口無しの花
「はなが触れるくらいで枯れる花が悪いんだよ」
椿がくつくつと笑いながら、その花に手を伸ばす。あっさりと茎から切断されたその花をヒラヒラと指先で揺らせば、耐えられないとでも言うように花びらは舞った。私が触れようが触れまいが、その儚い生命は今日までだったのだと、その弱さを憐れむ。けれど、それは綺麗なままで。綺麗な花のままで。真っ黒に枯れずに、花の形を保ったまま、愛でられながら散っていたのだから幾分か幸せだろう。椿がその花を愛でたのかどうかはしらないけれど。名前はなんて言うのだろう、朽ちる様が恐ろしくて、知識として学んだことがないから。映し出されたものなら枯れないのだと、分かってはいるけれど。絵は絵でしかなく、写真は写真でしかない。それらを枯らせるなんて到底不可能だ。それでも、そんなことずっと昔に解っていたとしても、理解と恐怖は全く別の感情なのだ。人が「いない」と理解している幽霊などの類に恐怖するように、私もまた「枯れない」と分かっているそれに恐怖する。最も、霊魂の類の存在の有無は実際には分からないけれど。
「壊れるものを愛して、朽ちるものを憐れんで、それなのにはなは見向きもされない、あぁ、酷いね、本当に酷い。あまりにも可哀想だよ。与えるだけ与えて、返ってこないじゃないか。望んでも、返ってこないじゃない。ねぇ、どうしてそんなに一人ぼっちなのかなぁ?」
「化け物」だと誰かが言った。遠い、遠い昔のことでもう覚えてはいないけれど。触れた瞬間朽ちていく花に何度も絶望した。今日こそはと期待して、その期待諸共呆気なく散っていく。黒く、ボロボロに、まるで初めから何も無かったように。殴られても、蹴られても、切りつけられても、刺されても。痛くない、死なない。そんな人間がいたなら化け物だ。否、そんなものは最早「人間」なんかじゃないんだろう。だから私は化け物なんだろう。
「化け物は嫌い?」
「兄さん達のことは嫌いかな」
はなのことは嫌いじゃない。暇を持て余すようにカランコロンと下駄を鳴らす。どんな音よりもそれが1番心地よくて好きだ。椿が奏でるその音が好きだ。けれど、"椿"は枯れるのだろうか。私が触れれば、消えてしまうのだろうか。そんなはずはない。そんなわけが無い。そんな理屈があるはずが無い。そんなことは分かっている。それでも時折、恐怖が理解を凌駕する。枯れたらどうしよう、消えたらどうしよう、壊れてしまったらどうしよう。意味もない問を反芻し続けても、その通り「意味がない」ことなのに。
「椿は、」
枯れないよね?私の馬鹿らしい問に驚いたのか、ぎょっとしたような瞳と視線が合わさった。けれど、それはすぐに笑い声へと変わって、つんざく悲鳴の様な笑い声が脳内に響く。その音は、煩いと思うけれど、嫌いじゃない。「それを君が僕に訊ねるの?」「忘れた君が?」「何もかもなかった様に消した君が?」「それを僕に訪ねるの?」堰を切ったように、言葉が流れ出す。私を責めている様にも聞こえるそれらに、どうしてか「そうではない」と理性が告げる。さもおかしいというように、ひとしきり笑って、笑って。決まって椿は──面白くない、という。
「だったら、思い出してよ。はなはあの時もそう訊ねたんだ、そんな無意味で馬鹿らしい問を!僕に!訊ねたんだ!可笑しいよね?可笑しいと思うでしょ!どうして僕だけが覚えてるの?どうしてはなは忘れたりなんかしたの!ホラホラ、僕を知る唯一に戻ってよ。あぁ、"唯一"なんて嫌なもの思い出しちゃったじゃないか…」
癇癪を起こした子どものように喚く姿が、泣きそうだと思った。どうしたらいいのかなんて、分からないけれど。痛みのない身体に、唯一心臓がぎゅうっと締め付けられるような苦しさが走るから。きっと、「痛い」というのは「痛み」というのはこういうことを言うのだろうと、いつも思う。だから、少しでもその気持ちが私に移ればいいと、伝わればいいと、ほんの少しだけ背伸びをして恐る恐る頬に触れてみる。手のひらに伝わってくるのは温度だけで、ボロボロと崩れ去ってはいかなかった。「当たり前」の事実にほっと胸を撫で下ろす。
「良かった…」
「………あぁ、もう。そうやって、いつも」
「枯れない椿」が笑う。この世界で、こんな小さな世界で唯一枯れない花が笑う。
「心配しないで。はなが忘れても僕が全部覚えてる。なんてこの世は、不公平で不平等で理不尽なんだろう」
だから、安心して忘れたままでいるといい。遠い記憶の底で、狐がコンと鳴く。泣いていた狐は誰だっけ。いつの間にか空を覆っていたらしい雲から雨が降ってきた。冷たいだけの、雨だと思う。「帰ろうか、」そう言った椿は確かに笑っていたはずなのに、どうしてだか胸がズキリと傷んだ気がした。