日向のひと

彼は間違いなく「主人公」だった。いつの頃からだったかはもう覚えていない。でも、確かに「主人公」といえる存在に成り代わる境目はあったのだ。彼には才能があったから。みんなの、周りの人間の期待に応えられるだけの才能が。役者を超えた道化師。他人を楽しませることに関する天才だった。一方私はといえば、道端の隅っこに咲く雑草。主人公には程遠い村人D。否、そもそも彼と同じ舞台になんて立ってはいないのかもしれない。かといって、裏方の様に人を支えることも出来ず──そう、有象無象にありふれる観客の中の1人と言った方が表現としては正しいかもしれない。

「おや、お元気ですか?日向の人」

しかし彼は決まって私をそう呼んだ。日向の人。陽の当たる場所に立っている人だと、日陰のその中でも隅の方にいる私に、最早太陽だと表現しても良い程の彼が私をそう呼ぶのだ。

「……どうして、貴方は私のことをそんな風に呼ぶんですか?」

純粋な疑問だった。彼と私は一応幼馴染みという関係ではあるけれど、申し訳ないくらいの存在価値の差があるのだ。主人公だった彼は今は夢ノ咲学園アイドル科、実質頂点ともいえるfineに所属するアイドルで私は周りに流されるように、設立されたばかりのプロデュース科に配属された何の力もない生徒。月とスッポンとはいうけれど、スッポンという高級食材に例えることすらおこがましい存在なのだ。強いていうなら枯れかけの雑草。何とかこの世に生をうけてはいるけれど、他の養分を吸いとるだけで周りに害しか与えられない迷惑な存在。そんな私を日向だと言うのだから彼は、おかしな人だと思う。

「ふむ。そんなにこの呼び方が気に入りませんか。ぴったりだとは思いません?」

「思いません」

「それ程までに強く肯定されるといっそ清々しいですねぇ!」

くつくつと笑う彼はやはり綺麗だ。何をしても似合う人だと思う。それはもう恐ろしい程に、何をしても似合うのだ。何をしても違和感がないのだ。

「名前の中には何もありませんよ。薔薇と私達が呼ぶものは、たとえ別の名前で呼ばれてもやはり甘く香るでしょう?」

まるで、舞台のワンシーンを演じるように恭しく彼は言葉を紡ぐ。つまりは、好きなように呼びますよということなのだろうけれど。彼の言っていることの全ての意図を捉えられているのかは、謎だけれど。少なくともその内のひとつの意味はそういう事なのだと思う。

「英雄シーザーも、狂人ディオニスも、紡ぐ人の数だけ変わりますからね。不滅ではない。同じものを読んでいても全く異なるのだから、名前とは案外中身が無い」

にこりと、笑うその目の奥に何が映っているのかは読めなかった。彼は天才だ。天才であるからこそ、"役"に徹する。真っ当な道化師であるからこそ、シナリオを壊すような事はしないのだといつだったか話してくれたことがある。その時の彼は少なくとも"日々樹渉"という人間であったように思えたけれど。でも、私はそれでもこの天才に憧れるのだと思う。日向に出ていく勇気はないから、日陰で右往左往としているくらいなら、彼のように例え道化になってでも陽のあたる場所に──1度くらいは立ってみたいと、そうどうやっても願ってしまうらしい。

「ですが、日本には古来より言霊信仰なんてものもあるくらいですから」

慰める、ましてや他人にアドバイスをするのは苦手なんですけどね、と一言前置きをしてストンと私の前に膝を折った。あまりにも洗練された動きに一瞬思考が止まる。素直に綺麗だと思う。

「いいですか、日向の人」

これは魔法ですよ。そう言うと私の右手をそっと掬って手の甲に口付けを落とす。まるで中世の騎士が誓うように、いつの日か絵本の中で見た王子様にも似ているかもしれない。困惑するよりも先にぼんやりとそんなことを思うくらいにはあまりにも他人事のように、ドラマのワンシーンのような、そんな景色を見ているような錯覚すら覚えた。

「貴方は日向の、陽だまりの人ですよ。この私が誓いましょう……!高らかに!貴方に向けて愛を叫びましょう……!」

身体が宙に浮いた。彼のいつもの魔法のような手品ではなく、彼に抱き上げられて浮いたのだけど。バタバタと足を動かしたのもつかの間、間近に見えた顔にひゅっと息が漏れる。私が固まってしまったことを良いことに、笑いながら彼は回った。クルクルと、ワルツを踊っているようなステップだけれど、きっとそうではないのだろう。

「花を咲かせましょう!大丈夫、貴方は昔からそういう人ですから」

ああ、怖い。怖いんだよ、日向に出るのは。あなたと同じ場所に立つのは。……渉くん、怖いんだよ。それでも、そんなあなたの中にほんの少しでも残っているのだと思ってもいいのだろうか。望んでもいいのだろうか。日陰の寒い隅っこなんかではなくて、暖かい太陽の下に私も出たいと望んでもいいのだろうか。天才ではない。まして、凡人以下の私が。

「──はな」

名前を呼んだ。彼が、渉くんが、私の名前を呼んだ。その瞬間彼が私にかけた魔法はきっと完成したのだと思う。ぽかぽかとした、ふわふわとした感覚が全身を包む。むずむずとして、柔らかい。

「あの、………わ、…渉くん」

この名前を呼んだのはいつぶりだろうか。ずっと、呼ぶことを避けていた気がする。昔は沢山、呼んでいたような気がするのだけど。ねぇ、あのね、渉くんは名前は意味がないと言ったけれど、私はそうではないと思ったの。そうでなければ、今こんなにも心に充満した気持ちの理由を何だと言えばいいのだろう。

「ありがとう」

そう言った私は笑えていただろうか。そんなことは分からないけれど。私なんかでは伝えきれなかっただろうけど。一瞬、きょとんとした彼の顔が見えた。すぐにその表情は変わったのだけど。でも、一瞬だけ渉くんの"顔"が見えた気がした。

「やはり、私はそちらの方が好きですよ。日向の人」

優しい、優しい声に私の世界をこじ開ける音がした。