「おはよ名前。昨日は本当にありがとう!」

出社すると昨日仕事を代わりにやってほしいと頼んできた先輩がお礼を言いにきた。わたしといえば、そういえばそんなことあったと言わんばかりに「え、あ…いえお気になさらないでください」と返すので精いっぱいだった。
なんてったって今日はあまり寝付けなかったから、完全に頭が起きていない。大根役者にもほどがある。

「え?大丈夫?もしかして昨日の残業で疲れてる・・?だよね〜本当にごめん!次名前が用事あって困ることあったらわたしがやるから!」
「あ!いや、違うんです。ちょっと、昨日お隣さんが煩くて寝つきが悪くて」
「そうなんだ。困るよね騒音〜わたしも上の階が多分大学生でさ、宅飲みしてる日とか煩くって」
「あ〜それは困りますね」

因みにわたしの隣の家は只今空き部屋である。社会人にはこういうことも必要なんだとぼやけた頭で世間話を先輩としていると、同部署の女の子が色めき立つ。毎朝恒例なので物珍しいものではないけれど今日ばかりはドキマギしてしまうのも仕方がない。

「茅ヶ崎くんおはよう〜」
「おはようございます」

同部署の女性社員が発した挨拶に、完璧な王子様スマイルで返され悪い気がする女の子は全世界探したっていないだろう。
茅ヶ崎至。一流商社である我社の期待の営業マンにして、礼儀正しくセンスよし顔よし性格よしの通称絵本から出てきた王子様。うちの社で茅ヶ崎くんを嫌いなんていう人はまずいないし、いたとしても僻みだと一蹴するほど評判はよく、女の子はこぞって茅ヶ崎くん狙い。同期の間では俺たちの茅ヶ崎とアイドル人気も高く、わたしも仕事が出来るしすっごくイケメンだけどそれを鼻につくような人じゃなく優しい王子様だと思っていた。あくまで昨日までの印象の話だけれど。
もしあれが、わたしの見た幻覚か立ったまま眠りみた夢か、はたまたドッペルゲンガーじゃなく、私生活はものすごく干物男スタイルで王子様の欠片もないのだとしたら、多重人格を疑う。だって今このオフィスで美しい笑みを浮かべながら穏やかな声を発しているのが嘘だとは思えない。と、ぼうっと茅ヶ崎くんを見ていると、昨日のようにぱちりと目があった。わたしはうっと息を詰まらせる。別に悪いことをした訳じゃないのに、わたしは単に残業後にコンビニに寄っただけなのに、物凄く居心地が悪い。そうすれば、にこりとどの女性社員も虜にする笑みを浮かべられた。
微笑まれた先でわたしは、やっぱり昨日のは幻覚か、夢か、はたまたドッペルゲンガーだったんじゃないだろうか、と思うしかできなかった。



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「苗字さん、この後って空いてる?」
「・・・え」

正直、仕事が忙しくてそれどころじゃなく、もうドッペルゲンガーだったということで片づけてしまおうとした頃にそれはやってきた。
王子様が定時後、わたしの部署、わたしのデスクまで態々やってきてお誘いをしに来たのだ。わたしが声を発するより先に、周りにいた女の子のほうがきゃあと悲鳴をあげたきがするが、そんなことを気にすることが出来ない。例えばこれが、昨日の一事件が無ければわたしだって少しは色めいた考えが出来た気がするが、きっとこれはそうじゃあないだろうことは馬鹿でもわかる。色濃いピンクから目を反らしてついさっきまで打っていた文書ファイルの目を向けて上手に言い訳をしようとこくりと意気込みを飲み込む。

「ちょっと仕事溜まっていて、今日も残業なんだ」

でもこれ、本当の事だから!とちょっとの良心を痛めつつ言えば、茅ヶ崎君はぱちりぱちりと長い睫毛で瞬きをした。デスクに広がる書類の束に画面に映る文書ファイルを見れば一目瞭然、すぐすぐ帰れる様子じゃないのは見て取れるだろう。茅ヶ崎くんのお誘いが嫌なわけでも仕事が本当は無くて帰れる状態である訳でもないが、わたしが茅ヶ崎くんの誘いを逃げるのにも理由がある。まだわたしには覚悟が足りないのだ。現場からは以上。そうして茅ヶ崎くんが去るのを待っていると、横のデスクから身を乗り出した先輩がいそいそとわたしのデスクに広がった書類を胸に抱いた。

「あ〜名前、昨日のお礼で早速これわたしがやっとくから!茅ヶ崎くん、どうぞ!」

にこにこと笑う先輩。ぽかんと口を開けた私。一動を見守っていた王子様。この空間だけが切り取られた異空間のように、静寂が走った。いや、待ってくださいそんなの悪いですよとわたしが言う前に先手を切ったのは、ぴかぴかに磨かれたパラブーツの革靴だった。

「じゃあ行こうか」
「・・・・・・・・・ハイ」

かつん、と一歩左足を歩を進めてにこりと微笑む茅ヶ崎くんは、正直月9の男優顔負けであったが、わたしといえば火曜サスペンスの犯人役よろしくな返事しか出来なかった。