水面はアンジュの言葉に呼応するように水面を波うたせ、それまでの光景をゆるやかに洗い流してから、とある場面を映しだした。 そこは、白い部屋だった。床だけはつるつるしたベージュのフローリングだったが、四隅の壁は白く、その中央に置かれたベッドもまた白い柵と白いシーツで覆われていた。 ベッドには小さな子供が眠っていた。その顔を見て、アンジュは息をのんだ。その人物の顔が、アンジュに無断で姿を変えた、ストラのものと完全に同じだったからだ。 「知らなかった。本当のストラはこんなに小さかったのか」 エイイチはただならぬ様子でその子供を見つめていた。彼に対して、何か思うことがあるようだった。 子供の顔は血色が悪く、人形のように大人しく横たわっていた。部屋は明るく清潔だったが、やたらとたくさんの機械類が置かれている。子供の身体からは大量の管が伸びていて、周囲の機械に繋がれていた。それはまるで、彼の身体を縛りつける鎖のようにも思えた。 アンジュは何も言わず、子供の観察を続けた。現時点では、彼の境遇が虹の国よりよいものかどうか、判別がつかなかったからだ。 『お待たせ』 ふいに部屋の入口の戸があけられ、ひとりの女性が入ってきた。彼女は小さな花の塊を抱えて子供の枕元へと歩みより、嬉しそうに話しかけた。 『このお花、かわいいでしょう。ブリザードフラワーっていって、枯れないお花なのよ。この部屋は何もなくて寂しいから、これを飾ろうと思うの』 子供は一切の反応を示さない。当然だ、本人の意識はこの身体ではなく、虹の国にいるのだから。しかし、女性はそんなことは気にもとめずにしゃべりつづけている。なぜ、そんな無意味なことをするのだろう? アンジュにはわけがわからなかった。ただ、ひとつだけはっきりとわかるのは、この女性はとても優しそうだということだった。 女性は花を置いたあとも、長々と話を続けていたが、やがて電池が切れたラジオのようにぴたりと口をとざしてしまった。そして、子供の手をとり、その存在を確かめるように何度も撫でまわした。 『ねえ、ちゃんと、ここにいるのよね?』 震える声でなされた質問に、答える者はいなかった。しかし、女性は質問を続けた。 『また目を覚ましてくれるわよね。ママとおしゃべりしてくれるわよね? お家に帰って、パパやお兄ちゃんと一緒に暮らしましょう。みんな、ずっと待っているんだから』 女性が「お兄ちゃん」という単語を口にした瞬間、エイイチは右手で口もとを覆い、勢いよく立ちあがった。 「ごめん、僕は外すよ。これ以上は見ていられない」 そう言うと、彼は足早にその場を去ってしまった。残されたアンジュはひとり、水面の監視を続けた。 女性はしばらくすると絵本をとりだして読み聞かせをはじめた。子供のほかに聞き手がいないにも関わらず、彼女は朗々と本を読みあげ続けている。その行為に何の意味があるのか、アンジュにはわかりかねた。 もう戻らない子供のために話をし、本を読む。目をとじて口をきかない子供のそばに、ずっと寄りそっている。 この人間は何者なのだろう。 「遅くなったな」 女性が朗読を終え、本をとじた直後、部屋に別の人間が入ってきた。今度は男性で、その後ろには水色の直線的な服を着た男性がいた。彼らはベッドの横にある椅子に腰かけ、長い間、何やら小難しい話をしていた。アンジュはその話には耳を傾けなかった。聞いたところで理解の及ぶものではなさそうだったからだ。ただ、話からこぼれてくる単語を拾うことで、話をしている人間の種類だけは判別できた。あの部屋にいるのは、子供の両親と医師のようだ。つまり、起きない子供を構っていた女性は彼の──ストラの母だったのだ。 「残念ですが、これ以上私たちにできることはありません」 医師らしき男性が、低い声でそう告げるのが聞こえた。 「もう、意識が戻ることはないでしょう」 「そんな……」 女性──妻は膝から崩れおち、夫はそんな妻を抱きかかえたまま、黙りこくっていた。その後も女性は医師に、子供を覚醒させる術を問いただしていたが、有用な答えは得られなかったようで、ぐったりとその場に座りこんでいた。 アンジュは困惑しつつ、水面の映像を切った。これだけ見れば、もう充分だった。 ──ストラはここにいるべきじゃない。外へ戻るべきなんだ。 かつてのエイイチの言葉が脳裏によみがえった。 あのとき、アンジュはエイイチの主張が理解できなかった。ストラは自分と同じように外の世界でつらい目にあっていて、虹の国にいるほうが幸せに決まっているのだと決めてかかっていた。 しかし、彼は今、綺麗な部屋で柔らかなベッドに寝かされ、起きもしないのに母親に話しかけられている。あの人はベッドの子供と口をききたくてたまらないのだ。 ──わたしは間違っていたの? アンジュは混乱した。それは、これまで正しいと信じてやまなかった行動が、動かぬ証拠を通じてはっきりと否定された瞬間でもあった。 どうすればいいのだろう。 どうするのが、正しいのだろう。 悩みに悩んだすえ、彼女はストラを探すことにした。本人に会って訊くのが一番だと考えたのだった。 ストラはすぐに見つかった。彼はエイイチを探して虹の国を端から端まで歩きまわっていた。アンジュは彼をつかまえ、単刀直入に切りだした。 「ねえ、ストラ。国の外へ行きたい?」 「うん、行きたい。すごく楽しい場所だってエイイチに聞いたよ」 ストラは間髪入れずに首を縦に振った。悩むそぶりは微塵もなかった。 「下界には『特別な日』っていうのがあって、そういうときは国の外にでることが許されるんだって。でもね、外にでるには下界に『大切な人』がいないといけないんだって。でもぼく、下界に知ってる人がいないんだ。だから、次にエイイチが外へ行くとき、ぼくもついていこうと思うんだ」 アンジュは目を細めた。たしかに、一部の特別な『日』においては、虹の国の門は開放される。そして、短い間だが、虹の住人も直接下界に行くことが許される。けれど、行ったからといって下界の住人と意思疎通ができるわけではない。ただ、誰にも気づかれずに透明な存在として下界を見物することしかできない。それは、ストラが望んでいる形での「外へ行く」とは異なるだろう。 「ねえ、そのときはアンジュも一緒に行こうよ」 ああ、この子は何もわかっていない。 無邪気なストラの笑顔は、ナイフのようにアンジュの胸を抉った。 この子は知らないのだ。本当は帰るべき場所が別にあることを。もっと大勢の人々がいて、絶対に退屈しない居場所があることを。そして、その帰り道を閉ざしているのがほかでもないアンジュであることを。 「わかったわ。外へ連れていってあげる」 アンジュは覚悟を決めた。この子にとっては、あの世界(、、、、)こそが幸福なのだ。ここにいるべきではない。 「外へ行けるの?」 「ええ。今なら、まだ」 「どうやって? 勝手にでたらフォッグに捕まるよ? 女王様に怒られるだけだよ?」 アンジュは答えず、目をぱちくりさせて質問をくりかえすストラの手をとり、門へと誘った。 門の風景はいつもどおりだった。アンジュは瞳をとじてふうっと息を吐き、顔をあげて、無人の門にむかってはっきりと宣言した。 「ストラを下界へ帰すわ。門をあけさせて」 すると、ガチャリと音がして、門がほんの少しだけひらいた。アンジュは門の柵をつかみ、渾身の力で引っぱった。門は重く、ギリギリと鈍い音をたてながら動いた。 ──本気なのですね。 どこからともなく、聞き覚えのある声が聞こえた。アンジュはハッとして振りかえったが、そこには戸惑うストラの姿しかない。ストラの様子を見るに、この声はアンジュにしか聞こえていないようだった。 ──ストラはずっと虹の国に引っぱられ、ほとんど完全に虹の住人と化しています。あと少しで、完全に下界との繋がりは断ち切られるでしょう。そうすれば、この子は永遠に外へはでられません。 「まさか、女王様……?」 この特徴的な声と喋りは、間違いなく虹の女王のものだ。 ──そうですよ、罪深きアンジュ。この声はあなたにしか届いていません。よく聞きなさい。 女王の声はいつもどおり、感情がこもっていなかった。しかし、アンジュはその声に身がすくむ思いがした。どこか冷たく、突き放したような印象のその声は、淡々とアンジュにある事実を告げた。 ──ストラはあまりにも長く虹の国に滞在しすぎました。彼の心はもう、完全に虹の国へと移りつつあります。もうすぐ、下界との繋がりは断ち切られるでしょう。今、あなたがひらいている門をとじれば、ストラは二度と下界へは戻れなくなります。逆に、このまま門から外にでてストラを下界に戻せば、ストラがあなたと再会することは二度とないでしょう。そしてアンジュ、あなたもまた虹の国を追われるでしょう。ストラを身勝手に虹の国に引き入れ、そして追いだした罰として。どちらを選ぶかはあなた次第です。 アンジュは両手で門の柵を握ったまま、立ちつくしてしまった。ふたつの門扉はアンジュが動かしたおかげで少しずれており、ようやく人ひとりが通れる程度の隙間が空いている。 この隙間をとじて、すべてをなかったことにすることもできる。 そうすれば、ストラはいつまでも外の世界に焦がれて暴れるだろう。エイイチは心底アンジュを軽蔑し、口をきいてくれることはないだろう。ストラはエイイチを敬愛し、アンジュから離れていくだろう。そしてアンジュはまた、遊び相手のいない退屈な時間を過ごすことになるのだろう。心の中に、ストラへの罪悪感を抱いたまま。 「わあ!」 門の隙間をくぐったストラは、はじめて見る門の外の光景に歓声をあげた。普段は柵ごしにしか見えていなかった世界を生で見られたことが嬉しいらしかった。 「すごい、すごい。ここから下界に行けるんだね?」 ストラは飛び跳ねながら雲海の端まで行くと、興奮ぎみに下を覗きこんだ。その背後で、アンジュは両手を強く握りしめたまま、彼の姿をじっと目に焼きつけた。虹の住人として「ストラ」と呼ばれてきた彼を見るのは、これが最後になる。 「ストラ、本当に下界へ行きたい?」 「行きたい! ここから、どうやって行くの?」 ストラは目を輝かせてこちらを振りかえった。その笑顔のまぶしさに耐えられず、アンジュは目をそらした。 これが永遠の別れになることは、伝えられない。アンジュはストラを国に引き入れたときから、今までずっと「真実」を隠してきた。ずっと隠してきた以上、いざ国を去るときになって都合よく「真実」を伝えて引き止めることは、女王が許さなかった。もし「真実」をばらしたら、アンジュは罰を受けてストラと引き離され、ストラは永遠に国に閉じこめられ続ける──女王はそう言ってアンジュを脅した。 「行くのは簡単よ。ここから飛び降りればいいだけ」 それでも、アンジュは諦めきれなかった。だから、なんとかして彼を止めようと、ぎりぎりのところで説得を試みた。 「でも、この先はとても危険よ。もしかしたら、もう二度と虹の国へ帰ってこられないかも。そしたら、わたしとも会えなくなるかも。それでもいいの?」 もし、この言葉にストラが不安を抱いてくれたら。やっぱり虹の国がいいと言ってくれたら。そうしたら、今すぐ門へ駆けもどって、すべてをなかったことにしてもらおう。アンジュは密かにそう考えていた。 「いいよ。ぼく、それでも外へ行きたい! 大丈夫だよ、ちゃんと帰ってくるから」 だけど、彼の心はアンジュではなく、外側の世界へとむいていた。彼はアンジュになど興味はないのだ。虹の国に、未練などないのだ。 ああ、もう、どうすることもできない。 アンジュはぐっと歯を食いしばって涙をこらえた。泣いたら、理由を訊かれてしまう。そうしたら、真実を話さなければならない。それはできない。 アンジュは、ストラを雲の果てへと連れていった。そこから先に地面はなく、上も下も、青い空が広がっている。そして、この空のはるか下には、「下界」と呼ばれる、よくも悪くも刺激的な世界が広がっている。 「行こう、アンジュ」 ストラは身体を外側に捻ったまま、右手をこちらに差しだした。手を繋いで、一緒に行こうという合図なのだろう。だが、それには従えない。アンジュはできるかぎり明るく微笑み、できるかぎり優しい声で、最期の言葉を告げた。 「ごめんね、ストラ。わたしはこの先へは行けないの」 その言葉に引きよせられるように、ストラの身体はこちらへとむいた。「どうして」と言わんばかりに、その瞳が無邪気に見ひらかれる。 「さよなら」 アンジュはストラの両肩を掴み、その身体を力いっぱい押して、雲の崖から突き落とした。 ストラは言葉を発する間もなく、下方に広がる空の彼方へと吸いこまれていった。 「それが答えか」 気づくと、アンジュのすぐ後ろにはフォッグがいた。そして、その場でアンジュの両腕を背後にまわしてきつく縛りあげた。 「女王様のご命令だ。虹の住人を追いだした罰として、おまえには檻に入ってもらう」 ああ、もとに戻ってしまった。何もかもが、なかったことになってしまった。 わたしはまた、あの檻に戻る。当分、虹の国に戻ることはないだろう。戻ったとしても、大好きだったあの子に再会することなないだろう。 アンジュは顔をあげ、眼前に広がる青い空をじっと見つめた。この美しく悲しい光景をしっかりと心に刻むために。次にこの場所に来られたとき、ストラのことを思いだせるように。 ──天空の物語 完