「どうぞ」
「し、失礼します」

オフィスを出てエレベーターで地下まで降りて駐車場の茅ヶ崎くんの車までエスコートされて分かったこと。茅ヶ崎くんって物凄く女性に慣れている。ただの同僚のわたしに対しても、エレベーターは態々扉をおさえ先にのせてくれて、操作盤ポジションをしっかり守り、さらには助手席のドアを開けてくれる始末である。車内には雰囲気のいいジャズがBGMにシトラスの芳香剤の匂いがする。『そう』いう意図ではないとは百も承知だけれど、ここまえされて、加えて手慣れたようにハンドル捌きをみてどきどきしない女がいるだろうか。二重、いや三重の意味で心臓が悲鳴をあげていて冷汗がとまらない。

「今日は敬語だけど、どうして?」
「えっ・・いや、ええと、緊張して・・?」
「緊張なんて今更でしょ、同期会で何度も飲んでるのに」

 確かに部署は違えど、もう入社して丸一年は過ぎているので同期会を始め会社全体の飲み会でも茅ヶ崎くんと会話する機会は幾度となくあった。特別対人関係を拗らせている訳ではないので、その時は普通にお話しした気がするが、一対一で車みたいな密閉空間は初めてだ。
はたして茅ヶ崎くんは自分が会社において、寧ろ、世間体的にどんなポジションにおかれているのか知っているんだろうか。どきどきしすぎて一周回って腹が立ってくる。

「苗字さんって嫌いなものある?」
「ううん、特には」
「じゃあイタリアンでいいかな?」
「大丈夫だよ」

うちの劇団の奴から教えてもらったお店なんだけど。わたしの気持ちとは裏腹にすんなりと右折をして車は繁華街から抜けていく。
そういえば茅ヶ崎くんは数か月前から劇団に所属していたんだった。詳しくは蚊帳の外だったわたしは知らないけれど女子社員のチケットの争奪戦は中々すごいものであった噂だけは知っている。それ抜きでも課長が大絶賛する出来であった話もきいたなあなんて思いがら、茅ヶ崎くんを見た。昨日の姿からは欠片も離れた姿。ハニーブラウンの髪は無造作に近い形でセットされていて、ピシリとアイロンのされた皺ひとつないワイシャツ、着崩しのない趣味のいいベージュスーツ、それに陶器のような肌、はめこまれた様なピンクサファイアを縁取る長い睫毛。どこをとってもきれいで、神様が端正こめて作った、本当に王子様みたいだ。そう他愛のない話をしたまま、茅ヶ崎くんを横目で観察していると、地下の駐車場についていた。
そのまま、エンジンが切られた車から降りようとすると、茅ヶ崎くんがまるでドアマンのようにドアを開けてくれる。そのまま活気ついた、だけれど学生なんかはちっともいない落ち着いた様子の店内に案内される。
さしずめ茅ヶ崎くんが王字なら今日のわたしはシンデレラだろうか。生憎、解ける魔法も、落とすような靴もないのだけど。




「あの茅ヶ崎くん」
「うん?どうかした?」
「・・・用件は」
「・・・あはは、やっぱり気づいてたんだね」

メニューを開き料理をそこそこに頼んで、店員さんが去ってすぐ口火を切ったのはわたしだ。小さなテーブルを挟み内装のシャンデリアにキラキラ照らされた茅ヶ崎くんはあまりに目の毒だった。これ以上彼のペースに巻き込まれようものなら、わたしだってちょっとは夢をみてしまう。明日健やかに仕事をするためにも、さっさと話を片し目を覚まして電車で帰らなくちゃいけない。
けれど、茅ヶ崎くんは笑顔を崩さなかった。いつもは綺麗だと思う微笑みが、何を考えているのかわからなくて、今はすこし怖い。

「昨日の、」
「・・・」
「飲み会サボったこと黙っててほしいんだ」
「そっち!?」

思わず大きな声をだしてしまってから、はっとして口を手で追った。まわりを見渡すが他のお客さんと席が離れているかわたしたちを気にする者はいないが、そろそろと視線を前に戻せばきょとんとした顔を茅ヶ崎くん。

「『そっち』って?」
「え、いや、その、普段の茅ヶ崎くんとは違う姿だったような〜みたいな、そういう、あれを内緒にしてほしいって言われるかと」
「ああ俺が干物ゲームオタクだってこと?」
「、そ!そこまで言ってない!」

ただちょっとなんかいつもと違ったと思っただけだから!と慌てふためきながら弁解を続けるわたしをすこしおかしそうに見ながらふわりと口元に左手を持っていく茅ヶ崎くん。考えるような仕草をしてから、わたしの止まらない弁解をストップするように彼が口を開いた。

「バレたら少しやりにくくなるから出来れば黙っててほしいけどね」

冷汗がだらだらのわたしと比べて茅ヶ崎くんは飄々としてそう言いのける。やりにくくなるってなんだ、と混乱した頭では追い付かないけれど、ぱっとそもそもわたしがそう言いふらしたところで信じてもらえないのがオチなのではないだろうか?なんて思いが浮かぶ。たしかに、茅ヶ崎くんのデメリットはない。口止めなんて最初から必要じゃないのだ。じゃあわたし、なんでここにいるんだろう。

「でも苗字さんってそういうの言いふらすタイプでもないでしょ」

ただ同期会サボったのは苗字さん変なところおっちょこちょいだからうっかり言っちゃいそうだから。と茅ヶ崎くんは水の入ったグラスを揺らした。
カランカランと氷がグラスにぶつかる音にかき消されるようにくすくすと茅ヶ崎くんが笑う。ああ、これはずるいな。耳裏が熱くなるのを感じて、誤魔化すように水を飲むと、丁度よく店員さんが料理を運んできた。赤のテーブルクロスの上に広がる渡り蟹とアスパラのアラビアータ、ホタテとエビのアヒージョにカプレーゼ、牛肉のタリアータそれに赤ワイン。茅ヶ崎くんが料理をさも当然のようにわけようとしたのでそこくらいはわたしにやらせてくれないと女が廃ると皿を先取する。

「正直本気でドッペルゲンガーかなって思ってた」
「苗字さんって不思議ちゃん?」
「いやいや、だってあれが茅ヶ崎くんなんて思わないよ」
「まあ気づいてないかもな〜ってその可能性も考えたから今まで黙ってたんだけどね」

いただきますをしながら、先ほどと比べて断然軽くなった会話をする。緊張感が解けた空気と美味しそうな料理を目の前にしたら肩の荷はすっかり降りてしまった。赤ワインを一口。酸味が薄く、甘い微炭酸が仕事の疲れを解していく。

「でも、もしもわたしが言い出さなかったらこれは何のお食事会になる予定だったの?」

調子に乗って、先ほど考えたそれを軽はずみにきいてしまった。全体の飲み会もまちまちの出席で、女の子と二人では決して飲みにいったりしないと噂の王子様との会合。名前をつけるとしたら?

「それは苗字さん残業おつかれお食事会かな」

あんまり引き受けすぎもよくないよと茅ヶ崎くんはわたしの持っていたグラスに控えめにかちんと乾杯をした。ああ、あまりにも絵になる。

「・・・あのスカジャンは正直どうかと思ったよ」

それを塗り替えるように、わたしが悪態をついた。田舎のヤンキーみたいな、イエローカラーのスカジャンに虎の刺繍。ちょっとださすぎると思う。

「ふはっ、結構言うよね苗字さんって」

そうすれば、まるで噴き出すように茅ヶ崎くんが笑った。グラスを置いて、困ったように丸めた手を口に持っていく。それはいつもの女性社員を虜にしてしまう王子様スマイルでも、先ほどの怖いと思った端正な微笑みでもない。その時の茅ヶ崎くんは、わたしと同い年の、男の子の笑い方をした。
魔法が解けたのは、わたしじゃないのかもしれない。