リアリティの破棄

そこには大体、白紙のページに頭を悩ませ、ひたすらに原稿に向かうだけの作家と数分ごとにゆったりとしたペースで本を捲る音だけがある。静寂と言うには騒がしいが、他人がそこに踏み込めば息の詰まるような空間であるそこでは、たまに外から聞こえてくるカラスの声も、車が通り過ぎる音も、風が窓を叩く音も──それらは日常の一部であり、その静けさを助長するだけの要素にしかなり得なかった。

「幻太郎、」

黙々と文字だけを必死に追っていたはながふと、思い出したように名前を呼ぶ。さほど小難しくはない、児童書の類の本にそっと栞を挟んだかと思えば、ゴソゴソとセーラー服のポケットを漁り出す。幼げな所謂ツインテールに黒いセーラー服。どこの制服であるかは定かではないが、少なくとも彼女はその服に身を包むに相応しい年齢を戸籍の上では過ぎている。過ぎたとはいえども、世の中でいう留年と呼ばれる延長を受けていれば十分袖を通すには許される年齢ではあること、また彼女の未だ幼げな風貌が違和感を消していた。しかし、どこか非日常的な雰囲気を感じさせるのは、彼女自身が発する違和感のせいかもしれない。

「あのね、さっきお電話があったから」

忘れないようにメモしておいたんだよ、と誇らしげに幻太郎に向ける笑顔にため息をつきながらも応じるように、締切まであと少しとなっていた原稿から目を離す。電話とは些か嫌な予感がする、と何用ですかと幻太郎が問えば返ってきたのは出版社からの電話だと言う。

「はな、」

数秒ほど、感覚でいえば10秒近くはあっただろうか。幻太郎がはなの名前を呼びかけるまでには、少しばかりの陰鬱な空気が流れていた。締切まであと僅か、はなに伝言を伝えてもきちんとは繋がらないことを把握しているあちらが、要件まではなに言わなかったのは好都合だと内心幻太郎は息をつく。現時点で来る電話というものには、どうせ締切を早めただとかその類の連絡には違いないのだ。気分屋の上方は何を思っているのか、わざわざ締切を早めたその最終日当日に連絡を寄越してくることがある。どうせあと数時間後には家にまで押し寄せてくるだろう編集に内心ため息をつきながら、仕方なく今後の予定を組み替えた。逃げるが勝ち。上の気まぐれに付き合うことは無い。実際にはまだ数日残っている締切を確保するためには、かくれんぼに興ずるしかないかと、残り三分の一ほど白紙のままである原稿をそっと放置した。

「さて、出かけましょうか」
「お電話はよかったの?」

純粋な疑問をぶつけてくる視線ほど、得意ではないものは無いと思う。はなの視線もまた幻太郎の苦手とするところではあるものの、彼女の場合は微妙にそれとは違っていた。幻太郎の悪癖、と評してしまえばそれまでだが呼吸をするように嘘を吐くそのある種の病を、はなはまっすぐと受け入れる。ただ何を返すわけでもなく、幻太郎がそう言うのならはなにとってはそういうものになるのだと幻太郎自身が理解をしている。電話は良かったのかという質問には、先ほど電子メールにて連絡が来たのだと嘘をつく。

「どんなお話だった?」
「小生達はどうも働きすぎのようなので、気晴らしに遊んでこいと」

ありもしない連絡の内容をでっち上げれば、そわそわと幻太郎の元へ駆け寄るはなを幼児かなにかのようだと毎回のごとく考える。彼女自身、朝から外を見てはそわそわとしていたのを幻太郎は見ていた。何一つ言葉による主張はなかったが、外に行きたいという主張をするにはそれだけで十分であった。大方、昨日眺めていた雑誌で特集されていたケーキか何かにでも興味が湧いたのだろうと薄ら予想を立てて仕事に頭を切り替えたのだが。しばらくすると、はなもまた落ち着きを取り戻し、読書の世界へと身を投じたため、幻太郎も今の今までそのことは忘れていた。

「余はとてもお腹が空いてきました」

いつものような、わざとらしい声色と口調で幻太郎は嘯く。甘いものでも食べたい気分ですね、と張り切ったように張り上げた彼自身、確かに先程まで頭の隅々まで使い切ってきたような感覚さえしていて、糖は足りていないと思っているものの、空腹かと言われればまだ胃の方は満ち足りている。幻太郎特有の優しさを、はな自身は知ってか知らずか。ぱっと笑顔になったかと思えばいそいそと出かける準備を始めていた。

「せんせい!準備できた!」

1秒でも待てないと言いたげに幻太郎の腕を引っ張り出した彼女に、苦笑いを浮かべながら玄関の方へと歩き出す。どうも佐藤はなという人間から向けられる出来すぎた白さには弱いようだと、自分の気質とはまた別のところにある妙な感覚に頭を痛めながら、逃避という名の現実へと今日もまた踏み出した