そしていつか消える夢、
その日の鬼呪の訓練にグレンくんは現れなかった。何か理由があるんだろう、そんなことは分かっていたけれどみんなは口々に軽口を言っていた。これもまた、いつも通りの平穏だと思えば大切な、大切な時間だと思う。
「や、隣いい?」
訓練の合間、ぼんやりと座って空を見上げていたら深夜くんがへらりとそこにいた。こちらもまたいつも通りの笑い方になんだか安心しながら「どうぞ」とほんの少しだけ右にずれる。別に場所を移動する必要はないのだけど、なんとなく。
「さっきから美十ちゃんいないじゃない。どこに行ったか知ってる?」
深夜くんの質問は唐突だった。美十さんがいない、どこに行ったのか。質問の内容は簡単だったけれどその意図は掴めなかった。否、美十さんがこの場からいなくなったことは気が付いていたし、あの美十さんが訓練を抜け出すなんて珍しいとは思っていたけれど。個々に事情がある。そこまで事情に踏み込むわけにもいかないし、美十さんには美十さんのするべきことがあったのだろうと、内心自己完結していたからさほど気にしてはいなかったのだけど。
「…グレンのところに行ったみたいだよ」
「グレンくんの?」
そう問い直せば返ってきたのは曖昧な笑い方で。肯定されているのは分かる。確かに深夜くん自身が「グレンのところに行った」と言ったのだから。
「いいよね〜グレンばっかり。流石グレン。人の婚約者と寝るだけある」
やっぱりへらりと笑うその姿に傷ついた様な気配は見えないけれど、逆に私の心臓がドクリと音を立てた。何かに強くつかまれているような感覚。苦しいのかと言われればそうかもしれない。けれど、そんなこと今更なのだ。そもそもの立場が違っていた。私如きが今こうやって、ここで、深夜くんと、”柊深夜様”と話していることすら奇跡だというのに。もう一度会えたなら死んでしまってもいいと思っていた。そのはずなのに。未だにこうやって話している。こんなこと過去の私に話したら信じてもくれないだろう。あの、”深夜様”をまた“深夜くん”と呼んでいるなんて。昔の私が聞いたら卒倒しそうだ。私は恵まれている。どうやっても手に入ることのない幸せを、幸運を今この手にしているのに。それなのに、どうしてこうも、私は欲張りなのだろうか。ざわりと鬼が笑う。《私を受け入れれば、欲しいものは手に入るのに》。違うんだよ、私が望んでいるのはそういうことじゃないの。
「青春だよね。こんな時に、いやこんな時だから?青春しよう!なんて言い出すの五士くらいかと思ってたけどさ。結構僕らも感化されてるのかもね」
上手く返事が出来ない私に、深夜くんは笑って空を見上げる。それに釣られるように下がりかけていた視線を再び上に戻せば青い空が広がっていて。あと10日と少しで世界が終わってしまうなんて想像もできないくらいに普段通りの空で。
「ねぇ、はな。僕も今のうちにその青春とやらをしたくなったから言うんだけど」
ふと手を握られる。驚いて深夜くんの方に顔を向ければそこにはいつも通りの笑みがあって。蒼い目が私を見つめる。気を抜いたら多分吸い込まれてしまうんだろう。全身をなぞるような、擽るような視線になんだか恥ずかしくなってきて、思わず逸らしてしまえば深夜くんはそれを嫌うようで。
「今だけでいいから、逃げないでよ」
まるで、もう二度と使われないお願いごとの様に縋るように紡がれた声にゆっくりと視線を戻す。
「好きだよ」
言葉は端的だった。意味そのものは簡単だ。好きの意味を辞書で引いたとしても「好意をもっていること」みたいな、きっとそのままの答えが出てくるんだろう。けれど、それは誰に向けられたものなのかが分からなかった。深夜くんの視線は私を向いている。けれど、見ているのは、私じゃないかもしれない。もし私を見ていたとしても、これは鬼が見せている幻覚で私はそれに惑わされて鬼に身体を乗っ取られようとしているのかもしれない。
「僕は、はなが好きだよ」
もう一度、そうはっきりと告げられた。やけに耳に焼き付く。好きという言葉が脳内で反芻して回ってそのまま全身を巡っていく。意味は理解していても状況を理解することを私の身体が拒絶する。泣きたいくらいなのに、夢でもいいからその言葉を聞けたなら死んでもいいと思っていたのに。
「知ってる?僕は今までいろんなものをはなに押し付けてきたってこと」
「え?」
私が何も答えなかったせいだろうか。話題が唐突に変化した。相変わらず深夜くんはへらりとしていて、変わらない。
「僕の知っているままのはなでいて欲しかったから、与える情報も規制していたし”守らせてよ”なんて言ったりもした。馬鹿みたいでしょ。守ろうなんて全く考えたこともないんだよ」
へらりとしている。それは変わらないけれど、声の調子がほんの少しいつもと違う。何となく、苦しそうだと思った。
「後悔したよ。罪悪感で潰されそうだった。知らないでしょ、久々に会った多分初恋なんだろうな〜って思ってた女の子が、びっくりそこら辺の男よりも強くなってたり避けられたり、敬語使われたりするの。思ってたより結構きついんだぜ?」
手を握っている力がほんの少し強くなった。相変わらず痛くはないけれど。いつもそうだ。今までだって何度か手を握られたりしたことはあるけれど。まるで壊れやすいものを包むかのように握られる。私なんかの手を。いつもそうやって握るのだ。
「だから押し付けた。ぜ〜んぶ僕のため。悪い男でしょ。殴ってもいいよ」
やっぱり、笑う。声だけは苦しそうなのに、表情からはそんなこと読み取らせてはくれないくらいに。
「でも、変わらなかった。変わってなかったんだよ、はなは」
深夜くんの温度が手のひらから身体全体に広がっていく。抱きしめられたのだと気が付いたのは5秒ほど経った後だった。
「泣き虫で、優しくて臆病なまま。転んで、泣きそうな顔してるのに僕が大丈夫?って声かけたら笑う女の子のまま」
抱きしめる力は例によって痛くなんかないのに、苦しいと思った。でも、その苦しさが今はなんだか心地がいい。
「あ〜もう、泣くなよ〜」
深夜くんに言われて初めて泣いていることに気が付いた。指先で拭われて視線が合えば、やぱりそこにはいつも通り笑っている深夜くんがいて。そういえば、ずっと昔。こうやって涙を拭いてもらったことがあった気がする。その時の笑顔とはほんの少しずれているけれど。けれど、確かにいつも深夜くんは笑って拭いてくれていた。
「返事は貰わなくてもいいんだけどさ。もし、はながそれを持ってるなら聞かせてくれない?」
イェスでもノーでもいいからさ。と深夜くんが言う。私は答えてしまってもいいのだろうか。私なんかが答えてしまってもいいのだろうか。答えを口にする権利が私にあるのだろうか。それに、それを口にしてしまったら、きっと私は後には戻れなくなる。
「どうせクリスマスには世界がドーンってなって終わっちゃうみたいだし?これくらいの権利貰ってもいいと思わない?こっちは命かけるっていうのに報酬に見合わなさすぎだろ」
「終わらせないために戦うんだよ」
「あはは、まぁそうなんだけどさ。報酬上乗せのボーナスは貰っとかなきゃ」
どうして、私の考えていることが深夜くんは分かってしまうんだろう。答えを出すことを躊躇っている理由も何もかも。あぁ、でも、その通りだ。終わってしまうかもしれない。死んでしまうかもしれない。私は何があっても、深夜くんがそこにいるならついて行くつもりでいるけれど。ああ、もうだったら言ってしまってもいいのかな。私なんかが、寄せていた好意を、ぶつけてしまっても許されるのかな。人生最後の我儘くらい許されるのかな。
「…ごめんなさい」
「…」
深夜くんの顔は見られなかった。けれど、俯いた先の手のひらがほんの少し震えていた。
「好きだなんて、思っていて、ごめんなさい」
深夜くんの指先が揺れた。その揺れた先は私の頬をなぞってそのまま持ち上げる。今日何度目か交差した視線は、今までの中で、否もしかすると生まれてきてからこれまでの中で、一番深夜くんの顔が見えたような気がする。
「うん。好きだって思っていてくれて、ありがとう」
世界が終わる、クリスマスまであと14日。
一度目の人生が終わるまであと14日。
この日の記憶が消えるまで――あと、