0と1の間で
安室さん、と呼びかけた時の零くんの顔はきっと一生忘れないんだろう。少しだけ迷ったように目を開いたのは一瞬で、にこやかに「"透"と、いつもは呼んでいるのにどうしたんですか」と僅かに動揺が覗ていた表情はもうどこにもなくて。その日初めて私は"安室透"とあなたが名乗っていることを知ったのだ。すれ違い際に「ごめん」と囁いた零くんは、振り向いた時にはすでに、人混みの中に紛れてしまっていた。
次に連絡が来たのはそれから1週間ほどあとだ。表情だけは苛立ちげに、部屋の中に招き入れられれば「別れてほしい」と告げられたのはきっと聞き間違いじゃないんだろう。どうしてと問い出すのは簡単なはずなのに、追求を許さない零くんの表情に視線を逸らさないことがただただ精一杯で。やっと絞り出したかと思えば、掠れた空気となって部屋の中に消えてしまった。
「…得体の知れない男なんて嫌だろ」
オレンジ色の空が少しずつ、真っ黒に染まっていく時間。薄暗い部屋の中で視線だけはしっかりと交わしたまま、その言葉を聞くまでに流れた時間はどれくらいだっただろう。
「困ったな。…ほんとは、はなを傷つける言葉を使って嫌われる予定だったのに」
いつまでも視線を逸らさないから、バツが悪そうに笑った零くんの、招き入れられた時から感じていた張り詰めた空気はいつの間にか和らいでいた。零くんは元から秘密が多い人だったから、私が知らない「何か」をたくさん持っていることは薄々気がついていたけれど。
「・・・零くんは、零くんでいいんだよね」
「驚いた。この期に及んで、真っ先に出てくる質問がそれか」
参ったな、と頭を掻く様子に少しだけ安心する。零くんは私なんかよりずっと頭がいい人だ。嘘だってその分上手いんだろう。"秘密"は多くても、"何か"を気が付かせるようなことは今までなかったのも、頭脳ゆえなんだろう。だから、だからこそ。その"何か"を私が察してしまった。その為に私を突き放そうとしたのなら、わざわざ傷付けるなんて選択肢をとらずに、消えてしまえばいい。零くんくらいの人なら、私から一生逃げて会わずに生きることも出来たはずなのに。この人は、それをしなかった。
「・・・この先ずっと、話せないと思う」
少し特殊な職に就いているんだ、それは誇りでもあるんだけど。ずっと不安にさせるだろうし、もしかすると何かに巻き込んでしまうかもしれない。ポツリと話し始めた零くんの話を決して聞き逃しはしないように、必死に耳を傾ける。
「でも、何かあったら零くんが守ってくれるんでしょう?」
不安にならなかったとは言わない。今だって、きっと分かったと口から出た言葉とは裏腹に頭では理解なんて出来てないんだろう。所詮私の頭で理解出来ることなんて少ないのだ。それでもこの人を、零くんを信じることくらいは私にだってできるから。
「…強い女性だな。君は」
もちろん守ってみせるさ、はなも。困ったように笑った零くんが、少しだけ泣きそうに見えたのはきっと、沈んでいく太陽が揺らいでいたせいだろう。