だったらしい。先ほどより更に大きなため息は彼の背中に背負わされている重圧のようだった。

「苗字さんはいいの?俺が部屋にいても」
「?別にいいよ、どうせ空けるつもりだったし」

ふうん。茅ヶ崎くんは考えるのをやめてしまったのか、それとも諦めてしまったのか、ぼんやりとした返事をした。ほとんど一人部屋になるようなものだし、茅ヶ崎くんとしても悪い条件じゃないだろうか、と思っていると、その瞳が上目遣いでわたしを覗く

「では、ふつつか者ですがよろしくお願いします」
「よ、よろしく?」

やけに深々と丁寧に茅ヶ崎くんが頭を下げるので、つられてわたしもお辞儀をする。
昼休みの休憩時間秘密の会議は思ったよりも早々と決着がつき、そのままお昼ごはんを食べることにした。ちなみに茅ヶ崎くんのお昼ごはんは『臣シェフのきまぐれランチ』の日らしく、監督さん自慢のカレーではなく、色とりどりのお弁当箱からフォークで刺したハンバーグを頬張ってこどものように「うまうま」と声を漏らすのであった。