じわじわと足先から湧き上がるような熱を抱えながら、喧騒を満たす部屋から抜け出す。
すっかり盛り上がった宴会ムードから壁一枚隔てただけだというのに、しんと静まり返った深夜2時を回った旅館の廊下は明かりこそついているものの異空間のように人気がない。酔いを覚ますために少し出てきたというのに、夢うつつのようだな、なんて思いながら履きなれないスリッパで歩を進めた。

「・・・・あれ?」

行く宛がある訳でもない上に、頭がぼやぼやして酔っぱらっていることだし一度自室でゆっくり水でも飲もう。と自室を四ケタの数字でキーを解除して、つけた覚えのない明かりが灯っているのを目にしてから、茅ヶ崎くんがいるはずだということを思い出した。次にゲーセンでの一件を見ていてもしかして暴言を吐きまくってるのでは?とも思ったが部屋は廊下同様に人がいるのか疑わしいくらい静かだった。

「ちがさき、くん?」

おそるおそる、ぺたぺたと鳴るスリッパに気を付けながら部屋に足を踏み入れるとツインで並んだ奥側のベットで仰向けになりながら画面が暗くなったスマホを手に握ったままの茅ヶ崎くんがすうすう寝息を立てていた。電気を消していない上にスマホを持ったまま、茶羽織も着たままの様子を見るに寝落ちしたのだろうか。
ベットの横にしゃがんで、その端正な寝顔を見る。タクシーを一緒に乗った時も寝ている姿を見たけれど、あの時はうす暗い車内だったしこんな明るい場所で王子の寝顔をみるのはレアどころの騒ぎじゃない。と顔を近づけてしまうのは好奇心か、酔っぱらっているからか。
きめ細やかな長い睫毛に、形のよい眉、すっと通った鼻に上品に閉じられた唇。横に流れたセットのされてないさらさらな髪がいっそう相まっていつもよりあどけなくも見える。本当に絵本から出てきた王子様みたいだな。だって毛穴って概念がないし。と触れそうになってからはっとした。寝込みを襲うなんてとんだセクハラ問題だ。

「え〜と・・このまま寝たら風邪ひくよ」
「・・・」
「茅ヶ崎くん〜」
「・・・」
「お〜い・・・?」

それとは別に、このまま掛布団をかけずに寝ては風邪をひく。クーラーはついているものの、限度があるし今日は雨も降っているからきっと冷えるはずだ。今度はまったくの善意で美しい寝姿の彼に声をかけながらひらひら顔の前で手を翳すも誤って毒リンゴをかじってしまったかのように寝ている。効果はなし。仕方がないので、空いている隣のベットから掛布団を拝借しようと立ち上がると、ごそごそシーツの擦れる音が控えめに響いた。

「・・う、わあ!」

のそりと手が伸びてきて、わたしの浴衣の裾を引っ張り、滑った足からスコーンとスリッパは明後日の方向に飛び、わたしの体はよくきいたベットのスプリングによって沈みこんだ。口から出た悲鳴めいたものが一番自分の今の状態を一番よく説明している。
そうして、ふっと影が体にさしてぬくもりに包まれる。驚いて反射的にぎゅっと閉じてしまっていた目をおそるおそるあければ、浴衣の生地がうすら見えた。そうしてすぐ耳元に聞こえる呼吸音で気づいてしまう。抱き締められている。そう頭が理解するより先に、じわりうつるように感じる体温に頬が先に熱くなった

「・・・・・・・・・・いや?え?」

向かい合わせになるように横を向いてスマホを放った手がわたしの腰と背中を回されている。けれど、やっぱり規則正しい寝息が聞こえるのから見て、茅ヶ崎くんは寝ているようだった。どういう状態?寝惚けてるの?と頭だけがぐるぐる回転すればするほどのぼせるように体温が上がっていく。

「ち、茅ヶ崎くん〜起きて、起きてください・・・起きるか離してください」
「・・逃がさない・・・おれの・・・SSR・・・」

びくり、体が震える。こんなのは、だめだ。
彼の肩口に埋まるように抱きすくめられているから、耳に丁度彼の唇から漏れる息も低い声もささやく様に掠める。おまけに少し肌蹴た真白い首筋が眼前に広がってとても目に毒だった。はやくなんとかしなくちゃいけないけれど、完全なる寝言をわたしを抱きしめた上で吐いている現状、これだけ声をかけても起きないのを見て起こすのは至難の業だ。身じろぎをして無理やり抜け出そうものなら浴衣が肌蹴てあられもない姿になるのは目に見えてわかる。ただの寝込みの茅ヶ崎くんを痴女にしかならないだろう。別にもうそれでもいいけど、もし万が一茅ヶ崎くんが起きた時に、こんな真っ赤なわたしを見られても、困る。どんな顔をすればいいか、わからない。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・困った」

とにかく冷静になるんだ。と呪文を唱えるけれど、顔は沸騰したように熱いまま。腰と背中を抱く掌の大きさや健やかな寝息だとか、首筋から香るボディーソープの匂いだとか先ほどは気にならなかったものすべてがうなじのあたりをぞわぞわさせる。これはいけない、よくない、と頭で素数を数え始めるわたしはどれだけ滑降なことか。浮かぶ数字の羅列を潰して中、どくんどくんと、鳴りやまない自分の鼓動の間から、彼の胸の音を拾った。耳を擽るのは規則正しい呼吸音と、雨粒が窓ガラスをはじく音と、鼓動の音だ。一定のリズム音で、ぼやぼやと思い出した様に微睡みが襲ってくる。そういえば今日は朝からずっと眠かったんだった。冷静になるどころか、通り越してここまできてしまった。
すり、と素足がさみしくてすぐ近くにある体温に擦り寄った。温かな腕の中眠れるのなら、どんな素敵な夢をみれるのだろうか。






「・・・ん・・・」

光が差している。すこしの肌寒さに声がでて、重たい瞼をあけると真白いシーツの水平線と、その先の隣のベットに腰掛けてスマホを弄っている王子様が見える。

「おはよう、苗字さん」
「・・・・・おはよう」

寝起きでみる茅ヶ崎くんはあまりに綺麗すぎて太陽光より眩しい。テンプレートのような、車内でよく見る笑顔を向けられて三泊置いて返すのがやっとだ。

「昨晩、部屋空けてくれて本当にありがとう。俺戻るね」
「・・はい・・・・・・・?」

やけにあっさりと、最近増えた軽い口調もなくわたしに有無を言わさない様子で颯爽とそれだけ言うと茅ヶ崎くんは部屋を出て行った。時計を見ればまだ6時を回っていないしきっと廊下は無人だし不自然なことはないだろう。けれど、おかしいのは乱れているのは片側だけのベットであるということだ。そこで二日酔いに侵されたいまだぼやけた頭が起きだす。昨日の一連はどうなったのだ、とあたりを見渡すも、監視カメラがあるわけでもないので真相はわからない。

「・・・・これ、茅ヶ崎くんの、だよね?」

ただひとつわかるのは、わたしがあの後眠気に負けてすやすやと寝てしまったこと。そして何故だか寝ていたわたしに掛布団ではなく男物の茶羽織がかけられている事実と、夢はみなかったことだけだった。






「名前、昨日大丈夫だった?」

身支度をすませ朝食会場に行くと昨日の宴会でべろべろに酔っぱらっていた先輩が話しかけてくる。あんなに酔っても翌朝にはしゃきっとしているのだから社会人スキルがすごい、わたしはなおしきれなかった寝癖を抑えながら返事をする。

「すみません、部屋戻っていつの間にか寝てました」
「いやいや、それならいいんだけどさ〜」

ふらふらなところを誰かにお持ち帰りされちゃったかと心配してたんだよ〜と先輩が冗談で言うのだから、笑えない。意図しないところで逆にお持ち帰りをしてしまったのは、わたしかもしれないからだ。適当に苦笑して朝食のバイキングを食べ始めると、すぐさま話題は変わった。

「くしゅん!」

鼻がむずむずして、くしゃみを一つ零せば昨日湯冷めでもしたんじゃない?と先輩が心配する。たくさんの思い当たる節が頭の中に浮かぶが、どれもこれも朝にはあまりふさわしくないのであたたかいお茶を飲んで流し込んでしまう。
離れた席で、居心地悪そうにしている茅ヶ崎くんがいることは知らずに。