春先開花宣言
「ごらんのとおり、夜という仮面が私の顔をかくしているのです。さもなければ、今夜あんなことをあなたに立ち聞きされてしまったのですから、処女の恥じらいが私のほおを真赤に染めているはずですわ」
いつか昔に聞いた台詞。私はその時の役はその他大勢でしかなくて、でも初めて一言だけ台詞を貰えた大切な舞台だった。その一言を何度もなんども繰り返し練習して、決して誰に褒められることも無かったけれど。でも、確かに、あの日あの時、照りつけるライトの下であの壮大な舞台の登場人物の1人として私は生きていた。──ロミオとジュリエット。ずっと昔からなんども何度も多くの役者たちが演じてきたであろう舞台で、私はその中に生きる人間として、生を持てた。いつか、ジュリエットになれるようにと、ジュリエットの台詞まで覚えたりして。マンガのように、物語のように、ヒロインが急に休んだ代役に台詞を全部覚えていた私が出られるかもしれないからと。そんなことは妄想でしかなり得ないと分かっていたけれど。
「ああ…ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」
気がつけば、泣きながら台詞を吐き出していた。震えた足で立ち上がって、身体中燻ったままの熱を吐き出すように、記憶の中にこびりついた台詞をなぞる。ここには何も無いけれど、今この瞬間、この時間だけは私はジュリエットだ。悲劇のジュリエット。忌むべきモンタギューに恋をした哀れなジュリエット。
「私の敵はあなたの名前。モンタギューでなくても、あなたはあなた。モンタギューって何? 手でもない、足でもない。腕でも顔でも、人のどんな部分でもない。ああ、何か別の名前にして!」
出会ってその日に恋をして、あぁ、こんな世の中でなければ。私がキャピレットでなければ、あなたがモンタギューでなければ。あなたのためならキャピレットの名前を捨てましょう。あなたと一緒になれるのなら、あなたのそばにいられるのなら、私は何だって出来るから。そんな勇気は私になかった。私がジュリエットになんて、なれるはずが無かった。私は何も捨てられない。中途半端で、小さな存在。仮死毒を飲んで、ロミオと共になろうとする勇気も、死んでしまったあなたを追いかける勇気も、それどころかそんなジュリエットを演じるための役者になる勇気すら私は持てない。自己嫌悪で気が狂いそうだ。
「名前がなんだというの?バラと呼ばれるあの花は、ほかの名前で呼ぼうとも、甘い香りは変わらない!」
泣きながら、思いの丈を吐き出すように、演じる。ザワザワと周りが寄ってくるのが分かる。「ストリートACTか?」「どこの劇団だ」あぁ、あぁ、誰かが私を見ていてくれる。生きている心地がした。ヒュウっと口笛を吹く音がする。
「だから、ロミオだって、ロミオと呼ばなくても、あの完璧なすばらしさを失いはしない。ロミオ、その名を捨てて。そんな名前はあなたじゃない。名前を捨てて私をとって」
私は今生きている。溺れて息ができないような感覚すらしていたのに、呼吸ができる。泣いて、瞼は腫れて、きっと酷い顔をしているだろうけど。けれど、それでもさっきよりもずっと晴れやかな気分だ。私の居場所はここにある、そんな気がする。そんな予感がする。
「お言葉通りに頂戴いたしましょう。ただ一言、僕を恋人と呼んでください。さすれば新しく生まれ変わったも同然、今日からはもう、ロミオではなくなります」
その時、続かないはずのセリフが聴こえた。少し向こうから歩いてくる人物に目を疑う。茅ヶ崎さんだ。視線が交差して、時間が止まったような感覚がした。風貌だけなら、人の目を引く人だ。ロミオ役だと言われても茅ヶ崎さんは違和感ないだろう。春組の舞台ではティボルトだったけれど。ゆっくりと近づいてくるその仕草に、どうしてここに茅ヶ崎さんがいるのか、とかそういう疑問が湧いてきてもいいはずなのに、ひたすら目を奪われた。
「ジュリエット、僕の手を取ってください。せめて今宵の逢瀬は2人きりで」
"ロミオとジュリエット"には存在しない台詞。流れる手つきで手を引かれて、そのまま連れ去られる。公園から遠ざかるにつれて後ろの方から拍手が聞こえてきた。奇跡のような一時に、半分放心しながら茅ヶ崎さんに身を任せる。夢見心地とはきっと、こういう気分のことを言うんだろう。
「で、佐藤はあんな所で何してたの」
「へ、」
「へ、じゃないよ。…人が集まってたから何事かと思ってみてみたら、中心に佐藤がいたからさ。終わりそうにないから、助けてみたんだけど」
あのまま1人でどうするつもりだったの、と問われると「どうするつもりもなかった」としか答えられないわけで。何しろ私は、気がついたらあの場所で台詞を叫んでいたのだ。やろうと思っていたわけでもなく、ただ記憶の中にあるそれを掘り返して。ただ、ひたすら、私は。
「は、マジで?何も考えてなかったの」
「……はい」
「やべぇ」
ありのままの事実を茅ヶ崎さんに伝えれば、目を丸くされてしまった。当たり前といえば当たり前なのだけど。
「ところで茅ヶ崎さんはどうしてここに…」
「ん?俺は買い物。…っていうか買出しかな」
そう言われると、どっと申し訳なさが押し寄せてくる。そういえば茅ヶ崎さんは出ていないとはいえ公演が終わったばかりで、私に構ってる暇なんてなかっただろうに。
「すみません…」
「別にいいよ。台詞の続き調べてどこから乱入するかがちょっと手間だったくらいだし」
「本当にすみません!!」
今度から軽率な行動は控えよう。ムシャクシャしていたとはいえ、流石にこの演劇の聖地でなければただの不審者だったのだ。いつの間にかすっきりとしていたから忘れかけていたけれど、始める前の私は悶々としていて、泣いていたわけで。若干ヤケも入っていたのかもしれないけど。もういい大人なのだから、頭が痛くなってくる。
「でも、まぁ、随分楽しそうな顔してたから」
「は、」
「それ以上に酷い顔してるんだけど」
「そ、そこには触れないでいただけると嬉しいです…」
駅くらいまでなら送ってあげるよ、と歩き出した茅ヶ崎さんを慌てて追いかける。大丈夫ですよ、と呼びかければ「女の子だからね」と返されて。これだから、顔の良い男はと内心毒づく。
「何考えてんのか知らないけど、やりたいんならやれば?」
ふと横から、声が聞こえてきて。茅ヶ崎さんの方を向けてみたけれど、その横顔はいつもと全く変わらなくて。
「……やるかどうかは私の勝手ですよ」
「はは、生意気」
私よりもずっと、私の心を見透かした様な言葉に素直に慣れなくて悪態を付いたけれど。なんとなく、背中を押されたような気がしたことを茅ヶ崎さんには絶対に秘密にしておこう。