ざああ、とバスの窓を弾く雨粒はどんどんと勢いを増していく。今日は折角の社員旅行日だというのに生憎の天気だった。といっても近場の温泉街に1泊2日、おまけに貸し切りバスでの移動なので特段の不便はないだろう。それに、代わり映えの無い、どんよりとした空とは裏腹に車内は黄色い声が沸いていた。随分と前の席でざわめく中心にいる茅ヶ崎くんを見てわたしはくあ、と欠伸を漏らす。そこだけまるで貴族のお茶会のような華が咲いているのは偏に王子様のおかげだろうか。みんなのアイドルは大変だなあなんて他人事を極めているわたしは、もう一度欠伸が出てしまう。

「名前〜眠そうだね?大丈夫?」
「昨日あんまり眠れなくて・・」
「え、意外に遠足前とか眠れないタイプだった?」
「いえ、昨日帰るの遅くて・・・金曜ってなんだか無理にでも仕事片したくなりませんか?」

それ、仕事病だから。とポッキーを食べながら笑う隣に座った先輩と他愛のない話をする。社員旅行前も相まってなんだかやけにデスクまわりをすっきりさせたくて張り切ってしまった。旅先の到着までは随分と時間があるし、ゆらゆらと揺れるバスはあまりに眠気を誘うけれど隣に先輩がいる手前寝こけるわけにもいかない。あーんと誘われるままポッキーを口に迎え入れてそれに抗う。長い一日の始まり、目の先の誰か風にいうならHPは半分くらいからのスタートだった。





バスは観光名所を数か所巡って、雨足が強くなったこともあり予定より早めに切り上げて宿泊先の立派な旅館に到着した。一人で宿泊するというのに、小上がり和室付きツインベッドの客室はあまりに持て余してしまうほどに広い。おまけにオーシャンビューときた。まあきっとこの部屋に長居することはない上、曇った空じゃロケーションは半減だろうけれど。
畳の片隅に荷物を置いて、その隣に腰を下ろして部屋番号と暗唱キーの番号を茅ヶ崎くんにLIMEした。老舗と有名なこの旅館は、温泉旅館では随分珍しいカードでも金属製でもなく暗証番号が鍵だった。これなら茅ヶ崎くんと直接顔を合わせなくてもこの部屋を明け渡せるという画期的で合理的なシステムなのである。数字の羅列を送ると、なんだか暗号みたいに見える。すぐさま『おk』とだけ帰ってきて簡素なそれに、まるでスパイのやりとりみたいだな、と一人笑ってしまったのはここだけの話。

「名前〜!夕飯、鶴の間だって!行こ!」
「はーい!」





「お、苗字じゃん」
「鈴木先輩」

全体での夕飯をそこそこに、そのまま温泉を堪能し尽くして女湯の暖簾を潜れば、同じく男湯の暖簾から出てきた鈴木先輩とかちあった。わたしと同じく備え付けの浴衣を着替えた先輩のその手にはフルーツ牛乳が握られていて、温泉上りという最高なシチュエーションには甘美すぎるそれに思わずじっと見ていると笑いながらもう一本近くの自販機で買ってわざわざわたしにくれる。喉越しがよく、さわやかな味が火照った体に優しい。

「ありがとうございます・・ん、美味しい!」
「やっぱり温泉上りはこれだよな〜苗字ひとり?」
「はい。長湯しすぎて置いていかれちゃいました」

一応先輩たちと一緒に来たのだけれど、長風呂派のわたしについていけないとみんな先にあがっていってしまったのだ。鈴木先輩も俺も、というのではぐれ者同士、一緒にそれぞれの客室へ行くためのフロアの端にあるエレベーターを待つ。

「なるほど。この後は?」
「大部屋で大先輩たちと女子会です」
「はは、そっか。残念」

チン。と電子音が響いてエレベーターはすぐにやってきた。乗り込みながら、例えばここでなにもないと言えば、鈴木先輩の部屋に招かれたのだろうか。・・それはないかなあと思いながらもらったフルーツ牛乳を思い出した様にちびちびと飲み込んで熱い溜息を隠した。
鈴木先輩はやけに牛乳瓶が似合う。残念と口では言うのに何の未練もいやらしさもなく笑う彼に、心がすうと爽やかな風が流れた。素敵な人だと思う、これは本当だ。

「髪、まだすこし濡れてる」

そんな考え事を一人していると、するり、と鈴木先輩がわたしの髪の毛先を一束撫でるように触れた。ふと、まろい色をした牛乳瓶から目を彼に向けると、自然と目が合って見つめ合う形になる。

「ちゃんと乾かせよ、風邪ひくぞ」
「・・・・は、い」

目を反らせずにいた数秒。また、チン。と鳴り響いた音でゆったりとその手は離れて髪が揺れた。男性客間があるフロアへとドアが開いたその先に鈴木先輩はわたしを残して降りて行く。その背中に消え入るような声でしか返事できなかったのは、驚いたからだと思いたい。すぐにドアは閉まって階下の女性客間フロアにつき、エレベーターを降りたわたしは、瓶に残ったそれを飲み干して火照る首筋を誤魔化した。



「で、実際のとこ茅ヶ崎くんとはどうなの!」
「・・先輩、酔ってますよね?」

瓶を処分した後に、時刻を見ればもう22時を回っていて先輩を待たせすぎるのは良くないと急いで大部屋である宴会会場に足を踏み入れれば勢いよく飛びついてきた先輩達の顔は真っ赤で、極め付けはこの台詞だから、大分盛った様子なのは一瞬で理解できた。
社員旅行といえど、日が落ちれば無礼講よろしくといったところか。増してや女しかいない空間だといつになっても女子校のノリになってしまうのかもしれない。「わたしにだけ教えてよ〜!」とがくがく揺らされるわたしはしっかり頭を冷ませてきて良かったと思う。

「名前浮いた噂、茅ヶ崎くんとの一件以外ないんだもん!」
「苗字まじかわいいよ。仕事頑張りすぎだけど」
「王子は正義」
「でもかわいい名前をどこぞの馬の骨にとられるのは正直惜しい」

わたしを取り囲んでいるのにわたし無しでちぐはぐな噛み合っているのか噛みあっていないのか話を進める先輩方はもう酔いがまわって随分楽しそうな様子。女の酒のつまみはお刺身より恋愛トークというのは従順に社会人として分かっているけどわたしに被弾してくるとは。今日は長い夜になりそうだ、と一人ごちる。


「あ、でも鈴木も苗字かわいいとか言ってなかった?」
「まじ?まあ苗字可愛いもんね〜わかるわ」
「うちらの苗字なのに〜!」
「でも王子だったらな〜・・」
「王子になら任せたわ〜」

ぎくち。鈴木先輩の名前に心がざわつくけれど、話はすぐさま茅ヶ崎くんにそれた。ほっと安心したのは何故だろう。

「そんなんじゃないですし、任せないでくださいよ〜」
「うわ、可愛い!見て!わたしの後輩かわいい!」
「やだ〜お嫁に行かないで!」

謎のノリには頭でどうこう考えるよりも、身を任せる方が楽だ。今日は無礼講なのだからきっと明後日会社に行けばリセットされているだろうと思い、酔った先輩に文字通り体をぴたりとくっつけて甘えるように寄りかかってみる。
結果オーライな様子にふわふわしながら、わたしも未開封だった発泡酒に口をつけていつもより煽った。無性に酔いたい気分だったのは、周りに呑まれたから。きっとそういうことだ。ぱちぱちと舌先を踊る泡を、喉奥に飲みこんでままよと身を任せれば、きっと楽しい夜の始まり。