まだ、解けぬ糸の先

その昔、今では国民的アイドルユニットに所属していたその人は、生き生きと屍のようにパソコンの前に座っていた。いつからだろう、この人の作業部屋に時折遊びに──監視をしに来るようになったのは。コーヒーのいい香りがいつも充満しているその部屋で、寝る間も惜しんで作曲に勤しむその様子は生ける屍だ。今回は一体何徹目なのか。一度もこちらを振り向きはしないその様子を眺め続けて一時間近くは経っている。

「志季、」

そろそろ休まないと死ぬんじゃない?冗談めかせた脅し文句は果たして本人に届いているのかどうか。曲を作るために、あの世界を捨てて裏方に回ったくせに。熱意だけが空回りして「篁志季」の世界を、最大限を駆使した曲を提供できたことがあったのか。昔、あの時のたった一度なんじゃないかな。自分で歌った、あの時だけ。「提供できない」わけじゃない。作りたいのだろう、本当は。けれどそれは、社会が許さない。志季の曲を受けるアーティストが「志季の曲」を最大限表現できる力を持ち合わせていないだけ。だから、志季は合わせて諦めるしかない。
だから、から回っているのだ。ずっと。

「来てたのか」

やっと一息をついたらしい志季が、疲れきった目をしかめながらこちらを向いたかと思えばこれだ。この人はいくら私がここに通おうと、気がついちゃいない。良くも悪くも一直線で不器用な人なのだ。もっと、志季が器用だったら、うまく生きられる人だったのなら、もう少し今は違っていたのかもしれないけど。けれど私は、好きなものにから回っても、苦しんでも、例え自分が思ったとおりに行かなくても。から回ることをやめられない彼のことをどうしても嫌いにはなれないのだ。

「連絡すらくれないんだから」
「…………仕事が終わったら、連絡しようと思っていた」
「その仕事がいつまで経っても終わりそうにないから私がこうやって来てるんでしょ」

すでに空になっているらしいコーヒーカップに「コーヒーでも飲む?」と気を利かせてみれば「はなの淹れるコーヒーは不味い」と拒否の言葉をいただいた。人が使った気を無駄にしないでほしい。インスタントで悪かったわねと悪態をつけば、俺が教えてやると言ってるだろうと的外れな返事が返ってくるのもいつもの事だ。本人は至って真面目にそう言っているのだから仕方がない。デリカシーがないのは今に始まったことではないし。

「あんまりそういうこと言うと嫌われるからね」

普通は。普通なら、こんな男願い下げだ。顔だけがいい、馬鹿みたいに不器用な男。特に話が上手いわけでもないし、気が使えるわけでもない。なんなら私が来たことにすら気が付かないような人。それでもこの人のことを嫌いになれないのは、惚れた弱みか、結局私は不器用で真っ直ぐな志季のことが好きでたまらないんだろう。そうでもないと、わざわざこんな端っこの方にある志季の作業部屋まで来たりしない。黙々と、パソコンに向かっては曲を作り出すその様子を眺めているのが好きなのだ。

「…それは困る」
「なにが?」

はなに嫌われるのは、困る。じっと、目を見つめながら言われたセリフに暫く理解が追いつかなかった。

「こう見えて俺は甲斐性はあるし、あとは、そうだな、いわゆるイケメンだ」

どどんと、効果音でもつきそうな迫力で真剣に吐き出された言葉に余計に困惑した。甲斐性はともかくイケメンだとは何だ。確かに裏方に引っ込んだとはいえ元々業界人、その上アイドルだ。それはそんじょそこらの人間と比べれば十分すぎるほど顔が整っていることは知っている。

「あとは、お前虫が苦手だろう。俺は得意だぞ。クワガタ採集だろうが、黒い虫の排除だってできる」

どうだ、と言わんばかりの顔に私はなんと返せばよかったのか。大の大人に向かってクワガタ採集、小学生かと言いたいところだけど、この人の場合それが冗談なのか本気なのか少々判断のつきにくいところがある。真面目な顔をして言うのだから尚更だ。ぎしっと、回転式の椅子を軋ませながら視線を合わせるように目を見られれば、それはそれでいたたまれなくて。

「もしかして口説いてる?」
「そうだな。…下手か。それならお前宛てに曲でも書こうか」
「やめて」

私宛に書かれた曲なんて聞くに耐えない。やけにこの人が曲の中では饒舌なことを知っているから。愛してるだの、なんだのと普段は言葉にすら出さないくせに。きっと曲に書けばぺらぺらと並べられるんだろう。それを知っているから──何よりも、志季は私のこと大好きでしょう。

「曲に書かなくても志季が私のことをどれだけ好きかなんて、」

知ってるから、と茶化し半分で伝えれば返事の代わりにじいっと再び見つめられる視線に中々慣れやしない。

「そうだな。惚れているな、心底」
「……そういう、」

それが狡い。真面目で一直線で、不器用で、口下手のくせに。あっさりと、好意を口に出すことを惜しまない。だから、そのお陰で志季に愛されているのだという自覚が持てるのだけど。私も随分と奇特な人間だから、その向けられる好意の機微に敏感なのは珍しい方であるのは理解している。けれど、それはいつも唐突で、例えばクリスマスとか誕生日とか、記念日とか。そういう日に伝えてくれればいいのに(そもそも志季は記念日なんてものほとんど覚えてはいないけど)。そういう「特別な日」には何も言わないくせに、なんでもないただの平日の夜だとか、今に限ってはまだ夕方くらいだろう。なんて色気のない。

「おい、はな。聞いてるか、おい、」

人が真剣に口説こうとしてるんだぞと、自身の狡さを知ってか知らずか。今視線を合わせてしまったら、なにかに負けるような気がするから、絶対に目を合わせてやるかと少し上の方から降ってくるその声から逃げるように耳を塞いで見せた。
──これはまだ、志季が彼らと出会う前。「SolidS」が誕生するよりもう少し前の話だ。