明日へ続く昨日の話

シン、と空気が震えた。
里津花さんがドアを開けて出てくる音がやけに大きく聞こえて、どうぞとやんわりと微笑まれた時の私はどんな顔をしていただろうか。手招きを受けて、うまくできない呼吸をどうにか落ち着かせるように、深呼吸をして。恐る恐る「翼さん」と呼びかれば、どうして来たのと、小さい呟きが聞こえた。

「俺、今絶対情けない顔してるから」

その後に言葉は続かなかった。けれど、その先があるならきっと「会いたくなかった」か「見られたくなかった」かだと思う。それを言わないあたり、この人は優しいのだ。布団を被るようにそっぽを向いている翼さんにゆっくりと近づけば、ごそりと観念したように起き上がる。

「起き上がらなくても、」

はな、と一言。そのまま、続けようとしていた私の言葉を途切れさせるにはそれで十分だった。少しだけ目の周りが赤い気がするのは、きっと泣いたから。…熱のせい、もあるかもしれないけど。それでも電話口で聞いた、あの無理やり元気を絞り出したような声色よりはずっとマシになっていたことに安心する。翼さんの持っている自信には、裏付けされたその分の努力があると思っているし、きっとそれを知らない人は少なくともSolidSの中にはいないだろう。外ではかっこつける人だから、その顔を知らない人は沢山いるとは思う。確かに、人一倍器用な部分はあるけれど、才能だけで成り立っているほど翼さんは簡単に構成されていない。高い壁も、くじけずに上っていける才能とそれに見合う努力をしていて、自分に対する「評価」を理解している人。だから、翼さんのここまで落ち込んだ姿を見る日が来るなんて思ってなかった。

「…大丈夫。明日には絶対いつも通りだから、はなもそんな顔しなくて大丈夫だって」

へらっと笑う様子は、いつもの翼さんと比べるとやっぱりどこか違っていて。強い人だと思っていた。否、それは確かに間違ってはいなくて、奥井翼という人はいつだって誰かの前にいて、先へと人を引っ張っていく力のある人だから。だから、今にも泣きだしそうなその顔が苦しくて仕方がない。「大丈夫」だと私を遠ざけようとするのは力になれないからか。きっと泣いたのは里津花さんの前。翼さんを迎えに行ったのは大さんだと聞いた。翼さんの呼び出しに同行したのは志季さんだ。――だから、私は。結局何一つできていないのだ。ただただ、居てもたってもいられなくなって、走り出して。たかだか学生の身分で、同じユニットメンバーでも、アイドルでもない私には、結局何ができるのか。そんなことも考えずただただ、走り出して。でも、それでも。だからこそ。傍にいたいと思ったのだ。それだけだ。

「はな?ほんとに大丈夫だからさ、ほら!な?」

心配をかけられない、弱みを見せられない、のはきっと優しさで。だからこそそれが一番悔しかったりもする。私にできることなんてないと、言われてるような気がしてくるから。なんて、そんなことを考えている自分が一番嫌になるんだけど。頼られたいとか、頼ってほしいとか、こんな時でも私の思考は自分本位なのだ。一目様子を見れればそれでよかったはずなのに、私だって何かしたいと思ってしまった。自分にできることなんて少ないと思いながら、何かしたいだとか、そんなの馬鹿みたいだ。

「…ね、はな。俺さぁ、もう今日すっごいみんなの前でかっこ悪くてダサいとこばっか見せてんの」
「え?」

ぽつりと、翼さんが唐突に話し出したそれは全くの予想外で。「かっこ悪い」とは何のことかと首を傾げる。

「だからお願い。はなの前でくらい、かっこいいままでいさせてよ」

おいでと手招きされて、握られた手は少しだけ震えていた。それがかっこ悪いなんて思わないけど。かっこつけたがりで、天邪鬼で、案外人に気を遣う人だから、今の状態を人に見せていること自体が、翼さんにとっては「かっこ悪い」になるのかもしれない。

「…別に、カッコ悪いなんて思ってないですよ」

翼さんの気持ちが全部わかるわけじゃないけど、やるせなさとか、悔しいとか、辛いとか、そういう感情を持つのは当たり前で、それを見せて貰えないことがむしろ悔しいくらいなのに。

「…というかむしろ、翼さんの言う“かっこ悪い姿”は全部私だけに見せてくれてもいいくらいですし」

安心して甘やかしてあげますから、みんなの前ではそういう姿を見せたらいいじゃないですかと、我ながら可愛げのない言葉だと思う。かっこ悪いなんて思ってない、弱い部分を見せてくれない方が悲しい。私が好きなのは翼さんであって、ファンの子達が望んでいるようなSolidSのかっこいい翼くんじゃないんだから。

「…なにそれ」
「大さん達に甘えておいて私は駄目なんて狡くないですか」
「はなちゃん横暴…」

ああ、もうやだ、カッコ悪いと笑うから、「かっこ悪くないですよ」と先ほどから何度としれないほど伝えた言葉をもう一度口に出そうとしたけれど。

「かっこ悪い翼さんも好きですよ」

わざと悪態を吐いて、手を握る。大丈夫。翼さんはいつだって強い人だから。いつだって先に先に走って行くんだから、こんな時くらいみんなの隣で手を引かれてたっていいじゃないですか。これが初めてならなおさら、壁は一人で登らなきゃいけないものだなんて翼さん本人も思ってはいないだろうけど。

「はな、」

肩貸して、と少しだけ震えた声が聞こえる。返事をする前に抱き込まれたのは、最後のあがきなんだろう。押し殺したような嗚咽が聞こえてきて、震えている身体にそっと抱き付いた。今日だけは聞こえないふりをしてあげますから、だから。早くいつもみたいに笑ってくださいねと、背中に回した腕にそっと力を入れた。