「苗字さんこの間はありがとう。そして大変ご迷惑をおかけしました」 お昼すぎの給湯室で、眠気対策のコーヒーを落としていると二枚の封筒を持った王子様が現れた。かっちり第一ボタンまで締めて髪をふんわりセットした、柔らかな微笑みを浮かべるのはよく見る社内のアイドル茅ヶ崎くん。 「これタクシー代」 「いいよ。わたしも帰り道だったし」 「それじゃあ俺の気が済まないよ、介抱までさせたのに」 「この間美味しいご飯奢ってもらったしイーブンです」 「・・・苗字さんならそういうと思った」 頑なに拒んで、腕をばってんにして手を差し出さないと茅ヶ崎くんは肩をすくめた。この間のご飯代を出させてくれなかったのを少しだけ根に持っているわたしのささやかな抵抗だ。女として可愛くないのは百も承知だけど、恋人でもないただの同僚なのだからこれが当然。 「じゃあこれ」 「だから受け取れないよ」 「俺からじゃなくて、監督さんから」 「・・・え?」 もう一つの真白い封筒は赤の封蝋で上品に止められている。茅ヶ崎くんからそれを手渡されると、まるで舞踏会の招待状のようだ。 開けてもいい?と確認をして封を解くと中には細長い紙が一枚。 「MANKAIカンパニー春組旗揚げ再公演・・?」 チケットには大きく『ロミオとジュリアス』の題字。白地に赤の文字でシンプルに飾られてるそれの出演には『ティボルト役 茅ヶ崎至』が印刷されていた。 「俺が所属してる春組の旗揚げ公演が今度再演するんだけど、そのチケット。是非観に来てくださいって」 「・・わたしあんまり観劇とか知識無いけど大丈夫かな?」 「それを言うなら俺もLv.3くらいだわ」 大丈夫大丈夫。席に座って目を開けてるだけで大丈夫だから。と茅ヶ崎くんがいうのでそんなものなんだろうかとどきどきする。 「苗字さんにはカッコ悪いところばかり見せてるから、少しでも挽回出来るように頑張るね」 そういって、ひらりと手を振った茅ヶ崎くんは踵を返して給湯室を後にした。チケットを持ったまま、ぽたりぽたりとカップの淵すれすれまで入れてしまったブラックコーヒーを横目見る。なんとなく今日はこれじゃあ飲み干せる気がしないので、砂糖を入れると、それは溢れてしまった。 ― 柄にもなく、今日は何を着て行こうかなんて迷ってしまった。控えめな花柄のレトロロングワンピースに身を包んで、髪はハーフアップ。ピンクの石のイヤリングを付ける。お出かけ先は二駅の距離なのでいつもよりも高めのヒールでも大丈夫だろう。いざ、と差し入れの入った紙袋を持って日曜の賑わいた電車へと乗り込んだ。 「今日チケットとれてよかったね〜」 「本当最近MANKAIカンパニー人気過ぎて困る!嬉しいけど〜」 開演の10分前に劇場に入ると、席は随分と埋まっていて比較的女性が多い中そんな声が聞こえた。専用劇場で満員のようだしこんな声が挙がるくらいなのだからMANKAIカンパニーは人気急上昇中劇団なのだろうか。まわりの様子を伺いつつそわそわしながら席について待っていると、会場内に開演のアナウンスが流れる。茅ヶ崎くんの声だ。 携帯電話の使用は終演までマナーモードにすること。撮影が禁止であること。非常口の案内のアナウンスなのにきゃあと黄色い声が沸いている。ここでも案の定人気者の彼から、チケットを貰ったなんて、ただの普通の会社員のわたしなんかが、なんとも不思議な話だと思う。 「ではでは、ティボルト役の茅ヶ崎至でした。・・楽しんで行ってね」 そうして余韻が残ったまま辺りは暗転していく。ブザーが鳴り響いて、幕が上がった。 『ロミオとジュリアス』は『ロミオとジュリエット』と同じ恋愛劇ではなく、友情劇だった。恋敵である身分を知らない二人が同時に失恋したことをきっかけに打ち解けていく。しかし両家は長きに渡り街で抗争を続けている相手であることをパーティーで知ってしまい一度は一緒に旅に出るという夢を諦めようとするが互いの手を再度取る。しかし、決戦の日はやってきてしまい、もみ合いの末、ロミオは投獄され死刑を言い渡された。ジュリアスはロミオを助けるために神父を訪ね仮死の薬の情報を得てその薬を探しにいく。いよいよロミオの死刑執行日にジュリアスがロミオに斬り掛るふりをして薬を明け渡し、民衆にはロミオは死んだと見せて棺から抜き出したロミオとジュリアスは一緒に旅に出る、ハッピーエンドだった。 捲る捲るように物語は展開していき、溜息ひとつ吐く暇もないくらいあっという間に幕は下りていた。地鳴りのような拍手が会場に響く。わたしも、自分でも知らない間に一心に拍手をしていた。もう一度幕が開いてのカーテンコール。スポットライトの先で誇らしげに笑うティボルト役の『茅ヶ崎至』は、今まで見たどんな茅ヶ崎くんよりもずっとずっと、綺麗で、キラキラ輝いていた。 ― 「苗字さん、来てくださってありがとうございます!」 終演のアナウンスがされて、ぞくぞくと会場から人が出ていく中でもなんだか、圧倒されてしまって動けなかったわたしに声をかけてくれたのは監督さんだった。にっこりの太陽みたいな笑顔に、この人もさっきの素敵な劇の作り手なんだと思う。 「良かったら楽屋に来て頂けませんか?至さんも待っていると思うので」 「…え、いいんですか?」 「勿論!」 そうして裏道を通って楽屋へと監督さんの案内によって通される。まだキャストはロビーでお見送りをしているようで、無人だった。 「あの、この度はお誘い頂きありがとうございました。これ良ければ皆さんで召し上がってください」 「あー!もうお礼なのに。こんなに頂いてしまってすみません・・!」 持ってきた御茶菓子を監督さんにおずおずと渡すけれど、全然こんな御茶菓子じゃ足りないくらいの物を貰ってしまった。おまけにあの夜茅ヶ崎くんを送ったタクシー代があったとしても、全然、到底足りないくらいの。だってまだ胸がどくどくと打っているのだ。 「わたし観劇をしたことが殆ど無くて、でも本当にすごくわくわくして、すっごく魅入りました。今日は本当に来てよかったです。素敵なものを、頂いて、なんかもうなんて言えばいいのか・・・」 こんな気持ちになったのはいつぶりだろう。初めてお母さんから絵本を読んでもらったとき?遊園地で一日中はしゃいで遊んだとき?そんな、冒険に出て、わくわくしてどきどきの未知の体験をした時のような、感覚。心の中がぱっと色とりどりの鮮やかな色に塗られるようだった。 思いついたままの拙い言葉を連ねることしか出来なかったけれど、監督さんは一瞬驚いた顔をした後に、ふっと笑った。ああ、わかってくれたと思うような笑顔だった。 「おつ〜・・って、あ、苗字さん、監督さんに捕まっていたのか」 そうして、興奮したままのわたしの背中からやってきたのは、スポットライトの下で太陽をさんさんと浴びた、ティボルトの格好をした茅ヶ崎くんだった。お見送りを終えたのか、劇場はずっと静かだったけど、耳には先ほどの拍手喝さいが鮮明に覚えている。 「茅ヶ崎くん」 「・・うん?」 監督さんの方から茅ヶ崎くんの方へと向きかえって、その目をみた。満開に咲いたピンク色。 「すっごくカッコよかったよ!」 あのスカジャンはダサいと思ったけれど、茅ヶ崎くん自身がカッコ悪いと思った事はなかった。でも今日の茅ヶ崎くんはすっごくカッコよかったから。称賛の意味を込めてそう告げると、茅ヶ崎君はなぜか無表情を貫いた後、「・・・でしょ、知ってる」と言って、スタスタ自分の鏡代の前に行ってしまった。そうして掌に広げたタオルにぼふんと顔を埋めていた。舞台の上は熱いから、汗でもかいたんだろうか。 「イタル、しっぽりしてるネー!」 「それを言うなら『ちゃっかり』な!」 「至さんカッコよかったですもんね!」 「はあ・・・監督・・・早く褒めてほしい・・」 くすくす笑う監督さんと、楽屋の前でダンゴのように並ぶ彼らには気づいたのはそんな声が聞こえてきた後だった。 |