Reversible:

いつかはこの日が来るだろうとは思っていた。思ってはいたけれど。ふと背中から包み込まれた熱と、やんわりと手の甲に触れる指先に今にも逃げ出したい気持ちになったのは嘘じゃない。

「あの!」
「ん?」

至近距離でかかる吐息に思わずビクリとする。後ろから可笑しそうに笑いをこらえる声が聞こえてきたけれど、今は聞かなかったことにしておこう。反抗したいわけではない、望んでいないわけでもない、でも、ただただ今すぐここから逃げ出してしまいたい気持ちだけはある。スリっ、と翼さんの顔が首元に寄せられるから、掠めていった髪の毛が擽ったい。

「はな?」

逃げないなら本当にするよ、そう言った声はいつもよりほんの少しだけ低い気がして背中の方がざわりとした。今なら逃げてもいいということだろう、変なところこの人は優しいから。多分きっと私が今立って走って逃げたなら「じゃあ、今日はやめよっか」とへらりとするはずだ。そもそも逃がす気がないなら今ごろ力づくで押し倒されている。私だってできることなら逃げ出してしまいたい。──それはただ、羞恥心からくるものだけど。あぁ、面と向かいあっていなくてよかった。今きっと凄い顔をしてる気がするから。

「…答えらんないくらい、嫌ってわけじゃなさそう…だよな」

手の甲をなぞっていたはずの指先が唇に触れる。驚いて逃げようとすれば、タイムオーバーと言わんばかりに引き寄せられた。

「はーい、残念でした。大人しく観念しろよ」

引き寄せられた身体が熱い、唇にやけに優しく触れる指先がどこか心地よくて恥ずかしくて。クイ、と翼さんの方に顔を向けられた時、私は一体どんな顔をしていたのだろうか。一瞬驚いたように目を丸くした翼さんが随分と嬉しそうに笑う。わざとらしく音を立てて一回、唇が触れる。好きな人と一緒にいるのだから、キスをするのは普通なのだと思って生きてきたし、これまでだってそれくらいなら何度もしてきた。はずなのに。ただ、一瞬触れただけのその行為がどうしようもなくいやらしく感じて、ぶわりと熱が広がるのが分かる。一回、二回、もう一度、オマケにもう一回。私がどんな顔をしているのか分かっているのだろう、面白がるようにただただ触れるだけの行為を繰り返す。

「あ、あの」
「足りない?贅沢」

そんなわけではない。むしろ、爆発しそうな程に精一杯なのに。やめて欲しいとは言えなかった、やめては欲しくなかったから。慣れているはずのそれに、ひたすら恥ずかしさを感じて目を合わせられない。ただそれだけだ。それだけなのだ。

「……っ、」

唇の形を確かめるように啄まれる。隙を見てはこちらを覗く目に少しだけ、ぞくりとした。相変わらず両足の間に固定されているのだから逃げ場はない。それにお覆い被さるように口を塞がれているのだから、そもそも動くこともままならないわけだけれど。

「緊張してる?…かわい〜」

口の端が笑う。自覚してはいたけれど、改めてそう言われてしまうと恥ずかしさを通り越して泣きたくなってくる。頭の中がぐちゃぐちゃとしていて、何が何だか分からなくなっているんだから仕方ないでしょうと言い返したいのに、それを言ってしまえば翼さんの思うツボのような気がして。開こうとした口を再び強く結んだ。

「あ、くっそ!開けとけって!ちゃんとキスできないだろ」
「ん!」
「無理矢理こじ開けんぞ!」

ちょっとした反抗心。ペースに巻き込まれてたまるかと、さっきよりも唇に力をいれて締める。睨み合いとも言わない暫くの攻防のあと、大きなため息をつくのがわかった。…呆れられたかと、一瞬思ったりもしたけれど。意地の張り合いなんてものはいつものことで、返ってきたのは「覚悟しろよ」という宣告。ちゅうっと頬にキスをされる。覚悟しろ、なんていうものだから宣言通り無理矢理でも開かされるのかと思っていたから少しだけ驚いた。けれど、それは言葉通り「覚悟しろ」には違いなかったのだと徐々に知る。

「……っう、う、」

ただ、指と指が重なっているだけ。もちろん唇にキスすることもなく、頬に首元にやんわりと触れているだけ。それでも、指の間を擽る私よりもずっと大きい指先に、たまにふっとかかる息に、今までなんかよりずっといけないことをしているみたいで。

「シャツで助かった〜…」

耳元で軽く笑い声が聞こえる。脱がせやすいしね、と鼻歌交じりにボタンに手をかけるのが見えれば、意地やら何やら全てが飛んで思わず制止をかけていた。

「かかった」

食べられるかと思った。感覚的にはこれがぴったりだと思う。抗議をしようと振り向いた瞬間、にっこりと笑った翼さんと目が合った時には直感でやばいと思った。やばい、なんて普段はあまり使わないけれど、こういう感覚をきっと「やばい」というのだと言うのだろう。分からないけど。そもそもそんなことを一瞬考えてしまった間にぱくりと口を塞がれていたのだからもう遅い。これくらいのキスを、したことがないわけじゃない。ただ今とは随分状況が違うけれど。毎回の如く、翼さんがやけに慣れていることに腹を立てながら練習の仕様がない行為にやきもきしていたわけだし。やけにしつこいくせに優しくて、やっぱりそれは嫌いじゃなくて。

「おお〜!いい顔するじゃん」

結構ムラムラしてくる、べっ、っと糸を引くように唇が離れて行って一言目。今ならひっぱたけるかとも思った。残念ながら、抵抗できるほどの力は残っていなかったけど。

「相変わらず慣れてるのがむかつくんですよね」
「嫉妬?」
「不公平じゃないですか!」
「慣れてない方が俺が教えられるって感じがして燃える」

聞かなかったことにしよう。──と、思ったことが顔に出ていたのか、ぶーぶーと非難したげに翼さんが私の鼻先を摘む。やめて欲しい。

「………ところで寒いんですけど」
「はなちゃんが何にも言わなかったからさぁ」

いいのかと思って。人の許可もなく服を脱がせないでほしい、なんて思ったりもするけれど、よくよく考えればそういう状況なわけで。翼さんの行ったことは至極当然のことなのかもしれない。けれど気がつけば脱がされてた、なんていう手際の良さと慣れきった感じにはやはりむかつく。「これからあったまるんだからいいでしょ?」良くはない。例え翼さんが慣れていようが、私が慣れていまいが"翼さんだけが私に触れる"状況が癪だ。流されるのは嫌だ。これが、好きな人同士が繋がる行為であるのなら、私だって触れたい。

「翼さん、」

なに?と機嫌良さそうに笑うから、無理矢理振り向いて唇を寄せる。これからどうしたらいいんだっけ。勉強不足なことには変わりない。…こんなことなら、もう少し学んでおくべきだった。

「つ、翼さんは!……ど、どうしたら1番良いですか」
「お、おぉ…」
「翼さん?あの、何か」

背中辺りに違和感を感じる。どうしたものかと少し動いてみれば僅かに、くぐもった声がかかる。

「あーー!そりゃ勃つもんは勃つよ!!男だもん!!」

瞬間、抱えあげられたかと思うとすぐに身体はベッドの上に押さえつけられる。跨ったままおもむろにシャツを脱ぎ出すものだから驚いた。流石に男の人の裸だなとぺたりと触れれば触れた手ごとシーツの上に縫い付けられる。

「…覚悟しろよ」

発しようと思った言葉まるごと翼さんに食べられれば、いつ仕返ししてやろうかと、とりあえずは目を閉じてみた。