「『永久に帰れなくなる』?」 いきなり飛びだした強烈なワードに、あかりは頭が真っ白になった。帰れない可能性なんて、考えてもみなかった。だって、神崎曰くここは「夢の中」だというのに。目がさめたらそれで終わりではないのだろうか。自分たちは今、いったいどうなっているのだろうか。しかし、それを尋ねるよりも先に、光球の声が早口で呪文のような解説をはじめた。 「まず、男の子を戻す方法は、『欠けている部分』を埋めること。おそらくあなたは、その空間で『自分自身の一部』を落としている。だから、穴が空いているのよ。鍵になるのは『記憶』。過去のことを思いかえして、抜けている記憶はないか探してみて。それ以上のことは、私にもわからない」 「僕、落としものなんかしてないよ」 神崎はむっと機嫌を損ねて反論した。が、光球の声は返答せず、あいかわらずの早口で先を急いだ。 「それから、あなたたちが帰る方法。それは、入り口に戻ること。自分が一番最初にどこにいたかを思いだして。ほかの出口から無理にでようとすると、今みたいに引きもどされてしまう。少なくとも腕輪だけじゃ(、、、、、、)無理だわ」 「そんな、そんなこといわれても」 現時点でどこにいるのかもわからないのに、「どこからきたのか」など、わかるはずもない。それをそのまま伝えると、声はしばらく黙りこみ、それから、少し落ちついたトーンで答えてくれた。 「わかったわ。それについては、どうにかしましょう。とにかく、絶対に腕輪を外さないこと。男の子のほうも、腕輪の近くから離れないで。いいわね。それと──」 そこまできたとき、唐突に、老女の声が小さくなった。老女が小声になったのではない。明らかに、音声が届いていない。まるで、電波環境の悪い場所で電話しているかのようだった。 「私の……に、特別に……わ。なるべく……ね……」 「ちょ、ちょっと。音が……」 「待ってください! 全然聞こえないんです!」 ふたりは同時に光球へと走って手を伸ばしたが、もう遅かった。光の輝きは徐々に弱くなり、電池が切れた懐中電灯のようにふうっと消えてしまった。とり残されたふたりは呆然と、何もない虚無の空間をみつめることしかできなかった。 「そんな、そんな、嘘」 せっかく、帰り道への糸口をつかめたと思ったのに。手にしたはずの希望は瞬く間に消えうせてしまった。あかりはなすすべなく神崎をみやった。彼は無表情で、ぼんやりと虚空を眺めていた。あかりは不安のあまり、話しかけた。 「これから、どうしよう」 「さあ」 途方に暮れるあかりとは対照的に、神崎の態度は落ちついていた。 「なるようになるんじゃない? 君がしたいようにすればいいよ。帰りたいんだろ?」 「『帰りたいんだろ』って、神崎くんは?」 「どうでもいい」 そこでようやく神崎はこちらをむき、あかりと目をあわせた。 「帰ったって、何かあるわけじゃないし。でも、君が帰りたいっていうのなら手伝うよ」 「それって、帰りたくないってこと?」 神崎は少し唸って、天を仰いだ。本気で考えこんでいるようだった。 「ここにはいたくない。でも、帰りたいってわけでもない。そんな感じ」 なんというふざけた回答だろう。しかし、あかりは怒る気にはなれなかった。きっとこれが、彼の今の正直な気持ちなのだろう。少なくとも、あかりがここを脱出するのを妨害するわけではないし、必要があれば協力するといってくれているのだ。今に限っては、とりあえずそれで十分だろう。 だから、あかりは彼の言動について、それ以上は追及しなかった。これは、彼女の昔からの癖だった。目的を達成するためならば、過程の部分はあまり重視しない。今ここで大切なのは「家に帰る」という目的であって、神崎の個人的な思想などさして問題ではなかったのである。 「わかった。じゃあ、私は帰り道を探す。神崎くんはそれを手伝う。それでいいよね」 何もヒントがないのに帰り道など探しようもないのだが、それは一旦おいておこう。とにかく、これで神崎との話はまとまった。しかし、最後にもうひとつ、気になることがあった。 「ねえ、『あの子』は?」 そう、「あの子」──神崎に傷つけられ、瀕死状態になっていた子供がいないのである。最後にみたのは、「壁」に吸いこまれる寸前だ。あれきり、子供とは離ればなれになってしまっていた。 「知らない。あんなのはほっとけばいいよ。どうせまた、再生してどっかからでてくるさ」 神崎は心底気にしていないようだった。子供に手をかけた張本人なのだから、当然といえば当然だろう。本当にひどい人だ。あかりはぐっと唇をかみしめ、批判的な視線を神崎に送った。それに気づいた神崎は機嫌をそこねたのか、はねつけるように言葉を投げてよこした。 「どうしてそんなに、あれにこだわるわけ?」 「どうしてそんなに、あの子を嫌うわけ?」 じっと待ったが、神崎は答えなかった。彼は怒りをたぎらせた瞳でこちらを睨みつけ、何かをいおうとしていたが、考えが変わったのか、口をぎゅっと引きむすび、そのままうなだれてしまった。 そのとき、神崎の黒く染まった腹部から、サラサラと、黒い砂のようなものが流れだした。砂は、神崎の足もとに流れおち、それから、風に吹きあげられたかのように高く舞いあがった。そして── 「ぼく、いるよ」 白い服を着た、小さな子供へと変わった。 傷も汚れもなかったが、間違いなくあの子供だった。 「無事だったんだ!」 再会の喜びを抑えきれず、あかりは思わず子供にかけよった。子供は心から嬉しそうに、少し頰を赤くして笑った。 「あのね、ぼく、ちゃんといるよ」 「そうだね。本当によかった」 あかりは子供を抱きあげた。やはり、空気のように軽かった。 「今まで、どこにいたの?」 「ぼく、ずっといるよ。最初からちゃんといるよ」 残念ながら、あまり言葉の通じる子ではなかったらしい。だが、そんなことはたいして問題ではなかった。あかりは子供との再会に安堵したのち、彼の名前を知らないことに気づいた。 「ねえ、名前はなんていうの?」 「ええとね、ぼくの名前はね」 子供がその続きをいおうとした瞬間だった。神崎が、鬼の形相で、これ以上ないくらいに声を荒らげて怒鳴った。 「うるさい! 黙らないと殺すぞ!」 あまりの声量に、あかりは身をすくませたまま、その場から動けなくなってしまった。子供もそうとう驚いたようで、さっきまでの笑顔はどこへやら、真っ青な顔で震えだしてしまった。泣きこそはしなかったものの、みひらいた瞳にはじんわりと涙の膜がはられていた。 「何、いってんの……?」 あかりはいよいよ、神崎がわからなくなってきた。非常識な一面はあるものの、話の通じる人だと思っていたのに。やはりこの人は頭がおかしいのではないだろうか。彼と一緒に行動することを選んだのは、間違いだったのかもしれない──そんな考えが頭をよぎった頃、神崎はハッと我に返ったかのようにあかりを見、「あ、いや」としどろもどろに弁明をはじめた。 「違うんだ。大声だしてごめん。ただ、その、そいつに喋らせるのはやめてほしいんだ」 「私たちの会話が耳障りだってこと?」 「違う、違うよ。ただ、そいつが喋ること、聞きたくないんだ。本気で嫌なんだ。僕のこと変だと思うかもしれないけど、でも、やめてほしいんだ。頼むよ。悪気はないんだ」 あかりは子供の様子をうかがった。子供はショックと恐怖ですっかり凍りついていた。たとえ会話を許されたとしても、自ら話をしてくれることはまずないだろう。 「静かにしていたら、この子に何もしない?」 「しないよ、約束する」 あかりは少し考えた。神崎を切りすてるか、一緒に行動するか。怯える子供を守るためには、神崎とは離れたほうがいいだろう。だけど、この先、あかりひとりでどうやって家まで帰ればいいのだろう。正直、この寂しい場所にひとりおきざりにされるのはつらいものがあった。それに、老女はふたりに「腕輪から離れるな」と忠告した。腕輪はあかりがつけているので、ふたりが別れると必然的に忠告にそむくことになる。無事に帰るためにも、あの人の言葉に逆らうことだけは避けたかった。 「わかった」 結局、あかりは今度も神崎と組むことを選んだ。といっても、彼への信頼はかけらも残っていなかったため、子供はあかりの腕でしっかりと抱(いだ)かれることとなった。 「ここは前とは違う場所みたい。とりあえず、何があるのか歩いて調べてみよう。はぐれないようにしてね」 神崎は力なくうなずいた。今の彼には一時(いっとき)のぶしつけな態度もなく、借りてきた猫のようにおとなしくなっていた。そして、いわれるがまま、とぼとぼとあかりのうしろをついてきた。 神崎という人は本当によくわからないな、とあかりは思った。急に暴力的になったり、しおらしくなったり、ぺらぺら喋りだしたりと、まるで落ちつきがない。いつになったら、この人から解放されるのだろうか。 そういえば、今は何時なんだろう。あかりは空をみあげた。チラチラ輝く偽の星空では、現在時刻などわかるはずもなかった。