まぶたを持ちあげると、そこには布をとられた鏡面があった。 あかりは、自分の右手を左手で握りしめたまま、床に転がっていた。 そこは室内だった。部屋の中は真っ暗で、窓から差しこむ街灯の光だけが室内を照らしていた。あかりはよろよろと起きあがると、重い身体を引きずって歩き、電灯のスイッチを入れた。 予想していたとおり、そこはあかりの自室だった。日はとうの昔にとっぷりと暮れていて、時刻はすでに七時をまわっていた。 現実だ。何もかも。 じゃあ、あれはなんだったのだろう。 「夢」だ。 誰の夢だったのだろう。 自分だけの夢だったのだろうか? あの場所にいた人たちは、どうなったのだろう。 それ以上は、考えるのも恐ろしかった。 あかりはすべての問題を先送りし、まずはドアをあけた。 なぜだかわからないけれど、ものすごく喉がかわいていた。 「あかり!」 階段をおりていくと、玄関で母が棒立ちになっていた。手には電話を持っていた。きちんと化粧をして、鞄も持っている。どこかへでかけようとしていたのだろう。 「いつの間に帰っていたの。あまりにも帰ってこないから、こっちから迎えにいこうと思っていたのよ」 あかりはぽかんとして、母をみあげた。自分は学校から帰宅している。母もそれは知っているはずだ。そのあとは、どこにもでかけていない。しかし、母は真剣な顔で話をつづけた。 「ルリちゃんの家にいっていたんでしょう。でかけるときはひとこといいなさいって、いつもいっているのに。ルリちゃんのお父さんがお迎えはいいですっていうから、ずっと待っていたのよ。でも、あんまりにも遅いから、迎えにいこうと思って。もう、望月さんったら、電話しても、ちっとも繋がらないし、メッセージも読んでくれないし……」 もちろん、あかりはルリの家など訪れていない。もし、今の今まで「夢」をみていたのだとしたら、あかりは自室で眠っていたことになる。頻繁に部屋を掃除しにくる母が、それに気づかないということはまずない。では、あかりは今までどこにいたのだろうか? ──もしかして。 先刻の、ルリの顔が脳裏をよぎった。彼女は「また学校でね」といっていた。もし、あれがただの夢じゃないとしたら。 「あら、望月さんから電話だわ」 母の端末から着信音が鳴った。母はその場で一分ほど電話をしていたが、電話を切ると、なぜか微笑んであかりの頭をなで、リビングへと引きかえした。 「これから、用事まではきかないようにするわ。でも、行き先だけは教えてね。心配になるから……さあ、もう七時だからご飯を食べてね。明日も早いんだから」 母は、それ以上は何もいわなかった。そして、リビングでいつもどおりに食事の配膳をはじめた。 ルリの父はいったい母に何をいったのだろう。なぜ、母はあんなにも機嫌がいいのだろう。なぜ、自分はルリの家にいったことになっていたのだろう。 大量の疑問は解決されることのないまま、その日は終わってしまった。あかりはいつものように床につき、翌朝、いつもと同じ時刻に起床した。 朝の支度をすませて朝食をつついていると、玄関のチャイムが鳴った。ルリが迎えにくるには少し早い時間だった。 「ルリちゃん、今日はずいぶん早いのね。食べおわるまで、玄関で待っててもらう?」 「ううん、もういく」 あかりは皿の目玉焼きを口に押しこんで席を立った。きっと、話したいことがあるから早くきたのだろう。あかりのほうも、話したいことは山ほどあった。 玄関のドアをあけると、そこにはたしかにルリがいた。ところが、その隣にもうひとり、あかりを待っている客人がいた。しかも、ふたりの客は人の家の門前で大喧嘩をしていた。 「だから、嫌だってば!」 「自分勝手だな!」 「あたしはあかりに話したいことがあるから早くきたの。今しか話せないの。あとにして!」 「僕だって話したいことがあるんだよ。君こそ邪魔だよ!」 近所迷惑なので本当にやめてほしい。あかりはとりあえず、見慣れないほうの客に声をかけた。 「神崎くん、なんでここにいるの?」 そう、ルリの隣であかりを待ちうけていたのは神崎遠也だった。神崎はあかりに気がつくと、恨めしそうにルリをみやってから、真剣な表情でこちらに直った。 「どうして僕がここにいるか、わかる?」 残念ながら、はっきりとはわからない。ただ、どういう意図をもってここへきたのかは、なんとなくわかった。 「やっぱり、昨日の『夢』のこと?」 そう告げると、神崎はみたことのない笑顔になり、嬉しそうに「覚えてる?」と返してきた。これまでの鬱々とした顔つきが嘘のようである。彼にこんな明るい表情があるとは知らなかった。 「僕、昨日の『約束』を果たしにきたんだよ。でも、学校で話しかけようとしても、すぐどこかへいっちゃうだろ? だから、学校の外で話そうと思って」 そう、あかりは神崎と「約束」を交わしていた。無事に帰ることができたら、あの「子供」について教えてくれると。 それ自体については理解できた。しかし、問題はそこではなかった。 「なんで私の家を知ってるの?」 「昨日の朝に斎藤さんが教えてくれたよ。もっと近所に住んでると思ってたから、びっくりした」 ナミのことだ。あかりは思わず地面に崩れ落ちそうになった。斎藤ミナミはとにかく口が軽い子なのだ。だが、家の件についてはあかりも人のことをいえなかった。 「神崎くんが住んでるの、坂瑞口(さかみずぐち)でしょ? ここ、駅から学校とは反対方向だからそうとう遠いよ」 「平気だよ。普段より一時間早くでてきただけだし」 「家の人になんていったの?」 「何もいってないよ。勝手に準備して勝手にでてきた」 その言葉を聞いたとたん、あかりの脳に神崎の母の真っ青な顔がフラッシュバックした。今頃、彼の家は大騒ぎになっているに違いない。 あかりは無言で家に戻って靴をぬぎ、リビングへいって通話機能だけがついている自分の携帯電話を手にとった。 「まだ家にいたの? そんなもの持っていっちゃだめよ」 リビングにいた母が、仰天して玄関までついてきた。しかし、あかりは一切動じなかった。 「わかってる。すぐに戻ってくる」 あかりは淡々と答え、また靴をはくと玄関から外へでた。ドアをあけると、背後から母の「あら、今日はお友達が多いのね」という呑気な声が聞こえた。ルリと神崎は唖然として突っ立ったまま、こちらをみていた。 あかりは大股で神崎の目の前まで歩くと、ずいっと電話を差しだした。 「家に電話しなさい。お母さんに心配かけちゃだめ」 それから、ルリをふりかえっていった。 「悪いけど、今日は先にいってて。話は帰りに聞くから」 このふたりなら、優先するのは神崎だ。あかりは直感でそう判断した。彼は家も遠いし、放置しておいたら何をしでかすかわからない。ルリなら、放課後でもゆっくり話はできるだろう。 退去を命じられたルリは、残念そうにこちらをふりかえりながら、ゆっくりと角を曲がっていった。神崎はというと、いまだに電話を前に文句をいっていた。 「連絡なんて必要ないよ。いつもこんな感じなんだから」 「それがよくないっていってるの。こんな状態じゃ話なんてできないでしょ」 神崎はずっと渋っていたが、とうとうあかりの圧に負け、電話機を手にとった。案の定、電話のむこうからは悲鳴に近い叫び声が聞こえていた。神崎はなかば強引に通話を切ると、ムッとした表情で電話をこちらによこした。 「細かいこと気にするんだね」 「全然細かい問題じゃないよ。電話おいてくるから待ってて」 あかりは電話を母に渡し、帰りが少し遅くなる旨を伝えてから、ようやく家の敷地の外へとでた。